第一話 転生したらモブ孔明だった件
三国志のゲームをダウンロードして、さあ、はじめようかッ! というところで私の前世の記憶は途絶えている。
それが二十一世紀の日本での、しがないアラフォーおっさんだった私の最後の記憶なのだが、前世の記憶といっていいのかどうか、いまいちよくわからない。
なぜなら、今の私がいるのは二世紀の中国だから。
どちらかというと来世の夢を見た、と表現したほうが正しいようにも思うけど、どっちが正しいかなんて、それほど重要なことではないだろう。
重要なのは、私が三国志の世界にいるという、どうしようもない現実。
乱世ですよ、乱世。
ああ、人がゴミのようだ。
そんな時代を生きていかなければならないのです。
やれやれだぜ。
初平二年、たぶん西暦にして一九一年。
黄砂吹きすさぶ、中国大陸の冀州という地。
私の家の庭先には、三人の同郷の士が別れの挨拶にきていた。
「すまぬ、孔明どの。われらが袁紹さまを制止できればよかったのだが……」
「いやいや、佐治よ。娘が生まれたばかりで忙しいだろうに手を貸してくれたこと、礼をいうぞ。おぬしらの助けのおかげで、こうして逃げる猶予があるのだ」
私は友人の心遣いに感謝した。
辛佐治。字ではわかりづらいだろうが、辛毗といえば三国志ファンにはわかるだろうか。優秀な文官である。
「孔明どの、もうあまり時間はないだろう。旅の準備が万全でなくとも、急いだほうがいいかもしれぬ」
「ああ。友若、いろいろと世話になったな」
荀友若が、急かしてくる。荀諶といえば三国志ファンにはわかるだろうか。あの名軍師・荀彧の弟にして優秀な文官である。
「それがしはっ、それがしは孔明どのと同じ主君を仰ぐ日を、楽しみにしていたのですぞおおおおおおっっ!」
「おお、公則よ、すまぬな。それと少し落ち着くがいい」
郭公則が感情もあらわに天を仰いだ。
郭図といえば三国志ファンにはおなじみだろう。出ると負け軍師である。
「ああ、ああッ! 胡孔明が策をめぐらせ、この郭公則が先陣をきれば、天下は袁家のものも同然というのに、なんと口惜しいことかああああああッ!!」
そうだろうか。絶対にそんなことはないと思うよ。あと先陣をきるな。
「やれやれ、おぬしは血気盛んであるな」
あきれる私は、胡孔明という。
そう。孔明どの、孔明どの、と呼ばれてはいるが、諸葛孔明ではない。
姓は胡、名は昭、字を孔明という、その他大勢である。
どうやら私はモブキャラに転生してしまったようなのだ。
転生に気づいた当初は、「天はなぜ、この私を孔明に転生させておきながら、諸葛孔明に転生させなかったのか!」なんて思ったりもしたけど、その思いはすぐに消えた。
よくよく考えると、本物の孔明だって、結局は激務のすえに過労死といってもいい最期を迎えるわけで。あまりうらやましい人生じゃなかったわ、うん。
それに、未来を知るかのごとき(知ってる)神算鬼謀で天下統一! なんて気持ちもすぐにうしなった。うしなったのにはれっきとした理由があるのだが、今はそんな昔を振り返っている場合ではないだろう。
思い出すのは、昨日の出来事だけで十分だ。
こんなモブ孔明にも、三国志の英傑が魔の手を伸ばそうとしているのである。
*****
「胡孔明よ! 私が用意した屋敷への転居を命じる! 光栄に思うがいい。これより、おぬしはこの袁紹に仕えるのだ!」
昨日。官庁に呼び出された私は、いならぶ武官文官の前で、袁紹にそう命じられた。
袁紹、字は本初。
昂然と椅子にすわるその姿はまさに威風堂々。
名門袁家を代表するにふさわしい風貌の持ち主だ。
袁家は四代にわたって三公を輩出した名門であり、袁紹自身も反董卓連合軍という諸侯連合の盟主となったほどの英傑である。
それほどの人物が、厚遇をもって迎えようとするこの私。いったいどれほどすごい人物なのかというと、ちょっと名が売れはじめたばかりの書法家にすぎなかったりする。実務家としては何の実績もないのだが、名声を重視する袁紹にとってはその名こそが重要なのだろう。
そんなありがた迷惑な袁紹からの仕官の誘いを、私は再三にわたりお断りしていた。
しかし、この場でNOというのはむずかしそうである。
周囲には袁紹の配下がずらりとならんで、メンチを切っていらっしゃる。
彼らの前でこの誘いを拒絶すれば、袁紹の体面を傷つけることになるだろう。
さすがに集団リンチとまではいかないだろうが、投獄くらいは平気でされちゃいそうな雰囲気です。
むむむ、しかたない。ひとまず従ってみせるしかないか。
「ははっ。ありがたきしあわせ……」
うやうやしく拱手(手を合わせてぺこり)する私に、袁紹は満足そうにうなずいた。
その顔を見ながら、私はこの地を去る決意を固めていたのだった。
*****
栄えある名門袁家への仕官ともなれば、世間の目からは出世としか見えないだろう。しかし、未来を知る私にとって袁家に仕えよという命令は、無慈悲な通告であった。
袁紹は官渡の戦いで曹操に敗れ、凋落する運命にある。
袁家は後継者争いで分裂し、滅亡するのだ。
泥船と知っていて乗りこむつもりはない。
ないったらない。絶対にNO。絶対にだッ!
