第二話
「は、腹が減った……」
とっぷりと日の暮れた街中、空腹を抱え座り込むばばあが一人。いや、ばばあと自称するのは間違いか。しかしわしは年老いて死んだ魔女としての記憶がある、ならば精神はばばあのままか。街の大きな硝子窓に写ったわしの姿はどう言った訳だか、三十路に差し掛かったばかりの女に見えた。顔は見覚えがある。まだ幼い弟子達と共に暮らしておった頃の姿まで若返っておるようだ。昼間の禿頭が疑問符を浮かべていたのもこの姿なら説明がつく。自分よりもずっと歳若い女に説教をされたのだから。
纏っていたはずの寝間着は街の人間達に馴染むような形のものに変わっている、それ以外に持ち物は何も無い。今のわしが行くべき所を示した走り書きも、この空腹を満たすだけの銭も無い。あの街のあの家があったなら薬を作ってそれで日銭を稼ぐ事も出来ただろうに。今のわしにはパンの一切れを買う事も叶わなんだ。街の人々からおばば様だのと呼ばれ慕われておった魔女の、何と落ちぶれた事か。
「すいません」
膝を抱えて蹲る頭に声が降ってくる。誰じゃ、わしの思考を妨げる者は。顔を上げれば青い上着に青い帽子の男が二人。片方は歳若く、片方はそれなりに歳を重ねた顔をしているがわしからすればまだまだ若い。
「すいません、お姉さん。そこに座って、どうされました?」
「どうしたもへちまもあるものか。神によって堕とされたこの地獄に帰る場所も、飯を用意する金も無い。今後をどうしたものかと考えておった所じゃ」
そう返せば若い奴らは困ったように首を傾げて顔を見合わせた。日が落ちた街の寒さに身を縮こまらせたわしの扱いをどうしたものかと思案しておるようだ。
「お姉さん、身分証明書はお持ちですか?」
「ミブンショウメイショ?」
「免許とか、保険証とか。パスポートでも」
「メンキョ? ホケンショウ? パスポート?」
何を言っとるんだこの若い衆は。いや、ここは地獄。わしの知らぬものを皆が持っていてもおかしくは無い、ミブンショウメイショとやらもそれの一つだろう。
「すまんがわしの所有物は今身につけているこの服くらいじゃ。そのメンキョだとかミブンショウメイショとやらがどんなものかは知らんが、そういった類のものは何一つ持っておらん」
「うーん……、困ったなぁ……」
胸元につけた黒い小さな箱を手に取って、それに語り始めた年取った方の若いの。年取った方の若いのとは、我ながらなんと矛盾した物言いか。だがこの者らを言い表すにはこう言うしかあるまい。
「すみません。任意って事でご同行願えますか」
「同行とな。何処へ行くんじゃ」
「署で少し事情を聞くだけです」
若い衆の話を聞いていると、若い娘の声が夜の街の空気を切り裂いた。
「姉さん! こんな所にいた! もう、探したんだからね!」
現れた乱入者。昼間転んだのを助け起こした娘ではないか。口ぶりからしてわしの身内の真似をしておると見て良いだろう。身内のふりをするということは、この男共と居るのは何かしら面倒な事になっておるということか。あの町でも憲兵に声をかけられれば面倒事の始まりであった、そうなった時は弟子や町の人々が助け舟を出してくれたものだが。この若い衆はわしの住んでいた町で言う憲兵のようなものなのだろうか、だとしたら昼間助け起こした娘っ子がわしの身内を名乗って助け舟を出したのも納得が出来る。
さて、ここでわしには二つ選択肢が出来た。青い服を着込んだこの男二人組と、昼間出会ったばかりのこの娘っ子の、どちらについて行くべきかである。
物怖じする様子も無く、自分より年嵩の男二人と会話する娘を観察する。こやつの背中、違和感がある。野生の勘、女の勘、魔女の勘、何が働いたかはわからぬが、このおなごを放っておく選択肢はたった今消えた。男二人の方はまあそれなりに良いものを背負っておる。わしが心配する事もなかろう。つまりわしが選ぶべきはこの娘の方だ。
「お知り合いですか?」
「は、はい。遠い親戚です」
「そうじゃそうじゃ! 目を離した隙にはぐれてしまってのう! 探しておったんじゃぞ!」
「それはこっちの台詞! お母さん心配してるから帰るよ!」
