闇に落ちた不平士族
市井の連中は文明開化だの四民平等だのとといった美辞麗句に浮かれているが、この明治という新時代は儂のような士族にとって、まるで生きる値打ちのない暗黒の世でしかなかった。
家禄を始めとする武士の特権は次々に剥奪され、授産金を元手に始めたメリヤス事業も結果は惨憺たる物だった。
先祖伝来の土地や家財は言うまでもなく、家族さえも失ってしまった今の儂には、散髪脱刀令を無視して腰間に帯びた二本差しがあるばかり。
そうして坂を転がるように墜ちていった結果、今では腰の大小に物を言わせた用心棒や暗殺を生計の道とする裏稼業の身の上だ。
だが、そう都合良く抗争の助っ人や殺しの依頼が舞い込んでくる訳でもない。
大口の依頼が来るまでは、掏摸や追い剥ぎで小遣い稼ぎをするのが常道だ。
暗殺のように特定の相手を狙うのではなく、あくまでも小遣い稼ぎである以上、その標的も弱くて大人しそうな御しやすい相手が望ましい。
その点、あの黒い着物を纏った爺は手頃な標的と言えた。
殆ど白くなった髪と髭や顔に刻まれた深い皺を見る限り、少なくとも古希は越えているだろう。
オマケに人通りの稀な裏道を黄昏時に一人で歩んでいるのだから、無防備である事この上ない。
それでいて随分と重たそうな風呂敷包みを後生大事に抱えているのだから、狙うには最適の相手だった。
予想通り、爺を制圧するのは赤子の手を捻るように簡単だった。
当て身を食らわせてよろけた所に、鞘の小尻をお見舞いする。
それだけで、相手は物の見事に突っ伏してしまった。
「ふん、他愛も無い…爺、この風呂敷包みは儂が頂戴致すぞ!」
「ああ、何をなさいます?それは大切な物なのです!御返し下さい、御武家様!」
必死の形相で取り縋ろうとする爺を蹴倒すと、奴の風呂敷包みを小脇に抱えて一目散に駆け出した。
頭巾で顔を隠しているので此方の素性が露見する心配はないし、この一帯は人影の疎らな廃村だから見咎める者もない。
この時の儂の脳裏に過っていた思考は、抱えた風呂敷包みの中身が何かという疑問と、それを如何にして安全に換金するかという考えだけだった。
住民の消えた廃村に残る、半ば風化しつつあった廃寺の本堂。
そこに身を寄せて人心地をつけると、先の風呂敷包みの荷解きに取り掛かった。
「後生大事に爺が抱えていた事から察するに、さぞや価値のある品物に違いない…」
そう呟きながら風呂敷を解いた所、中から出てきたのは木箱に収められた小汚い壺だった。
薄汚れていて見るからに安物ではあるものの、口の部分に施された厳重な封印には期待が持てそうだ。
「これは恐らく、小判や一分銀等を貯めて何処へと埋めていたのであろう。」
そうして期待に胸を踊らせながら封を解いた次の瞬間、利き手の甲に鋭い痛みが襲い掛かったのだ。
「ぐあっ!」
思わず引っ込めた利き手の甲には、小さな噛み傷が点々と残っている。
青大将のような小蛇にでも噛まれたのだろうか。
「くっ…何なのだ、これは…!?」
痛みと苛立ちに毒づきながら壺を覗き込んだ刹那、儂は声を失って硬直した。
薄汚れた壺の中には、見るも悍ましい物が詰まっていたのだ。
毒蛇に毒蜥蜴、毒百足に毒蝦蟇。
それに蚕や虱に、名も知らぬ甲虫や芋虫達。
そうした無数の毒虫達が壺の中で犇めき合うだけでなく、互いに食い合って殺し合っていたのだ。
先だって利き手の甲を噛んだ蛇も、恐らくはその一匹なのだろう。
此の世の物とも思えぬ、悍ましさと恐ろしさ。
それに打ちのめされて呆然としていた儂は、妖しい気配の襲来に遂に気付く事が出来なかった。
後ろを取られて致命的な事態に至る時まで、遂に…
「ですから私は申し上げたのですぞ。『御返し下さい、御武家様!』とのぉ…年寄りの忠告は粗末にせん事じゃ、御武家様。」
嘲りの響きを帯びた皺だらけの声は、つい先程に聞いたばかりだった。
「爺…貴様の仕業か…?」
「物の道理や値打ちも知らずに、我等の蠱毒の儀式を邪魔立てしおるとはのう。全く…とんだ痴れ者の御武家様じゃ。」
器の中へ閉じ込めた大量の毒虫共を殺し合わせ、生き残った最後の一匹を呪詛の媒介とする禁断の秘術。
この蟲毒厭魅の呪術は、若き日に習った漢学の知識として聞き齧った事がある。
すると、この爺は誰かを呪殺しようと企てているのだろうか。
否、爺一人の仕業ではなかった。
蛇に噛まれた毒が回り始めて気付くのが遅れてしまったが、いつの間にやら儂は囲まれていたらしい。
取り囲んでいる人影は老若男女と様々であったが、喪服を思わせる黒装束と憑かれたような眼差しだけは爺に瓜二つだった。
恐らくは爺の手の者で、儂を害する算段なのだろう。
「この者で御座いますな、黒主崇教の神聖な蟲毒を冒涜した不心得者は?」
「不信心者には裁きの鉄槌を。それが我等の定め…」
そして爺も含めた黒装束の者達は、「黒主崇教」という邪教を崇める狂信者の一団であるに違いない。
「うっ…うぬっ…」
やっとの思いで抜刀したものの、それが精一杯だった。
指先の痺れで刀を取り落とした儂は膝から崩れ落ち、そのまま爺の足元に倒れ伏してしまったのだ。
「蠱毒の儀式は仕切り直しじゃが、毒虫共に冒された此奴の血肉は我等の呪法に役立つであろう…黒主崇教の教えに導かれし我等が栄光を得る為にも、御武家様には贄となって頂きましょうて!」
薄れ行く儂の意識が最期に知覚したのは、皺だらけの顔を醜く歪めながら哄笑する爺の化け物染みた姿だった。
盗みや人斬りを行う外道に墜ちた挙げ句、狂信者の手に落ちて邪教の供物として葬られる。
何とも不甲斐なくて惨めな最期だが、武士道を見失った亡八者には相応しい末路であろう。
そう自嘲しながら、儂は意識を永遠に手放した…