10
湊は、すっかり毒気を抜かれた状態で、同じ様子の美里を2号室へと送り届けて、自分の部屋へと帰った。
理久は、まだカッカしていて大河になだめられていたが、もう菩薩ような心地になっている湊には、そんなことはどうでも良いような気がした。何もかもをどうでも良く思わせてしまうような、そんな美しさってどうだろう。
何かの術でも掛かっているような、そんな怪しさを感じた。
それをとくとくと理久や大河にも説明したのだが、理解するのは難しいようだった。確かにあれは、実際に目にしないと言葉では言い表せないインパクトだった。湊が必死に訴えても、この二人には何のことやら分からないだろう。
それでも、あまりに湊が必死なので、何かに憑かれたようにも見え、今度はそれをなだめようと理久と大河が必死になって、いつしか理久も自分が憤っていたことを忘れ、その夜はまたぐっすりと、朝まで眠ったのだった。
次の日の朝、気持ちよく寝ていた三人の耳に、物凄い悲鳴が聴こえて来た。
「きゃああああああ!!」
びっくりした三人は飛び上がって起きた。
大河が、この中では一番運動神経がいいので、戸へと走るのも一番早かった。
「え?え?」
理久が、状況が掴めずに目を白黒させる中、湊は慌てて大河の後を追って駆け出しながら、言った。
「何かあったんだ!理久、早く来い!」
理久は、二人が駆け出して行くのを見て、ようやく状況が把握できたようで、慌てて布団を跳ねのけて追って来た。
廊下に出ると、ニクラスが宿の浴衣のまま、腕を組んで廊下に立って眉を寄せていた。3号室の戸が開いていて、そちらの方を見ている。
美里が、弥生と共に廊下にしゃがみ込んで吐き気を堪えるように口を押えて青い顔をしていた。悲鳴を上げたのは、この二人だったのだと湊は思った。
ニクラスが、こちらへチラと視線を向けて、長い髪の間から、言った。
「…デニスが確認をしているが、修三は…、あまり、良い状態ではないようだ。」
修三?!
大河が、しゃがみ込む美里に言った。
「どうしたんだよ、お前見たのか?!修三がどうしたんだよ!」
美里は、口を開けそうになかった。顔は本当に真っ青で、額には脂汗がにじんでいる。
弥生も同じような状態だったが、こちらは茫然と、放心状態になっていた。
デニスが、3号室から出て来て、ニクラスに首を振った。
「良くない状態です。何が原因かは分かりませんが、全身に水疱のようなものが出来ていて、それがいくつか潰れていたりして、潰瘍のようになっています。本人の意識はなく、しかし、心拍は通常で乱れはなく…。今のところ命に別状はないようですが、あまり歓迎できる状況ではありませんな。」
潰瘍だって…?