「それは大変じゃ、今すぐ帰るとしよう。若い衆よ、手間取らせてすまなかった。最初から身内とはぐれたと言えば良かったかの」
「ああいえ、御家族の方と一緒ならそれで。もうはぐれないよう、お気をつけて」
「お騒がせしました」
娘の口ぶりに合わせて、男二人から逃れる。その場を離れて数十歩。緊張の糸が切れたらしき娘っ子が大きくため息を吐いた。
「よ、良かったぁ……」
「すまぬなぁ、手を煩わせてしまったようで」
「い、いえ。昼間助けていただいたお礼です」
「礼のついでに一つ、ばばあの不思議な話に付き合うてくれんか。聞くだけで良い、信じる信じないはおぬしに任せよう」
「はい?」
このおなごの顔を見ると何故か胸の内が熱くなる。大人と呼ばれる年になってから子供の時分を振り返る時のような、湧き上がるような胸の熱は、何と言ったか。
「わしはエレノア・フィロ=ソフィーア。薬を作り、魔法を用いて人々を救ってきたが故に魔女と名乗っておった。今は体こそ若返っているものの、実際は歳を七十いくつも数えたばばあ。そんなわしは年老いたばばあの体の、最期の時を迎えた、迎えたんじゃ。人の子は皆死ねば天の神の手のひらの中へと還る運命、そのはずなんじゃが……住んでいた町の面影が一欠片も無い見知らぬ場所で目覚めてしもうた。教えてくれ、我が恩人よ。ここは何処じゃ、ここは地獄か」
「……ここは地獄、では無いはずです。多分」
「多分、とは何じゃ」
「だって私まだ死んでないはずですから。ここは、日本です」
「ニホン。そんな気の抜けるような名前の国なぞ、故郷では聞いたことが無い」
「じゃあ、ジャパンとか、……ジパング……とか、ならどうでしょう」
「ジパング、すまんがさっぱり聞いたことも無い国じゃ」
「うーん……」
首を捻り、頭を抱えて悩み込む娘っ子。よく知った己の国を何一つ知らぬものが現れたとなればこの反応も当然じゃろう、恐らくわしもこうなるであろうことは目に見えているのだから。
「……エレノアさん……でしたっけ」
「エレノアでも魔女殿でもおばば様でも、好きに呼ぶが良い」
「それじゃあエレノアさん、うちに来ませんか? だいぶ訳ありのようですし、行く所がなければ……なんですけど」
「良いのか? 行く宛てなぞ初めから無い故、渡りに船とはまさにこの事ではあるが……」
「じゃあ」
決まり。そうこぼした娘はわしの手を握ってぐんぐん歩を進める。エキという建物でデンシャという馬よりも早い鉄の箱に乗せられて向かう先は娘っ子の家、今夜の飯を賄う小銭すら持っておらぬわしの乗車賃は娘の財布から。いくら昼間転んだのを助け起こしたとはいえ、見ず知らずのとんでもない事情を抱えた年上女によくぞここまで。
ちくり。ああ、また。また胸が焼けるように熱くなる。この娘を見ていると思い出す、わしの可愛い弟子の事を。わしには沢山の弟子がいたが、そのうちの一人にエマという娘がおった。元は裕福な商人の奉公人であったが雇い主である男に虐げられておったのを助け、わしの弟子にした。魔法の才もそれなりにあり、優秀な魔女になった子であったが如何せん、人がよすぎるきらいがあった。腹を空かせた野良猫に自分の食事を分け与えては己の腹を鳴らし、よからぬ事を企む男どもに救いを求められれば警戒なくついて行く。あの子が危ない目に遭う度に彼女の兄弟弟子と共に助け舟を出したものじゃ。その子に似ているのだ、今わしを助けようとするこの娘っ子は。
わしが最期の眠りに就く時、大泣きしていたエマ。あの子はあの後どうなっただろう。あの子は素晴らしき魔女に成長し、良き弟子も出来た。優しすぎるが故に危ない所もあった子であったが、弟子と共に幸せでいてくれたら。
揺れるデンシャ、二人並んで椅子に腰掛けている中尋ねる。
「そうじゃ、ぬしの名を聞くのを忘れておった。訪ねてもよいか?」
「私、恵真って言います。大空恵真」
これは運命か、必然か、それとも神の悪戯か。
「エマ、か。良い名じゃの」
「ありがとうございます」
死後堕とされた地獄で、我が弟子と同じ名の者と出会うとは。あの子もこの地獄に、わしら魔法の道を歩む者が何をしたと言うのだろう。わしの信ずる神は何一つ答えてくださらなかった。