そんなわけで、私は引っ越しではなく逃亡の準備をしていた。
そこに、辛毗、荀諶、郭図の三人が訪れたのであった。
彼らは袁家に仕える人間ではあるが、私にとっては同郷の朋友である。
かねてより、彼らは私に袁家への仕官をすすめていたし、私は私で、袁紹には将来性がないと彼らに説いていた。
私が袁紹に仕えたくないことを知っている彼らは、ありがたい情報をもってきてくれたのだ。
話を聞くに、袁紹は私に見張りを付けようとしているらしい。
なんとまあ、ケツの穴の小さな英傑ですこと。
「さささっ、名残惜しいですが、お急ぎくだされ。孔明どのッ」
「う、うむ」
背を押すような郭図の言葉に、私がうなずいたとき、異変が生じた。
「むっ、あれはっ!」
「むむ、なにやつッ!?」
荀諶と辛毗が、視線を建物の陰にむける。
そこに身をひそめていたのは、袁家の兵士だった。
こちらの様子をうかがっていた兵士は、私たちと目が合うや、「わわわ」と口をひらき、身をひるがえして逃げ出した!
「待てぇぃ! ぬおおおおおおおぉぉぉぉ!!」
郭図が駆けだした。逃げる兵士を追いかける。
くっ、あの兵士を取り押さえなければ、私が逃げようとしていることが袁紹に伝わってしまう!
「ぬおおおおおおおおおぉぉッ!」
おおっ、いいぞ郭図! がんばれ、郭図!
郭図の走り方は、陸上選手ばりに素晴らしかった。
時代にそぐわぬ見事なアスリート走りで、兵士との距離をぐんぐん詰めていく。
「ひぃぃっ!?」
郭図のなまはげみたいな形相におびえたのか、兵士が足をもつれさせた。
その瞬間、郭図の足が力強く大地を蹴るッ!
「キェェェェェェエエエエエエッッッッ!!」
奇声を発して、郭図が、跳んだッ!?
その跳躍は…………美しかった。
まるで、巨大なにわとりが大空を飛翔するような……。得体のしれない美しさがあった!!
郭図が兵士の背中に飛びかかり、押し倒す。
そのまま馬乗りになって押さえこんだ!
「おおっ!? まさか、郭公則がこれほどの武勇の持ち主とは……」
「なんという身のこなし……。これはもしかすると、顔良・文醜に匹敵するやもしれませんぞ……」
ぼうぜんとする荀諶に辛毗。
猛将・郭図ッ!? K○EIじゃあるまいし、そんな馬鹿なッ!?
「さっ、早くっ! 早くお逃げくだされ、孔明どのオオォオォォォ!!」
暴れる兵士の首筋を押さえながら、郭図は絶叫する。騒がしい。
ゴキッ!
その聞こえてはいけない音は、私たちの時をとめた。
言葉を忘れて、私と荀諶と辛毗は顔を見合わせた。
こういう状況を音が消えるというのだろうか。
風に舞う黄砂が、地に落ちる音すら聞こえそうな、どこまでもしずかな一瞬だった。
私たちはそろって郭図を見た。
郭図も動きをとめて、ぽかんとこちらを見つめ返していた。
「……………………」
その音は郭図の手元、兵士の首あたりから聞こえた。
まぎれもなくアレさ、……首の骨が折れる音。
私たち四人は、無言で見つめ合う。
「…………さ、こ、孔明どの、早くお逃げくだされえええ! くぅ、こやつめ、まだ暴れるかッ!?」
と兵士の肩をこっそりつかんで、暴れてるように見せかける郭図。
……こいつッ!? なかったことにする気だッッ!!
郭図に揺すられ首をぷらんぷらんさせている兵士から目をそむけ、私は荀諶と辛毗に視線で問いかける。
どうしたものか?
「……何も見なかったことにしよう」
「そ、その通りですな。さ、お逃げくだされ、孔明どの」
荀諶と辛毗の返答は、なんだか気まずそうだった。
彼らも、この一件はごまかすことにしたようだ。
け、賢明な判断であろう。
「う、うむ。そうであるな。いかな郭公則といえど、いつまでも兵士を押さえてはいられまい」
私も、兵士はまだ生きていることにした。
いや、この場に兵士はいなかった。いなかったのだッ!!
争乱の世である。兵士一人の殺人事件くらい、どうとでもなるはず。うむ。袁家に名だたる吏僚が三人そろって、もみ消そうというのだ。きっとなんとかなるであろう。そう信じて、私は友に別れを告げる。
「さらばだ、朋友たちよ。私は故郷にもどるつもりだ。潁川に来ることがあれば、いつでも訪ねてくれ」
こうして私は袁紹の手を逃れ、南へと旅立ったのであった。
さらばマイフレンズ! フォエバー郭図!!