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第一二五話 偽名


 江水の川岸で、鄧艾とうがいは地面に右耳をつけ、左目をつむっていた。

 できるだけ低い位置から見やるのは、膝をついた石苞せきほうの手元である。

 石苞は、木製定規を地面に垂直に立て、青銅製の曲尺かねじゃくを添えあてている。


「……そ、そこだ。い、いや、もうちょっと、上」


 鄧艾の声にあわせて、石苞が曲尺を細かく上下させる。


「このくらいか?」


「…………」


 横向きのままうなずいてから、鄧艾は立ち上がると、頭部についた土汚れをかきむしるようにして落とした。


 定規の目盛りを読みとった石苞は、竹簡にその数字を書きしるし、順調そのものといった声で、


「よし、これで測定は全部終わり、あとは残りの計算だけだ。まあ、見たところ変な数字は出てきそうにないな」


「ご、誤差は、しかた、ない」


 計測用の道具と竹簡を行李こうりに詰めこむと、彼らは作業場としている書堂にむかった。


 書堂といっても、たいした書物はないので、利用者もいない。

 落ち着いて作業できるだけの場所にすぎないが、それがかえって都合がよかった。


 ところが、彼らが足を踏み入れると、その日はめずらしく先客がいた。


 年のころは三十ほどの男である。品のあるすぐれた顔立ちをしているものの、覇気のない表情が、せっかくの美丈夫びじょうふぶりを台無しにしている。


 人づきあいの苦手な鄧艾は、小声で石苞にたずねた。


「だ、誰だ……?」


「俺も知らねえ」


 石苞も声をひそめた。


 このむらはごく小さな集落である。

 社交的な石苞は、住民ほぼ全員の顔をおぼえていた。

 その彼が知らないのだ。この邑の人間ではないようであった。


 目が合うと男は小さく会釈えしゃくをした。

 鄧艾と石苞は会釈を返して、行李をゆかに置いた。


 彼らが、絹布けんぷと竹簡、筆具を文机ふづくえの上に手際よくならべていると、男がふらふらっとした様子で近づいてくる。


「君たちが、この集落の地図をつくっているという、孔明先生の弟子なのかな?」


 男はそういって、ほんの一瞬、地図が描かれている絹布に視線を落とした。

 石苞と鄧艾は、困惑の顔を見合わせると、


「孔明先生門下の姓は石、名は苞、あざな仲容ちゅうようと申します」


「と、鄧艾、あ、字は、士載しさい、と申す」


 男は申し訳なさそうに笑った。


「ははは、これはご丁寧に。私のようなただの旅商人にかしこまる必要はない。そうだな……」


 言葉を切ると、男は視線を宙にさまよわせ、何事かを考えながら、


「この場では……陸遜りくそん、字は伯言はくげんとでも名乗っておこうか」


 あきらかにそれとわかるていで、偽名を名乗った。


 石苞と鄧艾はふたたび顔を見合わせた。

 どちらの顔にも、不審の表情が浮かんでいる。

 だが、素性の知れない人物にかかずらっていたところで益はない。


 ふたりは文机の上に意識をむけた。

 竹簡に計算式を書き、出てきた数字を、また別の竹簡に書いていく。

 しばらくすると、たまりかねた石苞が手をとめて、いかにも迷惑そうに視線をあげた。


「……なにか御用でしょうか?」


 陸遜が、彼らの作業を上からのぞきこんでいる。

 これでは作業がはかどるはずもない。


 陸遜は、ぱちくりとまばたきをすると、遠慮がちな声で、


「地図づくりは高度な技能だ。それを君たちのような若者が手がけていると聞いて、興味がおさえられなくてね」


「私たちは孔明先生の門下に入ってまだ日が浅く、浅学な身であることは承知しております。ですが――」


 石苞の声に苛立ちが混ざる。

 その言葉をさえぎるように、陸遜は穏やかな苦笑をたたえると、


「いや失敬。見たところ、君たちは九章算術きゅうしょうさんじゅつ方格法ほうかくほうもしっかり学んでいるようだし、荷が重いといいたいわけではないのだ」


「はぁ」


 もはや不審を隠そうともせず、石苞はしかめっ面になった。


「ただ、旅商人などしていると、地図も見慣れていてね。ひとつ疑問がある」


 陸遜はそういって、地図を見おろした。


「君たちは高さをはかっているようだが、山間やまあい陸渾りくこんであればともかく、この集落は平坦な地にある。なぜ、こんな平坦な土地の高さをはかるのだろうか?」


 黙々と作業をつづけていた鄧艾が、顔をあげて答える。


「……か、海嘯かいしょう、です」


 石苞がため息をついて、鄧艾の言葉を捕捉する。


「この集落は江水のほとりにあるため、海嘯の被害を受ける可能性があります」


 海嘯とは海水が河川を逆流する現象で、津波もこれに含まれる。


 陸遜は、はっと目を見ひらいた。


「……そうか。水害や塩害の可能性を考えて、川からの高さを計測しているのか」


「本来は海水面からの高さを計測しなければならない、と孔明先生はおっしゃっていました」


 石苞の言葉を聞いて、陸遜は納得したようにうなずいた。


「……海水面からの高さとなると、たしかに簡単にできることではない」


 疑問が晴れても、陸遜は立ち去ろうとしなかった。


 遠慮がちにしているわりに図太いところがあるのか、迷惑そうな視線をむけられても、まったく気にしていないようであった。


 能天気そうなまなざしで、ふたりの作業をぼんやりとながめつづける。するどさの感じられない表情をしているくせに、彼らがなにをしているのかはしっかり理解しているらしい。誤りを見つけては、指摘を飛ばしてくる。


