第一六七話 馬超放浪
建安二十年(二一五年)のはじまりを彩るべき空は、薄雲に覆われていた。
煙るような雲が、雪化粧をほどこされた秦嶺山脈との境界を曖昧にしている。
高峰にかこまれた漢中は、漢水が流れる肥沃な盆地であり、五斗米道の信徒たちにとっては地上の楽園である。
彼らの教祖である張魯は、民生に重きを置き、飢餓のない国づくりを標榜している。
民の暮らしぶりを第一に考えてくれるのだ。
民衆にとって、これほどありがたい為政者はいない。
口先だけで終わっていたなら、詐欺師やえせ宗教家呼ばわりされるところだが、張魯にはおのれの言葉を実践してみせるだけの器量があった。
劉璋軍を撃退し、領内にはびこる賊を討伐し、彼は民衆の心をつかみとったのである。
むろん、不満の声も皆無ではない。
病人の治療に鬼道をもちいる張魯に対して、
「呪いだぞッ!? あんな怪しげなやつを信じてたまるかッ!!」
と不信をあらわにする者もいた。
だが、張魯が善政を敷いているという現実の前にはささいな問題であったようで、そうした批判の声は片隅に追いやられ、人々は張魯を張師君と呼んで崇拝している。
かくして漢中は、各地で長引く戦乱をよそに、独自の平安を保っていた。
「いまだに白水関も落とせぬとは……。劉備軍はそれほどまでに手強いか」
張魯は憎々しげにつぶやいた。
なにも知らない信徒たちが聞いたら首をかしげるであろう、好戦的な声であった。
乱世に宗教国家を樹立した男である。
民を慈しむ為政者としての側面も偽りではないが、群雄としての野心も相応に兼ねそなえている。
劉備軍の主力が成都めざして進軍したのを知るや、その拠点となっている葭萌関と白水関を奪うために、張魯は一万を上まわる軍勢をさしむけた。
まず攻め寄せたのは、武器兵糧が潤沢にたくわえられているという葭萌関である。
「張師君のためにッ! 五斗米道のためにッ! 命をかけて進めえいッ!!」
地上の楽園を南へと伸張させるべく、張魯軍は士気も高らかに猛攻をかけた。
ところが、劉備軍二千が守る葭萌関は、彼らの攻撃をまったく寄せつけなかった。
そこで、張魯軍は狙いを転じて白水関に攻め寄せた。
わずか一千の守備兵しかいない白水関であれば、攻略は可能であろう。
そう張魯は判断したのだが、戦地からあがってくる報告は、あいかわらず彼を不快にさせるものばかりである。
「張師君。残念ながら、これ以上、劉備軍と戦っている余裕はございませぬ」
閻圃が口をひらいた。
張魯陣営における智者といえば、まず彼の名があげられる。
思慮に富んだ冷静な声に、張魯としてもうなずかざるをえない。
「時間切れか……いたしかたあるまい」
鄴の曹操軍が、いよいよ張魯討伐に動きだしたのである。
もはや劉備軍を相手にしている場合ではなかった。
白水関にむけた兵を撤退させ、早急に防備をかためなければ、滅ぼされるのは張魯のほうであろう。
「それにしても、劉備といい曹操といい、よくよく私の邪魔をしてくれるわ」
ことのはじまりは、劉備軍が劉璋の先兵となり、張魯領に攻めこんできたことであった。
思いも寄らぬ敵の出現、それも中原の戦乱を戦い抜いてきた強悍な軍勢である。
張魯は戦々恐々とし、防備をかためた。
すると、劉備軍も進軍をやめて、葭萌関の守りをかためはじめたのだ。
不可解な動きというしかなかった。
攻めこんでこないのであれば、さっさと交州にひきかえせばいい。
いつまで葭萌関にとどまるつもりなのか?
