プロローグ
どうして人は人を求めるのだろう。
傷つけあいながらも、愛し愛されることを続けている。
その感情をいつから持つようになったのだろう。
『19の花束』を読む全ての人に、私の様々な経験とそこから生まれた感情をここに公開します。
もし あなたが私だったら どうしますか。
私が産まれたのは両親の実家がある福島県の小さな町の小さな病院。
母の話によると、取り上げてくれた助産婦が私の名付け親。もちろん私は覚えていない。
子供の頃、特に小学生の低学年時は、自分の名前があまり好きではなかった。「とまと」という名前に変えたかった。平仮名で書かれるその形が可愛く思えたのだ。今となってはよくわからないが、とまとちゃんにどうしてもなりたくて、母にお願いした。
「とまとちゃんになりたいの。名前変えて!」
「とまとちゃん、可愛い名前だね。もし大きくなっても『とまとちゃん』になりたかったら変えられるよ。」
大きくなるにつれ、まんまとトマトちゃんになりたい気持ちは薄れていった。正直言うと、今ここで名前の話をするまで、とまとちゃんになりたかったことを忘れていた。そんなもんだ。
結局、助産師さんが付けてくれた名前を気に入った。よくある名前でもないし、そこまで珍しくもない。
家には、角が擦れてボロボロの段ボールに詰められたカビ臭いアルバムが何冊もあった。私は物心がついたころから、そのアルバムの中の写真を見ることが好きになった。。。と思う。写真一枚一枚に、母から私へ話しかけるようにメッセージ添えてある。とても愛情のある温かい言葉。
生い立ちアルバムの中でも、私が産まれた日からの最初のアルバムが一番好きで、いつからか私の御守りになっていた。
東京都で通った保育園の卒園アルバムの最後のページには、先生から見た私について書かれていた。幼少時代は、おとなしくて面倒見がよく整理整頓ができる『良い子』だったらしい。
『おとなしくて良い子』
近所のおばさんや、たまにしか逢わない親戚の人に言われるこの言葉が、私は大嫌いだった。私の周りの大人は『おとなしくていい子』が好きみたいだったからそうしていた。そのことを母だけは知っていた。
家では『Dr. スランプあられちゃん』の真似をして、物を壊したりしてはしゃいでいたおてんばな女の子。アイドルの歌まねをすると大笑いする両親が大好きで、時々調子にのって怒られていた。1980年代のアイドルは最高だった。
そう。『おとなしくて良い子』とは違っていた。
厳密にいうと、私は保育園を卒園していない。卒園前の夏、当時住んでいた東京から千葉の田舎へ引っ越した。この時、初めて「悲しい気持ち」を味わったような気がする。初恋の男の子と離れるのはとても辛かったし、もう逢えなくなるとどこかで感じていた。みんなと一緒の小学校へ、ランドセルを背負って行きたかった。
親の仕事の都合で転勤などがあったわけでもなく、なぜその時期に引っ越ししなければならなかったのか。夏休みが明けて、秋から途中で新しい保育園や幼稚園に入ることもなかった。田んぼに囲まれた一軒家は、東京の団地に比べて開放的で好きだった。そこではカエルやイナゴが新しい友達になった。
母はそんな私を気にして散歩に連れ出し、同じく小学一年生になる同級生を、一生懸命探してくれた。明るく朗らかな母は、近所の人たちと打ち解けるまで時間はかからなかった。
秋の七五三の時に買ってもらった紺のセーラーカラーのワンピース。春の小学校の入学式にも、そのお気に入りのワンピースを着て行った。周りの女の子たちもそれぞれ可愛い洋服を着て、グループで集まって話している。もちろん全員が私の知らない子。
ひとりぼっちの私は、母と散歩途中に出くわした男の子と同じクラスになり、すぐに仲良くなった。その子の家は、私の家から見えるほど近かったが、間には大きな川が流れていた。家を見てお互いを見つけると、その川の存在に負けないよう、大きく手を振ったものだ。
そして私以外にもう一人、いわゆる「よそ者」の雰囲気がある女の子がいた。私とその子は自然と仲良しになり、毎日のように一緒に遊ぶようになった。
【19の花束 ~愛され人~】にご興味を持っていただきありがとうございます。更新型の自伝小説です。
過去の記憶を辿りながら、楽しかった事も苦しかったことも思い出しながら少しずつ書いています。
辛いことは思い出すのも苦しいこともありますが、前向きに生きていくために向き合うと決心しました。
更新は不定期です。気長に待っていただけると嬉しいです。