第十二話 曹丕と司馬懿
台所で蜂蜜の小壺を手にとったら、中身がすっからかんでした。
忘れていた。蜂蜜は醸造家に全部あずけて、蜂蜜酒にしている最中だった!
郭嘉ァァァァァッ!!
私は許都の友人に呪詛をとばした。
だって、郭嘉が悪いのだ。なんべんいっても、不健康な生活を改めようとしないから。
郭嘉は体が丈夫ではないのに、ハードワークも遊び歩くのもやめようとしない。稀代の天才軍師が赤壁の戦いより前に早逝してしまうことを私は知っているので、なんどもなんども体をいたわるよう説得はしたのである。ところがあの野郎、やたら頑固で取りつく島もない。
よかろう。そっちがその気なら、食事療法から上陸してみせようではないか。そう考えて、酒のかわりに滋養のある蜂蜜酒を飲ませよう、と計画しているところだったのだ。
タイミングが悪いにもほどがある。
ほかに、甘いものはないのか。台所をざっと見わたす。砂糖はない。高いしほとんど出回らないし、贅沢品だと思って買っていなかった。水飴はあるが、あまり味はよくないし、そもそも貴人に出すようなものではない。
かくなるうえは、なにかつくるしかないか。決意したとたん、私の目に輝いて見えるものがあった。台所の片隅で、「ここにいるぞ!」とりんごと梨が自己主張していたのだった。
えー、というわけで、ジャムをつくりたいと思います。アシスタントは司馬懿さんと曹丕くんです。衛生的に調理をおこない、かつ服も汚さないように、司馬懿にはエプロンを、曹丕には私と同じ割烹着を着用してもらっています。
「めずらしい料理をつくると噂には聞いていたが、どうしてオレまで……。なんだよ、『じゃむ』って……。なんだ、これ?」
曹丕は不満と疑問に口を尖らせながら、小ぶりの中華鍋を顔の前まで持ちあげている。
包丁を握り、もう片方の手をりんごに伸ばそうとしていた司馬懿が、曹丕を横目で見て、
「それは鍋だ。孔明先生が発明された調理器具で、鼎よりも繊細な調理が可能となる」
「ふぅん、……鉄でできているのか?」
「鍛冶工房に直接足をはこんでつくらせた、鉄をたたいて打ち出したものだ。小型の鍋だから、小さいほうの掛け口を使うといい」
鉄鍋をしげしげ見つめる曹丕に、司馬懿は心なしか得意そうに説明した。
私は不安を覚えた。司馬懿はここでなにを学んでいるのだろう? いや、私は彼になにを教えているのだろうか?
エプロン姿の司馬懿が、慣れた手つきでりんごの皮をくるくるむきはじめる。それを見ている私の胸中では、ぐるぐる不安が渦巻いているわけですが。……気にするのはよそう。司馬懿なら勝手に学ぶべきことを学ぶでしょう。
曹丕がかまどの焚き口に薪をくべる。私は私で菌桂の品定めをする。菌桂とは小枝の樹皮を乾燥させてつくる、シナモンスティックみたいな香薬のことだ。できるかぎり風味のよいものを選ぼうとしていると、ぼやく曹丕の声が聞こえた。
「果物をぐちゃぐちゃにするなんて台無しじゃねえか。梨はそのまま食べたほうがいいって。りんごはどうでもいいけどよ」
どうやら、梨とりんごの間には大きな格差があるようです。この時代のりんごは小粒で酸味が強すぎるとはいえ、りんごは泣いていいと思う。
「うむうむ。たしかに、りんごはすっぱいな。しかし、だからこそジャムにする価値があるというもの」
と、私はりんごをフォローする。
土産にジャムをもたせたいだけなら、できあがっているものをわたせばいい。だが、そうはいかない。曹丕にジャムをつくらせる。そこに私の思惑があるのだ。
狙いはふたつあった。
ひとつは、調理実習やキャンプでつくったものは、おいしく感じるというアレである。
もうひとつは、司馬懿の将来に関することだった。
毎日のように司馬懿と顔をあわせていると、仕官の話題になることもある。いずれ出仕するつもりだと聞いたときは、心底安堵したものだ。しかし、私の弟子になった分、本来の歴史よりそのタイミングは遅れるとみていいだろう。
じつは司馬懿がいつ出仕して、どのような功績をあげて出世したのか、私はよく知らない。知っていることといえば、才能を危険視されて曹操には重用されなかったことと、次の代で大出世をとげたことだ。次の代、すなわち曹丕の代である。
ここで共同作業をすることで、司馬懿と曹丕の親密度がアップしないかな。それで出世レースの出遅れをとりもどせたらいいな、なんて画策しているわけです。
もとからドラフト一位の司馬懿は、私のコネを使ったところで、それ以上にはなりようがないので。だったら、ほかの手を打とうじゃないか。司馬懿の出世ペースを元どおりにするためなら、私はお料理教室だってひらいちゃうぞ。
