第三話
デンシャに揺られてしばらくと、着いたエキから歩いてしばらく。そうしてようやっとたどり着いたのは、二階建ての長屋であった。庶民の生活の場である長屋が二階建てというのもとても珍しいが、それよりも何よりもわしの目を引いたのはその小ささだった。一軒家にしても小さな建物に、ドアが四つ。二階もあるから計八つ。見た目から想定される中の部屋はとても狭い。
「なんじゃここは。ウサギ小屋か何かか?」
「私の家です。築四十年のボロアパートですけど」
外付けの階段を登って、二階の一室へ。古い金属の擦れ合う音を立てて鍵の開いたドアは蝶番を軋ませてわしを迎え入れた。
見た目から推測した通り、中は狭い。狭いが、それなりに整えられていて生活はしやすそうだ。
「靴、脱いでくださいね」
板張りの床から一段低い入口で、踵の高い靴を脱いだエマ。長い時を生きてきたわしでも家の中では靴を脱ぐしきたりなど見た事も聞いた事も無い。靴を脱ぐなど布団に入る時だけであった。ここが地獄だからか、ニホンとやらだからかはわからんが、そういった決まりがあるのだろう。郷に入っては郷に従え、布で出来た靴を脱いで板張りの床を踏んだ。
「はぁ、お腹すいた。急いでご飯にしますね」
「わしも腹が減ってかなわん。しかし今から用意するとなると時間がかかるのでは?」
「いつも簡単なもので済ませてます。手の込んだものは作れませんが、美味しいものは作りますから」
指先で示された椅子に腰掛けて、食事の支度を観察する。取っ手らしきものを上げてじゃーっと勢い良く水が出しては、かちっと音のする何かを押し込むだけで火が起きて。これは魔法か、魔法でなければ説明がつかん。かと言って魔女であったわしでも取っ手を持ち上げれば水が出るような魔法は知らん。火起こしの魔法はあるにはあったが、薪も焚き付けもない場所でその魔法を使っても意味は無い。動作一つで魔法を行使出来る術式、それを長屋に組み込んでいるということは、行使できる人間がどんな者であれ行使出来るような高度な術式である事に気付くのも容易で。この家を建てた者はかなり高度な魔法の腕を持っているようだ。
「おまたせしました」
「……なんじゃこれは」
エマに差し出された大きな器には、なみなみ注がれた濃い茶色のスープとそれに漂う白い……細縄か?
「地獄に、ニホンに住む民は細縄を煮込んで食わねばならぬほど困窮しておるのか?」
「細縄って。これはうどんって言います。小麦粉を練って作った麺です」
「これが小麦じゃと?」
「え? ……あの、どんな食生活されてきたんですか?」
「どんなも何も、挽いた小麦を焼いてパンにするか、麦の粒を煮て粥かスープにするかくらいじゃぞ」
「どんな文明レベルですか!」
「どんな文明も何も……。何と説明したものか……。ほとんどの民が農耕に明け暮れ、ひと握りの民が貴族や教会の人間やら……。栄えた街に出れば憲兵にどやされる吟遊詩人もおったのう……」
「絵に書いたような中世のヨーロッパですね……」
「わしはそんな国で魔女として生きておった。薬や行使した魔法の対価にと人々から小麦を分けてもらって、それを食っておった訳じゃな」
「はぁ……なるほど……、それで……。……あ、早く食べなきゃ伸びちゃう。話は後にして食べちゃいましょう」
「それで、これはどうやって食うもんじゃ?」
「え? 普通に啜って……」
「手掴みでええのか?」
「そんなことしたら火傷しちゃいますって! お箸出してますからそれ使ってください!」
「ハシ……。まさかこの細っこい棒っきれの事か?」
エマがその右手に握る棒っきれ二本、わしの目の前に置かれた器にも似たようなものが添えられている。こんな棒っきれ二本でどう食えばいいのじゃろう。
「お箸も知らない……嘘でしょう?」
「嘘では無いわえ。飯を食うには匙か、手掴みが当たり前の国じゃ。何せ日々の食事がパンとスープくらいなものじゃったからな」
「どうしよう、フォーク使えます?」
「フォーク……それも知らんなぁ……」
「お箸よりはまだ使いやすいはずです。これ使ってください」
そんな言葉と共に差し出されたフォークとやら。木製の柄に金属で出来た四つ叉の……槍か? 金属製の食器とは、随分豊かな暮らしぶりじゃ。ニホンという場所は本当によくわからん。エマの手元を見れば、ハシとやらで器用につまみ上げてちゅるちゅる啜っている。食うにはとにもかくにも口に運ばねばならん。フォークでウドンを掬おうとしてみるがつるんつるん逃げてしまう。ニホンという国はとんでもなく面倒くさいものを食うておるな。こんな細縄のような見た目のものを食わねばならんような困窮した民がいるかと思えば、そんな民が金属製のカトラリーを持てるとは。そうじゃ、先程エマが金属製に見える鍋を使っておったが、あれも随分と値が張るに違いない。ほんにこの地獄は、ニホンという国は、よくわからん。細縄みたいなウドンと、贅沢に塩を使ったしょっぱいスープを何とか口にして、空っぽの胃袋を満たした。