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すると、いきなりピシッという音がしたかと思うと、砂時計の砂が落ちているあの場所に、青い光の筋のようなものが走って、今の今まで流れていた、砂がピタリと止まった。
「?!」
湊は、ジリジリと池から下がる。砂が停まった。ということは…?
ミ=ゴが、言った。
《ワガキミノ イシガ ナゲイレラレタ。ワガキミガ コラレル。ヒザヲツキ ワガキミヲ タタエヨ。》
そう言ったかと思うと、ミ=ゴはその場から、スッと消えた。
まるで、始めからそこには存在しなかったようだ。
美里が、石を放り出して立ち上がると、慌てて祭壇から飛んで離れた。
「来る?!我が君って…ニャル様よ!湊くん、どうしよう!」
チカチカと、ランタンの灯りと、燭台に並んだ蝋燭の炎が揺れて、その空間が明るくなったり真っ暗になったりを繰り返す。
どうしよう…!ああ、あの時と同じ…!
大河と理久と、最後にやったTRPG。
ニャルラトホテプが現れて、我を讃えよ、と言った。人の形で、見ても発狂することは無かったが、讃えるための呪文を知らず、言えずにいる間にそれが本当は邪神で人の姿をしているだけなのだと気付いてしまい、発狂した。
そして、ロストしたのだ。
落ち着け…!とにかく、膝をつけとミ=ゴが言った。膝をつくんだ!
湊は、急いで両膝をついた。美里が、びっくりしたように湊を見る。
「美里さん、とにかく生き延びないと!ミ=ゴが最後に膝をつけって言っていた!早く!」
美里も、言われるままに膝をついた。もう、服もあちこち泥がついてボロボロだが、それどころではない。
そもそも、相手がニャルラトホテプだとしたら、服とかそんなものは見ていないだろうし、気にしない。
そんなことより、相手はこちらが恐怖に慄く様を見て、ただ楽しむのだ。
そして、一瞬で忘れるのだろう。
湊は、ドキドキと動悸が激しくなって来る胸を、ひたすらに押えた。邪神が、本性などで現れたらどうしたらいいんだろう…。
激しい灯りの明滅の後、何かの気配が祭壇の方にした。
だが、美里も湊も、顔を上げる勇気がない。
もし、目の前に現れただろう邪神が、本性だったらどうなるのだ。
一瞬で発狂して、生きて帰ったとしても普通には暮らせない。
そう思って、じっと震えながら二人で身を寄せ合っていると、クックという笑い声がした。
…え…?
聞き覚えがある。
美里を見ると、美里も困惑した顔で湊を見ていた。湊は、やはり美里もそう思っているのか、と、思い切って顔を上げた。
そこには、ニクラスが嘲るような笑みをその口元に浮かべて、立っていた。
…やっぱり!
湊は、ニクラスを見上げて叫んだ。
「ニクラス教授!あの…あの、神様は…?」
ニクラスは、クックと笑った。
「この期に及んで君はまだ私が人だと思っているのか。」と、目を薄っすらと赤く光らせて、こちらへと歩いて来た。「さあ、ここまで来た運の強さと、他を踏みつけて生き残ったその動きは私を楽しませてくれた。なので、願いを叶えよう。まあ、私の納得がいく願いであったならな。」
他を踏みつけて、という言葉に、湊は唇を噛んだ。そんなつもりは無かった…だが、外から見ていたら、そう見えるのか。
美里が、隣りで言った。
「ニャルラトホテプ様でしょう?!弥生を、弥生を返してください!あなたに、出来ない事など無いはずですわ!」
ニクラスの姿のニャルラトホテプは、不機嫌に軽蔑するように美里を見下ろした。
「なんだその、酷い発音は。我が名を崇めるつもりはあるのか。それに、お前には権利はない。最後に解いたのは、湊。確かに私に出来ない事など無いが、叶えるか叶えないかは私が決める。お前の望みは、くだらない。これまでの事が吹き飛ぶほどにくだらない。私を失望させるな。分かるな?湊。」
湊は、困って視線を泳がせた。生き返らせるなんてことは、恐らくニャルラトホテプが聞きたい願いではない。だが、湊は居なくなった全員を、生き返らせて欲しかった。
その願いしか、今は無いのだ。
