第一六四話 馬鈞
白漆喰の壁に背をあずけ、馬鈞は地べたにあぐらをかいていた。
男前とはいいがたいが、妙に親しみやすい顔に不満をくすぶらせながら、吐き捨てる。
「……ったく、冗談じゃないっての」
陸渾の胡孔明といえば、天下一の名士とうたわれる人物である。
そんな人物の弟子になったりしたら、朝から晩まで学問漬けの、きびしい修行の日々が待っているにちがいなかった。
それに耐える自信は、馬鈞にはなかった。
どうせ逃げだすのであれば、弟子になる前に逃げだしたほうが、まだしも人様にかかる迷惑は少なくてすむはずだった。
昨夜、帰宅した馬鈞に、彼の両親は喜色満面で語った。
あの孔明先生が、おまえを弟子にしてくれるそうだ。
お弟子さんは、ふたりとも立派な若者だった。
おまえもあんなふうになれ……。
なにしろ両親は乗り気である。
馬鈞がこの話を断りたいなどといいだしたら、親子で取っ組みあいの大喧嘩になるのは目に見えていた。
両親と孔明にかこまれたら、その時点で、強制的に弟子入りさせられてしまうかもしれない。
そう考えた馬鈞は、とりあえず逃げだすことにしたのだった。
いまごろ、孔明は失望しているはずだ。
それでいい。失望すれば話は流れる。
両親もかんかんに怒っているだろうが、馬鈞としても親に怒られるのは慣れていた。
ふいに人の気配がした。
「君が馬鈞だな」
「うげっ」
馬鈞は珍妙な声をもらした。
姿をあらわしたのは、馬鈞より少し年上に見える、ふたりの若者である。
彼らが何者かは、一目瞭然だった。
馬鈞は両親から聞かされていた。
孔明は弟子をふたりつれており、ひとりは血筋のよさをうかがわせる美男子で、もうひとりの青年はいかにも高価そうな宝刀を佩いていた、と。
話に聞いていたとおりの風貌である。
「私は、孔明先生門下の石苞、字は仲容という」
「と、鄧艾、字は、士載だ」
しまった、と馬鈞が思ったときには、彼は石苞と鄧艾にはさまれていた。
これではもう逃げようがない。
石苞が、馬鈞と同じようにあぐらをかいて座りこむと、
「君を捜していた。ご両親も孔明先生も心配している。なぜ逃げたんだ?」
石苞の声にとがめるひびきはなかった。
馬鈞はいくらか安堵しつつ、
「なぜ、っていわれても……。俺みたいなのが弟子になっても、迷惑をかけるだけですから」
「そうか? 君には発明の才がある、と孔明先生はおっしゃっていたが」
「発明? ……そりゃ、手先は器用ですけど、俺がやってることなんて、職人のまねごとでしかありませんよ」
謙遜ではなく本心からそう答えて、馬鈞は肩をすくめた。
「いまの時点でまねごとができるのなら、たいしたものだと思うが?」
「本職よりうまくやれりゃあともかく、まねごとは、しょせんまねごとです。それに、もし俺に発明の才能があったとしても、発明で食っていける人が、世の中にどれほどいるっていうんですか。発明家として有名な蔡倫や張衡だって、発明で生計を立てていたわけじゃないでしょう」
どちらも偉大な発明家として、漢の歴史に名を刻んだ人物である。
しかし、その彼らにしても、官職を得たうえで発明も手がけていたのであって、発明家として暮らしていたのではなかった。
「孔明先生は無官だが?」
石苞に指摘されるまでもない。それは馬鈞とて知っている。
「でも、有名な名士でしょう? 俺みたいな平民がなにか発明したところで、はした金と引きかえに、おえらいさんに功績を奪われてそれでおしまい、ってなもんで」
馬鈞に本当に発明の才があったとしても、たいした金にはならないだろうし、正統な評価を受けることすら望めないのである。
「こ、孔明先生は、そんなこと、しない」
鄧艾が、ぶすっとした表情でいった。
「あッ!? いやッ! 孔明先生がそうすると思っているわけじゃないですッ!」
馬鈞はあわてて首を横に振ると、その首をすぼめて、