いまにして思えば、劉備は当初から劉璋に狙いを定めていたのかもしれなかった。
なんと狡猾な男であろうか。
劉璋の器量では、とうてい渡りあえぬ。
あの凡夫は、いまごろ城の奥で震えあがっているにちがいない。
張魯の暗いよろこびは、張衛の進言によって中断させられた。
「兄者、曹操軍は強大だが、無敵の軍勢というわけではない。漢中の天険を利用すれば、勝算もあろう」
張衛は張魯の弟で、身長は兄より高く、身体つきもたくましい。
両眼には鋭気と英気を宿しており、五斗米道の軍事を担う風格があった。
「うむ。そのとおりだ」
張魯はふたたびうなずいた。
劉璋を嗤っている場合ではない。
張魯は張魯で、劉備軍よりはるかに強大な曹操軍と戦わなければならないのである。
「この地は我らの理想郷だ。なんとしても守り抜いてみせよう。なにかよい案はあるか?」
張魯は、諸将の顔を見まわした。
臣下たちは知っている。
張魯の口調は穏やかだが、その言葉が絶対的な命令であることを。
無能と見なされないよう、彼らは口々に意見を飛ばした。
「大軍勢の弱点といえば、なんといっても兵站、それと疫病であろう。持久戦に持ちこむしか手はあるまい」
「地の利はこちらにある。さいわいなことに、食糧も潤沢だ」
「だが、相手は曹操軍だぞ。守りをかためるだけで持ちこたえられるのか?」
「敵の気勢を削ぐには、奇襲や陽動も必要かもしれぬ」
「誰がそんな危険な役をこなせるというのだ?」
「そこでだ、馬超を利用するというのはどうだ?」
人差し指を立てて、楊昂が提案した。
張魯の客将となっている馬超だが、この場には呼ばれていない。
一同の視線が楊昂に集まると、張魯はつづきをうながした。
「楊昂、おぬしの案を申せ」
馬超は曹操との戦いで劣勢になると、張魯に派兵を要請した。
そこで派遣された将が楊昂である。
ともに戦ってきたのだから、馬超の為人はよく知っていよう。
楊昂の意見には、耳をかたむける価値があると思われた。
「馬超は、よくも悪くも人目を引く男です。雍州に送りこんで蜂起させれば、曹操とて無視はできますまい。我らのとるべき策が持久戦であるなら、時間稼ぎにはもってこいかと」
「ふむ……。だが、それでは馬超を死地に追いやることになる」
張魯としては馬超が惜しい。
将来、雍州に勢力を伸ばすなら、馬超は得がたい人材である。
もっとも、将来を考える前に、いまの危機を乗り切らなければならない。
馬超を犠牲にして時間を稼ぐという策には、一考の余地があるかもしれなかった。
張魯が押し黙ると、諸将は一段とはげしく意見を出しあった。
「楊昂どのの策に賛成だ。馬超は漢中にやってきてから、なんの功績も立てていない。そろそろ役に立ってもらわなければ、ただの穀潰しだ」
「だが、犠牲になれと命じるようなものだぞ。あの馬超がおとなしく従うだろうか?」
「あばれだしたらどうする?」
その言葉に、諸将はうすら寒い表情をならべた。
まるで飼いならせぬ猛獣のようなあつかいだが、実際に馬超は取りあつかいに困る人物であった。
潼関の戦いにおいて、曹操軍は一万を超える死者を出したといわれている。
疫病による被害をのぞいて純軍事的に見れば、馬超は曹操軍に最も大きな打撃をあたえた指揮官なのだ。
では、曹操軍の侵略に対抗するための切り札になりうるかといえば、そうでもない。
馬超の本領は騎兵指揮官であり、要衝に立てこもる防衛戦では、その力を十全に発揮することは不可能であろう。
もし騎兵の出番があるとすれば、すなわち圧倒的な戦力を有する曹操軍と野戦で衝突するということであって、その時点ですでに勝敗は決してしまっている。
つまり、価値はあるものの、現状使いみちがない駒といえた。
しばらく迷ったのちに、張魯は言明した。
「馬超は手元に置いておく。曹操軍に勝ったなら、彼の存在は雍州進出の手がかりとなろう。……力およばず敗北したなら、降伏する際に、馬超の首を手土産にすればよい。なにもないよりはよかろう」
張魯のもとに身を寄せた馬超は、戦以外のことで忙しかった。
馬超とともに流れてきた兵士の数は二千ほどで、彼らの生活が成り立つよう、手を尽くさねばならなかったのである。
張魯の厚情と漢中の豊かな土地は、彼らを受け入れてくれた。
帰農する者もいれば、職人になる者、商人になる者、吏卒になる者もいる。
この日も、兵士たちの身の振りかたについて、馬超は龐徳と相談していたのだが、そこに招いたおぼえのない客が訪れた。
「おう、龐徳もいたか。話のわかるやつがいるとは都合がいい」