ちょっとした期待をこめてこっそり様子をうかがっていたら、かまどが盛大に火を吹いた。曹丕が薪をポンポン投げこむからであった。
「火の勢いはもう少し弱めにな。その服が料理用といっても、あくまで清潔にするためであって、燃えない布でできているわけではないぞ」
私の忠告に、曹丕は顔をあげてこちらをむいた。
「……燃えない布って、火浣布のことか?」
「うむ? そうだな」
火浣布とは火に投げいれても燃えず、汚れだけが焼け落ちるという、伝説の布である。火山に住んでいる火ねずみの毛で織られる、とされている。
「へえ……。みなが賞賛するから、どんな人物かと思えばこんなもんか。とんだ期待はずれだったな」
曹丕は白けた表情を浮かべて、立ちあがった。
「がっかりだぜ。まさか、火浣布などというでたらめな話を信じているとはな。あんたもしょせん、そこらの腐れ儒者と同類だ。世間の目はだませても、このオレの目はごまかせねえ!」
「わが師に対する暴言はゆるさん。取り消してもらおうか」
包丁を片手に、司馬懿がしずかな声ですごんだ。曹丕は、両手の薪をさながら二丁拳銃のように回転させつつ、鼻先で笑った。
「じゃあ、なんだ? 火ねずみなんて生き物が、本当にいるとでも思っているのかよ?」
司馬懿の冷えたはがねを思わす視線と、曹丕の燃えあがる炎のような視線が交錯する。まさに一触即発、親密度アップどころか、敵対関係が発生しそう。
やめて! 私のために争わないでッ!!
なんていってる場合じゃねえ!!
「まあまあ、落ち着きなさい。火浣布も火ねずみも存在しない。皇甫鑠、おぬしは、そういいたいのであろう?」
「当たり前だ。燃えない生き物なんていてたまるか」
私が仮の名を呼ぶと、不快感をむきだしに偽名の少年は吐き捨てた。
「ふむ。……私の意見は少々ちがうな。火ねずみが存在しないことには同意するが、火浣布は実在してもおかしくはないであろう」
「……どういうことだ」
曹丕は眉をつりあげた。のちの皇帝陛下に矢のような視線を突き刺されようが、私には余裕があった。火浣布の正体は想像がつくのである。
「伝承では、火浣布は火ねずみの毛の織物といわれているが、私の見解は異なる。おそらく……火浣布とは、綿のような石を紡いだものであろう」
思いがけない言葉だったにちがいない、曹丕はまばたきした。
綿のような石、石綿はその名のとおり、繊維状になった石のことで、別名をアスベストともいう。耐熱性にすぐれ、建築素材などによく使用されていたのだが、人体への悪影響が判明して社会問題にまでなった、いわくつきの物質である。
「石とは不思議なものだ。玉のように美しいものもあれば、溶けて銅や鉄を生みだす石もある。それらの中で、もっとも不思議な石とは、どのような石であろうか?」
「……私は、燃える石だと思います」
私の問いかけに、期待どおりの回答をしてくれたのは司馬懿で、曹丕は口をへの字にむすんでいる。
「うむ、そのとおりだ。燃えないはずの石が燃える、なんとも不思議ではないか。自分の目で見なければ、とうてい信じられないであろう」
「知っている。黒い石のことだろ」
むすっとした顔のまま、曹丕はうなずいた。黒い石、石炭はわずかではあるが、この時代でも使用されている。
「けれど、綿のような石だなんて、どうしてそんな奇抜な発想になるんだ?」
少年の疑問はもっともである。私は重々しくうなずいて、
「うむ。私も残念ながら、火浣布の実物は見たことがない。だが幼いころに、羽毛をこすりつけたような石を見た記憶があるのだ。今にして思えば、あれを気が遠くなるほど集めて糸を紡げば、布を織れるのかもしれぬ」
ホントは幼いころではなく、前世の記憶なんですがね。
「なるほど……。燃える石ですら存在するのです。毛羽だった石があったとしても、なんらおかしくはないでしょう」
あごをなでながら、司馬懿が首肯した。彼に賛同してもらえると心強いというか、ものすごく説得力が増す。エプロン姿だけど。
曹丕は視線をそらしてうつむき、
「……わかった。さっきの発言は取り消そう」
といって、かまどの前にしゃがみこんだ。そして焚き口の炎を、手にした薪で突っつきながら、ぶっきらぼうに。
「少なくとも、火ねずみのようなありえない話じゃない、ってのはわかったよ」
あまりに聞き分けがよかったもんだから、私はおどろいた。
……傍若無人なクソガキと思いきや、もしかするともしかして。
曹丕くんは、悪い子じゃないかもしれません。