「ただ、孔明先生にしろ、蔡倫や張衡にしろ、社会的な立場があるから、発明だって評価してもらえるわけで……」
有名な発明家たちと馬鈞とでは、社会的な立場に差がありすぎるのだ。
なにも発明家にかぎった話ではないが、こうした立場の差は絶対的なものであり、それを乗り越えられるとは馬鈞には思えなかった。
馬鈞が幼いころ、父が嘆いたことがあった。
「うちが、馬騰と同族だったらよかったのになあ」
同じ茂陵県の馬家ではあれど、馬鈞の家と馬騰の家に血縁関係はなかった。
もし同族であったなら、馬鈞の父は官職を失わずにすんだかもしれないし、失ったとしてもすぐに復職できたはずであった。
また、馬騰が一族ともども鄴に移住したとき、母はこうぼやいた。
「あんたに馬騰の一族の血が流れていたら、あたしたちも鄴で暮らせただろうに」
嘆こうが、ぼやこうが、現実は変わらない。
馬鈞の家は、裕福とはいいがたい暮らしをしてきた。
だが、禍福は予測できないものである。
馬超の反乱に連座して、馬騰の一族は処刑された。
むしろ、彼らと同じ血が流れていなかったおかげで、馬鈞たちは処刑をまぬがれたのかもしれなかった。
漠然としたものではあったが、馬鈞は、世のなかの世知辛さを思い知らされたように感じた。
努力しても生まれの差はくつがえせない。
家格が高い家に生まれた人たちですら、一寸先にはなにが待っているかわからない。
だったら、努力はほどほどでいい。
分相応に生きればいいのだ。
世の人々の多くがそうしているのは、努力が報われそうにない人たちが、自分の生活と心を守るには、それが最適解だからなのではないか。
「孔明先生のもとで学問にはげめば、君が高官に就くことも不可能ではなくなるのではないか?」
そう石苞はいうが、見るからに才能にも家柄にも恵まれている人物の言葉である。
馬鈞の心には、ひびかなかった。
「……孔明先生の弟子になったところで、どーせ俺は小役人どまりですよ」
「学問が嫌いなのかい?」
「嫌い、というかなんていうか……正直いうと苦手なんです。全部が全部ってわけじゃないんですけど、経書の語句の意味を解釈したり、説明したりするのが苦手で……」
馬鈞は、しどろもどろに白状した。
石苞は呆れた様子もなく、
「学問の基本が苦手なのか。それは大変だ」
「だって、正しいものは正しいし、まちがってるものはまちがってるはずでしょう? なのに、経書に書かれていることは絶対に正しくなけりゃいけない、ってなんなんですか。記述内容がまちがってるなら、正しいと思えるように解釈しなければならない? そんなの語句の意味を捻じまげてるだけじゃないですか。なんていうか……納得いかないことばかりで」
愚痴をぶつける相手をまちがえているとわかってはいたが、馬鈞は話さずにはいられなかった。
「とくに図讖とか最悪です。意味わかんないですよ。天文現象と古典の記述をこじつけて未来を予言する? 占い師かっての」
そこで鄧艾が口をひらいた。
「こ、古典は、あくまで、古典だ。よ、予言書、ではない」
馬鈞は、おや、と眉をはねあげた。
彼はここではじめて、鄧艾のどもりに気がついたのだ。
それでも、鄧艾の腰にある宝刀は、馬鈞の家では家財を売り払っても用意できないであろう高級品に見える。
やはり裕福な家の出なのだろう。
ともかく、鄧艾の言葉に、馬鈞はうなずいて、
「そうなんですよ! 亀の甲羅や獣の骨の代わりに、古典や経書を持ちだしてなんになるっての! ……俺だって、勉強していないわけじゃないんですけど、苦手なものは全然頭に入ってこないんですよ。……どうがんばっても、俺は、あなたたちみたいな立派なお弟子さんにはなれませんよ」
馬鈞が肩を落として自嘲すると、石苞が苦笑をひらめかせた。
「私たちが立派に見えるかい?」