「…申し訳ありません、失望させてしまうと思います。」ニャルラトホテプは、クッと眉を寄せる。それでも、湊は続けた。「どうか、仲間たちを生き返らせてください。何か願いと言われたら、それしか、オレには思い浮かびません。」
ニャルラトホテプは、不機嫌に背を向けて、祭壇へと戻ったが、そこまで行った時、ふと足を止めて、振り返った。
その顔には、いたずらっ子のような笑みが浮かんでいた。
「…ならば叶えよう。」湊が、驚いていると、ニャルラトホテプは続けた。「さあ、では我を敬え!我を讃えよ!我はお前に言うたはず。全てを成した後、望みを叶えたくば我を讃えよと。さあ申せ!」
湊は、驚いてニャルラトホテプを見上げた。その顔には、もはや邪悪と言える笑みが浮かんでいる。
もしかしたら、ニャルラトホテプは湊が、入り口左の部屋で、呪術書を全て、読めていないのを知っている。だからこそ、ニャルラトホテプをどう讃えたらいいのか、知らないと思っている。
「湊くん…!」
美里が、心配そうに湊を見上げる。湊は、しかし思っていた。そう、最後のセッションの時、自分は発狂してしまった。だからこそ、あの呪文は頭に入っているのだ。
「くとぅるふ ふたぐん にゃるらとてっぷ つがー…、」
ニャルラトホテプは、顔色を変えた。そして、手を上げた。
池の中から、ブワッと大量の触手が溢れるように出て来て、床を這い回って美里と湊にまとわりついた。
「きゃああああああ!!」
美里が、必死に立ち上がって、どうにかそれから逃れようともがいているが、足元にもうねうねと大量の触手が這っていて、足の踏み場もなく、そもそもが逃げ場などない。
「ハハハハハ!」
ニャルラトホテプは、自分も足元を大量の触手が這っているにも関わらず、まったく気にしていない風でそれを見ていた。触手は、むしろニャルラトホテプを避けるように動いているので、巻き付いてはいなかったので気にならないのかもしれない。
その目は、人の形をしているのにどこか違うものを見ているような色を宿し、湊はゾッとした。こんなものと、同じ宿で同じ食事をして、この危険な暗闇の中で信頼して行動していたのか!
美里が、もはや触手に埋もれながら、必死に叫んだ。
「早く!湊くん、早くニャル様を讃える呪文を!妨害しているのよ!」
湊は、自分も触手たちに足を取られながら、必死に叫んだ。
「くとぅるふ ふたぐん にゃるらとてっぷ つがー しゅめっしゅ 」
と、触手の中へと倒れ込み、ズルズルと池へ向かって引きずられるのを感じた。
「湊くん!」
引き込まれる!
湊は必死に続けた。
「しゅめっしゅ にゃるらとてっぷ つがー くとぅるふ ふたぐん!」
途端に、ニャルラトホテプはチッと舌打ちするような仕草をした。
かと思うと、するすると山のような触手たちは池へと戻って行き、それがうねうねと流れていた床には、撒き散らされた石や、倒れた燭台、溢れた海水などが残って、散々な様子だった。
気が付いて慌てて起き上がると、もうそこには、ニャルラトホテプの姿は無かった。
「え…」湊は、体を起こして、きょろきょろとした。「ニクラス教授?!約束は?!みんなを返してくれるんでしょ?!」
思わずニクラスと呼んでしまったのだが、声がどこからか、失笑するように答えた。
《…私は、約束は守るのだ。今回は仕方がない。言うことを聞いてやろうではないか。だが、次はこうはいかない。せいぜい己の傍に這い寄る混沌が、現れぬことを宇宙に祈るが良い。》
ズズン、と何かの音がした。
「…出入口が開いたんじゃ…?」
美里が、ボロボロの状態で、言った。
湊は、それに頷いて、倒れてもまだ頑張って着いていたランタンを拾い上げると、美里の手を取って、そうしてあちこち痛む体を引きずって、外へと向かったのだった。
「ああ!開いてる…!!」
美里が、歓喜の声を上げる。
湊も、フラフラになりながら、外の空気を感じて、足を速めた。外は夜。でも、月明かりで明るい…。
洞窟から出ると、虫の音がして、よく考えたら洞窟の中には、そんな音が全く無かったのを思い出した。
助かった…でも、大河と、理久と、弥生さんは…。
湊は、がっくりと膝をついた。
そして、その洞窟の前で、ばったりと倒れた。
隣りで、美里が倒れ込んだのも感じ取ったが、湊はもう、口を開くことも出来なかった。




