第一六〇話 孔明・ザ・ガラスハート!?
許都の空は、ねずみ色の厚い雲に覆われていた。
いまにも雨が降りだしそうな空の下、白装束を着た人々が立ちならんでいる。
彼ら同様、私と兄弟子の鍾繇も、白い喪服を身にまとって参列していた。
荀攸公達、享年五十八歳。陣中での病没だった。
曹操と孫権の戦は、痛み分けに終わった。
またしても疫病が蔓延したのだ。
ただし、今回は孫権軍にも疫病の被害が出ていたようだ。
曹操は戦に執着せず、さっさと撤退を決めたのだが、その帰路で、荀攸は不帰の人となった。
私にとっても尊敬する先輩だったが、無二の親友を失った鍾繇の悲嘆は、私の比ではなかった。
弔辞を読みあげながら、滂沱の涙を流す鍾繇の姿は痛ましかった。
さすがに、その涙を演技と思うほど私は冷酷な人間ではないので、今日くらいは兄弟子にやさしくしてもいいのではないかと、めずらしいことを考えていたりするのであった。
葬儀が終わると、やはり白装束の郭玄信が歩み寄ってきた。
「鍾繇さま、孔明先生。このあと、荀攸さまをしのぶ会がひらかれるのですが、参加していただけないでしょうか?」
鍾繇は、泣きはらした赤い目をしばたたかせると、
「公達の子たちから、そのような会があるとは聞いておらんが?」
「名士数人が集まるだけの、小さな集いでございます」
郭玄信の返答に、鍾繇は考えるそぶりも見せずに、
「ならば、わしは遠慮しておこう。どうにも人と話す気分ではない」
正確にいうと、人と話せる状態ではないのだろう。
そこまでいかなくとも、私も同感だった。
「私も遠慮させてもらうとしよう」
荀彧も、荀攸の子たちを手伝う主催側の人間だし、私も鍾繇も、荀攸の子非公認の集いに顔を出すくらいなら、そちらを手伝いたい気分である。
もっとも、鍾繇の気分は私の想像にすぎないし、あまり出しゃばるのもどうかと思うが。
「さようでございますか。大変失礼いたしました」
郭玄信が立ち去ると、鍾繇は力ない言葉で、
「そういえば、おまえさんは、柳城遠征のときから、疫病のことばかり気にしていたそうだな」
「大遠征のはじまりが、柳城遠征でしたからね……」
注意喚起はしてきたが、だからといって、どれほど被害を減らせたのか。
それなりに減ってはいるのだろうが、現実は非情である。
劇的な改善には至っていない。
「大遠征に疫病はつきもの、か。戦わずして勝つのが上策なのだろうが……」
そういって、鍾繇はため息をもらした。
残る敵は劉備、孫権、劉璋、張魯といったところか。
劉備、孫権はともかく、劉璋、張魯あたりは降伏してもおかしくないと思うのだが、いまのところ、どちらも降伏する気配はないようだ。
これはおそらく、曹操と漢朝の対立が表面化してしまったことも遠因となっているであろう。
かつては曹操の軍事力と、漢朝の権威がむすびついていた。
それが曹操を躍進させる原動力となっていたのだが、両者の対立が明白になった現状、圧倒的な軍事力があろうと、曹操はぽっと出の支配者にすぎない。
それだけ多くの人々の心に、漢朝への帰属意識が染みついているのだ。
私は、葬儀中の沈痛な表情のまま、
「戦乱の終わりに、手がとどきそうで、とどかない。隠士の私ですら、もどかしく感じます」
「わしはなあ……太平の世が訪れたなら、あとのことは公達にまかせて、引退するつもりだったのだ。まさか、六歳も年下のあいつが、先に逝ってしまうとは……」
鍾繇は肩を落とし、首を横に振った。今日、何度目かの、数える気にもならない、ため息をついて、
「これでは、まだまだ引退させてもらえそうにない。才では、公達に遠くおよばない身だ。その分、長く勤めあげてみせんとな」
「鍾兄は、きっと長生きすると思いますよ」
私はなぐさめの言葉をかけた。
「おまえさんの見立てが当たっているとよいがな」
気休めに聞こえるかもしれないが、実際に長生きするだろうという確信もある。
前世で荀攸と鍾繇がいつ死亡したのか、正確なところを私は知らない。
だが、荀攸はいつの間にか亡くなっていて、鍾繇は長生きしたというイメージがある。
なにより、息子の鍾会がまだ生まれていないのだから、いますぐ鍾繇がどうにかなるということはないはずだ。
……我が兄弟子はもう六十四歳なわけだが、まだ鍾会が生まれていない件。
孫じゃなかったよな?
たしか、息子だった、と記憶しているのだが。
それとも、歴史が変わったことで、鍾会が生まれなくなったとか?
それならそれで、まあいいや、という気がしなくもない。
いやだって、鍾会ってトラブルメーカーじゃん、反乱するし。
けれど、司馬師・司馬昭が生まれたのだから、鍾会だって生まれてきそうなものである。
それにしても、郭嘉と荀攸がいなくなって、あれほど充実していた曹操軍の幕僚が、急激に手薄になったように感じられる。
荀彧は許都をはなれられない。程昱は鄴で隠居。
五大謀士のうち、戦場に帯同できるのは、賈詡ひとりだけになってしまった。
司馬懿であれば、彼らに劣らない活躍をしてくれそうなものだが、まだそこまで発言力はないだろうし。
「長くはたらけば、まあ、わしも多少は心残りを減らせるだろうよ」
そう鍾繇がいったので、私は小さくうなずいて同意を示す。
「心残りですか……。私も、やり残したことがないようにしておきたいものです」
「おまえさんには、まだまだ時間があろう」
「だとよいのですがね。私は、鍾兄ほど長生きできる自信はありませんよ」
前世に胡昭という人物はいたのだろうか?
もし、いたとしても、何歳まで生きたのかわからないのだから、考えるだけ無駄である。
私も長生きしたいとは思っているし、人一倍、健康には気を使っているつもりではあるが、長寿が確定している鍾繇より長生きできるとは思えなかった。
「なにをいうか。おまえさんほど長生きしそうな男は、そうそうおらんと思うが?」
鍾繇は、赤い目を丸くして驚いた。
「長生きするには、身体の強さもさることながら、心の強さも必須でしょう。その点、鍾兄はお強い。魑魅魍魎がはびこる宮中でも、堂々としておられる」
憎まれっ子、世にはばかる。
そんな言葉からもわかるように、自分はストレスを感じずに、周囲の人にストレスをあたえるような図太い人物が長生きする、と相場は決まっているのである。
あるいは、自分のストレスを解消するために、周囲の人に当たり散らすような図々しい人物が。
鍾繇は目をすがめ、疑いのまなざしを私にむけた。
「……わしのことを鈍感だと思っておらんか?」
ははは、自分の胸に訊いてくだされい。
「もし、私が宮中でお勤めしたなら、一年ともたずに、心を病んでしまうでしょうよ」
私は、権力者の顔色が気にかかる小心者である。
おえらい名士あつかいこそされているが、それは前世の知識のおかげにすぎないし、心の強さに自信はない。だって、素はただの凡人だもの。
鍾繇は、ハッ、と鼻で笑うと、完全に呆れた声で、
「おまえさんは、まちがいなくわしより長生きする。わしが保証してやるわ」
なにをおっしゃる、鍾繇さん。
私の心は、こんなにも繊細で傷つきやすい、ガラス・ハートだというのに!




