第十一話 生意気な少年
建安三年(一九八年)、曹操に派遣された裴茂が李傕軍を撃破し、四月に李傕は処刑された。
李傕といえば、長安を炎にくべた大罪人。洛陽を燃やした董卓の粗悪な後継者として、おそれられた人物である。
この朗報に、洛陽の民は沸きたった。
復興を進めながらも、彼らの生活は常に恐怖と隣りあわせだった。
いつ董卓軍の残党がやってくるか、と怯えていた。
李傕の死とともに、董卓の亡霊も、ようやく地上から去ったように感じられたのだ。
最盛期には遠くおよばないものの、洛陽は近年にない、活気のある秋を迎えていた。
九月上旬。
洛陽で指折りといわれる武芸者の屋敷。その中庭で、いつものように木刀が打ちあわされていた。ただし、その中身は日頃の鍛錬とは比べものにならない。木刀と木刀の激突は、実戦とすら遜色のない熾烈なものだった。
それもそのはず、木刀を振るい競っているのは、屋敷の主人である男と、稽古場荒らしの少年なのだ。
自らそうと名乗ったわけではないが、「おまえの腕を試してやろう」といって挑んできたのだから、稽古場荒らし以外の何者でもない。
生意気な少年だが、すぐに口の利きかたを教わるだろう。
そう期待していた門下生たちも、今や固唾をのんで勝負の行方を見守っていた。
突く。はらいのける。打つ。受けとめる。
からみあうように、ぶつかるように、両者の位置がいれかわる。
大口をたたくだけあって、少年は相当な手練れであった。
二十合あまりの打ちあいの末に、ふたりは正対した。
数瞬の静寂。
前に出たのは、武芸者の男だった。
裂帛の気合いとともに、斬撃が横に疾る。
男の木刀が少年の肩先をかすめ、むなしく空をないだ。
すんでのところで、少年が身をひねってかわしたのだ。
結果、男に隙が生じたのを、少年は見逃さなかった。
グッと踏みこんで、攻勢に転じる。
少年の木刀がまっすぐに突きだされる。
その切っ先が男の胸を突くと、トンという軽い音が、いやに大きく響きわたった。
「この勝負、オレの勝ちだ。文句はないな?」
「……まいった」
誰の目にも、勝敗はあきらかだった。
少年は、ふぅ、と力を抜いて木刀を引いた。
「先生っ!」
門下生からあがる悲鳴のような声に、男は力なく首を振った。
少年が不敵な笑いを浮かべて、
「いや、悪くはなかった。だが、オレはまだ本気を出しちゃいねえ。オレは双剣のほうが得意なんでね」
声にも表情にも、たった今激闘をくりひろげた相手への顧慮はなかった。
「くっ、こいつッ!」
門下生のひとりがいきりたった。木刀を握りしめて、少年に詰めよろうとするが、
「ぎゃっ!」
その矢先に、もんどり打って倒れこんだ。彼の額をしたたかに打ちつけたのは、少年が投じた木刀であった。
「次は、……抜くぞ」
と、少年の手が腰の剣に伸びた。
華美な装飾が施された剣は、一見、儀礼用にも見える。しかし、少年の腕前からして、剣だけが装飾品のわけもない。見せかけではない、本物の宝剣だろう。
たじろぐ門下生たちに、
「いいことを教えてやる。オレは天才かもしれないが、それは弓術と馬術に関してだ。剣術なら、まだ勝ち目はあるぞ」
少年はどこまでも尊大にいって、
「腕に自信があるやつは、許都にこい。諸兄らの挑戦、まっているぞ。ハハハッ!」
勝者らしく、悠然と稽古場をあとにした。
それからほどなくして、少年の姿は洛陽の外にあった。
「ちっ、かつての京師も、今や昔か……。急ぎすぎたな」
馬を進める少年の顔に、勝利の余韻はなかった。
かわりに、苛立ちが色濃くあらわれている。
優秀な人材と出会いたかった。
英雄になるような男は、そうした縁に恵まれるものだ。
父から与えられるのではない。
自らの手で天運をつかめる男になりたいのだ。
李傕軍が滅んだことで、人の流れは正常化しつつある。だが、関中方面が安定したとはいいがたい。洛陽に人材がもどってくる日は、まだまだ遠いようだった。
母なる河水の支流、伊水を前に、少年は馬をとめた。
馬上で巧みにうしろをむいて、都城の全貌を目にいれる。巨大な城郭に手をのばして、まるで自分のモノとするかのように、ぎゅっと握りしめる。
「まっていろ。いつか必ず、オレのこの手で、洛陽の栄華をとりもどしてやる」
とはいえ、せっかく許都を飛びだしてきたのだ。
このまま収穫なしというのも、おもしろくない。
「そういや、この近くに賢者がいる、と父上がいっていたな。……たしか、陸渾だったか」
*****
武芸とは、教養の一部でもある。
私も士大夫のはしくれとして、一応、習ったことはある。結果は目をおおわんばかりだった。
「フッ! フンッ!」
とりわけ、弓は常軌を逸していた。
なんで私だけ、「びちょん」とか「ぼごっ」とか、珍妙な弦音がしたのやら。
さっぱりわかりません。けど、わかったこともある。
自分の射た矢が足元に突き刺さったとき、私は結論に達したのだ。
弩を使えばいいじゃない!