「それでは、ここらでおいとまさせてもらおう」


 地図の完成が見えてきたところで、ようやく陸遜は去った。


 奇妙な闖入者ちんにゅうしゃがいなくなると、陸遜に計算ちがいを指摘された石苞は、非難していいのか、感謝していいのかわからない、といった調子でつぶやく。 


「役に立つみたいだったから、追い払わなくともいいと思ったけど……。どう見ても旅商人じゃねえよな」


 鄧艾は肩をすくめて、


「あ、あの男の、出自は、士大夫だ」


 商人であれば金勘定には長けていよう。


 だが、陸遜自身がいったように、彼らがおこなっていたのは単純な計算ではなかった。

 商人に必要な知識の枠におさまらぬ、高度な算術である。


 それに習熟しているとなると、士大夫の家、そのなかでもかなり教育に力を入れている家の者であるように思われた。


「あきらかに偽名だったしな。名乗りたくない、身分を明かしたくない理由か……」


 石苞がうろんな目つきでいうと、鄧艾がぶすっとした表情で、


「き、決まっている。あ、あれは、孫権の、家臣だ」


 赤壁の戦い以前、陳登と孫権はこの地域の領有権を争っていた。

 陳登の領内で偽名を名乗る理由がある人物など、孫権の部下以外にいるはずもなかった。






 吹けば飛ぶような小さな集落には、あらたな産業が芽吹こうとしていた。

 陸遜と名乗った男――陸議りくぎは邑をあとにした。

 駄馬の手綱を引いて、ゆるやかに流れる江水沿いの道を歩く。

 のんびりとした表情の裏で、彼はふたりとの会話を思い返していた。


海抜かいばつ、か」


 海水面からの高さを、孔明はそう名づけたという。


 本来あるべき歴史において、海抜は元代に提唱される概念である。

 千年後に生まれるはずだった概念を、ぶつけられたのだ。

 陸議は胸がすくような高揚と、胸をがすような畏怖いふを同時に感じていた。


「すごいことを考えつくのだな、孔明先生は」


 陸議とて海嘯の存在は知っている。

 呉郡の住民には、実際に被害を受けた者も少なからずいる。

 しかし、その危険性を数字として可視化しようとした者は、彼の知るかぎりひとりもいない。


「いまさらながら、周瑜どのの言葉が思い返される……」






 陸議が孫権に仕官したばかりのころ、孫権から離反しようとする北来ほくらいの名士や江東の豪族をなだめるために、周瑜は忙しい日々を送っていた。


 その合間に、周瑜はだしぬけにいった。


「伯言、呉郡陸氏ごぐんりくしはいわずと知れた名門だ。そのうち君も、豪族と名士をまとめるために、走りまわるようになるだろう」


 不吉な予言を、陸議はひかえめな態度と声で拒絶する。


「周瑜どのがいれば、私の出る幕などないでしょう」


「なんでもかんでも私にまかせないでくれ」


 周瑜は苦笑を浮かべると、


「名士をふたつに分類するとしたら、君はどう分ける?」


 その質問にも、唐突の感があった。


 陸議は子どものころの一時期、廬江周家ろこうしゅうけ本貫地ほんがんちである舒県じょけんで暮らしていた。

 同じ主君に仕えるようになる前から、周瑜とは顔見知りである。


 その縁があるからなのか、はたまた将来性を買っているのか、周瑜の声には、陸議を試すようなひびきがあった。


 陸議は、周瑜の目の奥底を見て答えを出した。


「漢朝の再建を目指す名士と、漢朝を見かぎった名士でしょうか」


 周瑜は苦笑を深めて、


「それも正解ではあるが、どちらかというと、私のなかにある二面性だな。……漢朝の都合によってつくられた名士と、古来より存在する名士だ」


 高祖こうそ劉邦りゅうほうおこした漢は、王莽おうもうによって一度滅びた。

 光武帝こうぶてい劉秀りゅうしゅうが漢を再建し、その後、国家の安定のために、儒教が称揚された。

 それにあわせ、儒教を体現する人物として引き立てられたのが、いまの世の名士たちである。


 古く、名士は仕えざる者であった。

 徳行にすぐれ、道理に明るく、隠者として暮らす。

 王者であろうと臣下とすることができない人物を、名士と呼んだ。


「漢朝という容れ物がひび割れていようと、いまの名士たちはそれを修繕することしか考えていない。漢朝の護持が、彼らの存在意義であり、至上の命題であるからだ」


「彼らは、あらたな容れ物を用意する努力をおこたっている。そう見ることもできますね」


「そうだ。容れ物ではなく、中身こそが重要だろうに」


 周瑜がいう中身とは、もちろん民の暮らしぶりのことである。


 陸議は首をひねり、疑問をぶつけた。


「周瑜どのは、いまの名士たちに否定的なようですが。……だからといって、古くからの名士が役に立つわけでもないのでは? 俗世からはなれた隠者に大きな力はない。せいぜい、郷里周辺の民衆を救う程度のことしかできないでしょう」


 多くの民を救いたければ、大きな力を振るわねばならない。自明の理である。

 権力に固執するのも問題だが、立場を投げ捨てて隠者となるのも無責任ではないか。


「ひとりだけいるだろう? 本来の意味での名士でありながら、四海に影響をおよぼしうる人物が」


 周瑜はそういって、陸渾の胡孔明の名をあげたのであった……。




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― 新着の感想 ―
陸遜が来てたと聞いた時のリアクションが楽しみ。 陸議と名乗られた方が、誰それとなってそうだ。
偽名を名乗るのにわざわざ孫の字を使ったのは、まさか本名名乗るわけにはいかないけど彼らを欺きたいわけではない、という知恵 かなと思いましたが陸遜が鄧艾らにそこまで気を使う理由は見当たらないか
(名士とは)孔明先生か、それ以外か。 かっけぇぇえ!!
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