男子3人は、顔を見合わせた。よく考えたら昨日から、具合が悪いと部屋に籠っていて修三の顔をまともに見ていなかった。
「…見てもいいですか。」
湊が言うと、デニスは険しい顔で湊を見た。
「見ない方がいい。修三を朝食に誘おうと私が声を掛けたのだが、反応がないから戸を開いてみると、修三があの状態で…。たまたま部屋から出て来た美里さんと弥生さんがそれを遠目に見てしまって、この状態なのだ。気持ちの良いものじゃない。」
「原因は何なんですか?」大河が、必死な様子で言った。「いったい、どうしてそんなことになったんです?」
ニクラスは、首を振った。
「分からない。だが、医者へ連れて行くことも出来ないのだ。間の悪いことに、村人たちが早朝から迎えに来た漁船に乗って出て行った。あの漁船が次に戻って来るのが、三日後。私達はそれまで、ここから離れることが出来ないのだ。ここは電波も届かないので、事前に取り決めた日にしか船が来ないのでな。」
ということは、修三はこの訳の分からない病のまま、ここに囚われた状態でいなければならないということだ。
ニクラスは、スッと奥へと踵を返した。
「…着替える。食事をしよう。それから、対応を考えねばならない。三日後までは、この島から動けないことは変わらないが、修三がこうなった手掛かりぐらいはあるだろう。洞窟へ行く予定だったが、とりあえずは修三の、持ち物などを調べてみよう。まずは、食事だ。皆も準備を。」
ニクラスは、そう告げると、さっさと自分の5号室へと入って行く。
それを見て、茫然としていると、デニスがフォローするように、言った。
「さあ、修三の心拍は安定しているし、今すぐ命のかかわることは無いから。修三に持病が無かったか、持ち物などで調べてみよう。だが、まずはみんなの体調だ。着替えて、先に朝食を摂ろう。」
そう言われると納得したが、ニクラスの言いようには、冷たい、と思った。修三が、もし死んでしまったりしたらどうするんだろう、と本気で心配したのだ。
しかし、美里たちはそれどころではないようで、まだフラフラと具合が悪そうにする中、湊と大河が手伝って部屋へと帰し、自分達も部屋へ戻って、着替えを始めたのだった。
修三に、何があったんだろう。
湊は、朝食の間もそればかりを考えていた。
全員がそうのようで、ただ黙って黙々と食事をしている。
美里と弥生はまだ青い顔をしていて、食事にはほとんど手を付けていない。
ニクラスもデニスも、同じように修三の姿を見たはずなのに、二人はきちんと膳を空にしていた。
理久や大河ですらあまり箸が進んでいない中、ニクラスは食事を終えて、言った。
「その様子では君達には無理そうだな。私達が先に行って修三の荷物を調べて来る。君達は呼ぶまで部屋で待っていてくれ。」
しかし、湊は顔を上げて言った。
「いえ、お手伝いします!何があったのか知りたいし、待つだけなんて不安になるだけですから。」
大河も、気が進まないようだったが、頷く。
「そうだな。オレも行きます。何か手伝えるかもしれないし。」
理久も頷く中、美里は泣きそうな顔をして、言った。
「私は無理です。あの、部屋で弥生と待っています。」
弥生も、同じ気持ちらしい。
ニクラスは頷いた。
「好きにするといい。では、修三の部屋へ行く。」
ニクラスは立ち上がる。
まだ食事は半分ぐらい残っていたが、湊も立ち上がった。
「オレも。」と、大河と理久を見た。「食べ終わってから来てくれ。」
二人は、黙って頷いた。
湊は、ニクラスとデニスについて、重い足取りで二階へと上がった。
部屋へ入ると、ニクラスが言った。
「私は修三を調べる。君は服のポケットの中などに何かないか調べてくれ。デニス、君は荷物を。」
湊は、デニスと共に頷いて部屋縁に掛けてある服へと足を進める。
その時に、否応なく布団に横たわる修三へと目がいった。
途端に、湊は固まった。
修三の顔は、大きな水疱が無数に出来ていて、そのうちの幾つかは破れて下の、赤い肉がむき出しになっている状態だった。
なので、いつもの顔の二倍ぐらいに見え、鼻から吐かれる息すらおぞましいと思わせるのに、十分な様子だった。
そんな状態なのに、ニクラスは眉すら動かす事もなく、布団をめくって体を確認しようとしている。