室内に入ってきた張衛は、にこりともせずにいった。
「なんの用だ、張衛」
馬超は剣呑なまなざしを返した。
張魯の弟だけあって、張衛の発言力は大きい。
この男が認めさえすれば、馬超は万の兵を指揮する身にもなれよう。
だが、その望みは叶いそうになかった。
新参者に軍権を奪われるとでも警戒しているのだろうか、張衛はなにかにつけて馬超と張りあおうとしてくるのだ。
からまれる側の馬超としては、いい迷惑である。
それが迷惑どまりで、深刻な憎悪とならずにすんでいるのは、張衛の敵愾心が陽性のもので、馬超をおとしいれるような陰湿さが感じられないからであろう。
張衛は腕組みをして、試すような口調でいった。
「曹操軍が動きだしたのは知っているな?」
「むろんだ」
「端的にいおう。馬超、おまえは邪魔だ」
「なんだと……!」
馬超は気色ばんだ。
張衛は真顔になって、
「おまえがいると、兄者の覚悟と戦意が鈍る」
「……どういうことだ?」
「我らは曹操と戦う。だが、最後の一兵まで、というわけにはいかぬ。降伏も視野に入れねばならん。敗れたときは、おまえの首を差しだして降伏するつもりだ」
「……っ!?」
「おまえの顔を見るたびに、兄者は降伏の誘惑に駆られてしまう。どこへなりとも消えるがいい」
愛想のない態度からは信じがたいが、張衛は馬超に忠告してくれているようであった。
だが、その忠告は、馬超にしてみれば簡単に受け入れられるものではなかった。
「曹操との戦を前に、逃げだせというのか」
「ぬかせ。たいした戦力もないくせに」
馬超がつれてきた兵士たちは、漢中の地に溶けこみつつある。
あらたな生活に充足している者は、戦場にもどりたがらないはずだ。
二千の兵のうち、どれほど動員できるのか。
一千は上まわるであろうと馬超と龐徳は計算しているが、一千であれ、二千であれ、たいした戦力ではないといわれればそれまでである。
龐徳が声を低めて、
「大将。これは勝てばよいという話ではありませんぞ。このままでは、我々は飼い殺しにされる可能性があります」
「むむむ」
思わず馬超はうなった。
降伏したときのそなえとして、馬超の首を確保しておきたいのなら、彼が前線に出ることを、張魯はよしとしまい。
すぐそこに曹操軍がいるというのに、戦うこともできず、指をくわえていなければならないのである。
これでは役立たず以外のなにものでもない。
馬超は思案した末に、苦渋の決断をくだした。
「龐徳、おまえに我が軍をゆだねる」
「大将!?」
「今日からおまえが大将だ。……我々は張魯の禄を食んでしまった。なんの役にも立たずに逃げるわけにはいかぬ。私がいなければ前線に出る機会も得られよう。曹操軍と張魯軍に涼州兵の力と意地を見せつけてやれ」
「……御意」
龐徳が拱手すると、張衛が問いかけた。
「馬超よ、おまえはどうするつもりだ?」
「……そうだな、ひとまず氐族を頼るとしよう。岱もつれていかねばなるまい」
岱――馬岱は馬超の従弟である。
馬騰とともに鄴に移住せず、関西の動乱においても、常に馬超とともに前線に出ていたことがさいわいして、ここまで生きのびることができた。
張魯の魂胆が知れたからには、馬岱を漢中に残しておくわけにはいかなかった。
曹操に降伏したとき、張魯の手がとどく場所に馬超の一族がいれば、その首は曹操に差しだされるにちがいないのだ。
「董氏と馬秋はどうするのだ?」
張衛はさらに問いかけた。
馬超にとって、このうえなく手厳しい質問だった。
董氏は馬超の妾である。
潼関の戦いで敗れたあと、馬超は身体の弱い董氏を気づかい、弟の董种とともに漢中に避難させた。
張魯のもとに身を寄せた馬超が、この地で董氏、董种と再会したとき、董氏は幼い子をつれていた。
名は馬秋。
董氏は、漢中で馬超の子を産んでいたのである。
馬超にしてみれば望外のよろこびだった。
馬秋は可愛い。だが、あまりにも幼い。董氏も身体は弱い。
流浪の旅に耐えられるとは思えなかった。
「あれは……私の子ではない」
馬超は、肺腑から声をしぼりだした。
「馬姓を名乗ることは許さぬ。名を改めさせておけ」
「見下げ果てた男だ」
張衛は嘲るような冷笑を浮かべた。
「……反論はせん」
馬超は自分の身勝手さに呆れて嘆息すると、それ以上の追及を拒むかのように、窓の外に視線をやった。
きびしい寒さにも負けず、ロウバイの枝が黄色い花を咲かせている。
馬超にひとときの平穏をあたえてくれた漢中は、しかし、彼の安住の地にはなりえなかった。
わずかな供をひきつれ、馬超は姿をくらました。