苦笑ですら華やかで、表情のひとつひとつから気品が感じられる。
ズリィなあ、と思いながら、馬鈞は後頭部をかいた。
「そりゃあもう……俺みたいな平民の凡人とは全然ちがいますよ」
「そうか……。おい、士載。どう思う?」
苦笑を皮肉げな笑みへと変貌させ、石苞はくだけた口調でいった。
突然の変化だった。
それまで石苞が漂わせていた、上流階級の子弟らしき雰囲気は、影も形もなくなっている。
「う、うまく、化けられる、もんだ」
鄧艾が肩をすくめて応じると、石苞は、悪戯っ子が相手をからかうような表情を浮かべて、
「馬鈞、いっておくがな。士載の家は士大夫崩れ、つまり、おまえの家と同じだ。俺に至っては、父親も祖父も、先祖代々、官職とは縁がない農民だ」
「へっ?」
馬鈞は、ぽかんと口をあけた。
石苞は、悪戯っ子のような表情をおさめると、
「孔明先生が見いだしてくださったおかげで、俺たちは学ぶ機会を得られた。出仕の糸口もつかめる。名家の子弟にも劣らない、恵まれた立場からはじめられるんだ。『遇と不遇とは時なり』という言葉があるが、俺たちにとっては、孔明先生に拾ってもらったことが、まさにその時節だったというわけだ。……馬鈞がどんな道を選ぼうと、孔明先生の弟子であることは、かならず助けとなってくれるはずだ」
鄧艾が腕組みをして、
「い、いうなれば、信用の、前借り、だ」
「そうだな。俺たちは、孔明先生から信用を前借りして、名家の子弟との生まれの差を補うんだ。そして、出世することで、先生から受けた恩を数倍にして返してみせる」
まぶしかった。
石苞の顔立ちではなく、その目に宿る意志の輝きが。
鄧艾の口元に浮かぶ静かな自信が、馬鈞にはまぶしかった。
「……俺には、そんな自信ありませんよ。結果的に、前借りした信用を踏み倒すことになっちまう」
出自こそさほど変わらないのかもしれないが、彼らのようになる自信は、馬鈞にはなかった。
「おまえひとり踏み倒したところで、先生は気になさらないさ」
さらりという石苞に、馬鈞は疑問を抱いた。
「孔明先生の不利益になるようなことを、お弟子さんが勧めていいんですか?」
石苞は目を丸くすると、得意げにニヤリと笑った。
「孔明先生は当代一の名伯楽だ。その孔明先生が、おまえはモノになると判断している。俺たちがおまえを信じるには、それで十分ってことだ」
「痛ってええッ!?」
馬鈞は両手で頭を押さえた。
石苞と鄧艾につれられて、帰宅した馬鈞を待っていたのは、彼を心配している両親……ではなく、父親のゲンコツだった。
涙目の息子に、馬鈞の父はゲンコツにつづいて雷を落とす。
「この、バカちんがッ! 人様に迷惑をかけるなと、あれほどいっただろうッ!」
「ご、ごめん、親父。俺が悪かったよ……」
馬鈞の母はというと、
「うちの子がお手数をおかけして申し訳ございません」
石苞と鄧艾にむかって頭をさげて謝罪すると、
「ほらっ! ぐずぐずしてないで、あんたもちゃんと謝んなさいッ!」
息子の首筋をつかんで、強引に頭をさげさせる。
馬鈞は両手を胸の前で組んで、深々と腰をまげた。
「ほ、本当に、すいませんでしたァ!」
石苞はにこやかに微笑んで、
「あまり気にしないでください。たいした労ではありませんから」
実際、石苞にしてみれば、なんの問題もなかった。
問題があるとすれば、それはこの旅が徒労に終わってしまった場合である。
これは石苞や鄧艾だけでなく、孔明も同じ思いであろうが、せっかく茂陵県まで足をはこんだのだから、手ぶらで帰りたくはなかった。
一時はどうなることかと思ったが、どうやら馬鈞は弟子入りに積極的とまではいかないが、前向きな気持ちになったようだ。
これで目的は達せられる。
石苞は鄧艾に視線を送って、
「士載、先生を呼んできてくれないか」
鄧艾は無言でうなずくと、足早に宿にむかった。