「ハッ! ムンッ!」
そんなふうに、身につかなかった武芸の話を振り返ってしまうのは、窓の外から聞こえてくる、暑苦しい司馬懿の声のせいだろう。
軍師には二種類の人間がいる。
武芸を鍛える人と、鍛えない人だ。
司馬懿はまごうことなく前者であった。
私は部屋を出て、中庭で槍の鍛錬をしている司馬懿に声をかける。
「そろそろ茶の時間に――」
そのとき、空を裂いて飛来するものがあった。
竹槍がうなりを生じて、司馬懿の胸をつらぬくかに見えた。
寸前、
「フッ!」
司馬懿は鋭い呼気を発し、手にした槍をひらめかせた。
鉄の穂先が一閃して、おそいくる竹槍をたたき落とす。
にぶい衝突音に、地面を転がる竹槍の音がつづいた。
「なにやつ!?」
司馬懿が誰何した。
槍を握りなおして、構えをとる。
その視線を追うと、少年が立っていた。
「ハッハッハ! よくぞ防いだ。なかなかやるじゃねえか、でかぶつ」
高らかに笑う少年を見あげて、司馬懿がうめくようにいう。
「……なぜ、塀の上に?」
そう。……なぜか少年は塀の上に立っていた。
「うむ」
私にはわかってしまった。
この瞬間、私の知力は司馬懿をも上まわり、かぎりなく一〇〇に近づいていただろう。
見たところ少年の年齢は、前世でいうところの中学二年生ぐらい。
これはもう、確定的にあきらかである。
いつの時代、どこの国でも、中二病は発症するのだ!
「塀の陰にこそこそ隠れるより、塀の上で堂々としているべきだ。おそらく、彼はそう考えたのであろう」
「いくらなんでも、塀の上では動きにくいだけだと思うのですが……」
「うむ。……しかし、それがとても大事なことなのだろう。彼にとっては」
司馬懿はため息をもらすと、おどしつけるように、
「小僧、ここが誰の屋敷かわかっているのか」
「もちろんだ! オレの名は皇甫鑠。高名な学者が陸渾にいると聞いて、遠路はるばる訪ねてまいった!」
少年、皇甫鑠は声高に名乗った。
ふと気づいて、私は地面を見る。
そこに転がっている竹槍は、槍にしては短すぎるような。
ちょうど、剣くらいの長さだろうか。
拾いあげてみると、意外と重さがあるというか、中身がある。空洞ではなかった。
「これは……」
よく見ると、先端にかじった跡があった。
……これ、竹じゃない。さとうきびだ。
「この家で、一番うまい茶を飲みたい」
客間に案内するなり、皇甫鑠がわがままをいいだした。
この時代の茶は、茶葉にミカンの皮などをまぜて煮出すものだ。どのように配合するか。いれる人の経験や感性によって、まったくの別物になる。
だから、私が茶をいれることにした。
それにしても、なんというクソガキであろう。
私は腹を立てていた。
ただのさとうきびだったとはいえ、いきなり攻撃してくるとは。もし先端を尖らせてあったなら、司馬懿はただじゃすまさなかったはずだ。
その司馬懿はというと、何事もなかったかのように平然としているのだが、それがまた、妙に威圧感があっておそろしい。
私の前だから、遠慮しているのだろうか。
それとも、叱りつけるのは私の役割だと判断しているのだろうか。
だとしたら、一発かまして、ビシッと決めるべきかとも思う。
だがしかし。
なんか厄ネタの気配を感じるのだ。悩ましい。
私の知る範囲では、三国志に皇甫鑠なんて武将は存在しない。
特段危険視するような相手ではないはず、……なのに厄ネタの匂いがプンプンする。
腹を立てつつ、悩みつつ、台所にむかう。
すると、司馬懿が追いかけてきた。
「先生、ちょっとお耳を」
「む? おぬしにはあのク、少年の相手をまかせていたはずだが」
「気がかりなことがありまして、少し席をはずしました。……先生は、あの少年をどう思われますか?」
「どう思う、といわれてもな。たんなる名家の子息ではなさそうだが……」
私は眉間にしわを寄せた。声をひそめて、
「仲達、おぬしはどう思うのだ?」
「皇甫鑠と名乗っていましたが、十中八九、偽名でしょう」
「ほう……」
「私の憶測ではありますが……。曹操の嫡子、曹丕ではないかと」
「なんと」
どういうことだってばよ。
「かつて官憲に追われたとき、曹操は皇甫と名を偽って、難を逃れようとした。と聞いたことがあります」
「ふむ」
「また、病没した曹操の次男が、鑠という名であったはずです。そこから皇甫鑠と称しているのでしょう。曹丕は武者修行を口実に、各地をうろついているらしいので。まず、まちがいないかと」
ほえ~~。
あぶない、あぶない。
あとちょっとで、のちの皇帝陛下をクソガキあつかいしてしまうところでした。
軍師の助言とは、こうもありがたいものか。さすが司馬懿よ。
「……となると、どうしたものか」
「話によれば、曹丕は甘いものに目がないそうです。蜂蜜でももたせてやれば、悪いようにはなりますまい。しょせんは子ども。上手くいけば、つまみ食いの誘惑にかられて、急に帰りたくなるかもしれません」
と、司馬懿はニィッと口の端をつりあげて、
「あんなクソガキには、さっさとお引き取り願いましょう」
「…………なるほど、蜂蜜か。その手でいってみよう」
引きつづき司馬懿に皇甫鑠、もとい曹丕の相手をまかせることにして、私はあらためて台所に向かう。
フフフ。さすが司馬懿、頼りになる男よ。
さす司馬!!