布団の下の体も、浴衣の袖から出ている腕は同じように水疱にまみれていて、ジュクジュクとしていてとても触ろうとは思えなかった。
ニクラスは、慣れたようにポケットから出したラバー手袋をはめて、その腕を掴んで裏返したりしている。
顔や胸の辺りも確認し、浴衣の胸を開いたところで、湊はその場に、ばったりと倒れた。
「湊?!」
デニスが、驚いたように飛んで来た。
ニクラスは、眉を寄せてこちらを見る。
「…だから無理はするなと言ったのに。部屋へ戻してやれ。」
湊は、なぜ自分が倒れたのか分からないままに、慌てて起き上がろうともがいた。
「いえ…急に、あの…なんで、倒れたんだろう…。」
ニクラスは、そんな湊を見下ろして答えた。
「一瞬気を失ったのだ。修三の様子がショックだったのだろうが。ここは私達がやる。君は戻れ。」
しかし、湊は意地で起き上がった。
「もう、大丈夫です。あの、服を調べます。」
すると、開いていた戸の向こうで、ドカッ、という音がした。
見ると、大河が青い顔ではあるが何とか立っていて、理久が口を押さえて尻餅をついていた。
「…君達も。いいから戻れ。無理だろうが。」
しかし、大河は首を振った。
「いえ…ショックでしたが、平気です。やります。」
理久は、何も言わない。
大河は、理久を見下ろして言った。
「お前は戻ってろ。オレと湊が手伝うから。」
理久なら意地でも来るかと思ったが、ブルブル震えていたかと思うと、素直に頷いて、ジタバタと這うように1号室の方向へと廊下を進んで行った。
大河は、その様子を見送って、幾分持ち直したようにこちらへ寄ってきた。
「で、何を手伝えばいい?」
まだ座り込んだままの湊に手を貸して立ち上がらせながら、大河は言う。
湊は、ハンガーで吊るされた服を指した。
「あの、ポケットとかに何かないか調べろって。」
大河は頷いて、ハンガーを縁から外した。
「じゃ、お前はズボンな。オレは上着を見る。」
二人が作業に戻ったのを見て、デニスは荷物の方へ戻った。ニクラスも、修三へと視線を落とす。
四人は、黙々とそれぞれの割り当てを調べていた。
「…ん?」大河が、言った。「手帳が出て来た。」
湊は、顔を上げた。ズボンの方には、ハンカチしか入っていなかった。
「こっちは何も。何か書いてあるかな?」
大河は、中を開いた。
「スケジュールだな。あと、何か日記みたいな。」
ニクラスがこちらを見た。
「日記?読んでくれ。」
大河は、日記などを音読していいものかと修三を前に悩んだが、その修三を助けるためなのだ。
その日記を読み上げた。
「7月23日。今日は遂にニクラス教授と会う。とても博識で知らない事などないのではないかと思うほど、賢い人なので楽しみだ。だが、日本語を話せなかったらどうしよう。メールの日本語は完璧だが、翻訳ソフトなのかもしれない。英語もドイツ語も出来ないとは伝えてあるが、気がもめる。」
ニクラスは、顔をしかめて遮った。
「長い。それにどうでもいいことばかりだ。肝心の昨日のことは?そこが知りたいのだ。」
ニクラスにとってどうでもいいことでも、修三にとっては死活問題だったのだろう。
大河は、次の日を見た。
「7月24日。洞窟へ入った。朝から年甲斐もなく興奮して、早く調べたいとイライラしてしまった。中は思った通り興味深い所だったが…私は何て事をしてしまったんだ。その時はそれが最善だと思った。だが、やってはならないことだ。ニクラスはこれを知れば私を軽蔑するだろう。だが、あの瞬間、あの赤い光に魅了されてどうしても手にしたいと思ってしまったのだ。だが、駄目だ。これはここにあってはならない。明日はこれをさりげなく戻しておこう。気付かれなければ良いが。しかし具合が悪い。良心の呵責で体に来ているのかもしれない。だが、何がなんでも明日は洞窟に行かねば。」
ニクラスとデニスが、サッと目を合わせる。
大河と湊には意味が分からなかったが、二人に心当たりがあるのはその様子で分かった。
「…心当たりがありますか?」
湊が訊くと、ニクラスが頷く。
「…石だ。」と、苦々し気に言った。「昨日話しただろう。祭壇の中央に燭台に挟まれるように置いてあったと言ったではないか。数が多いので脇にこぼれていた物もあった。修三は持ち帰って素材を調べたいと言ったが、私はそれはするべきでないと反対したのだ。なので、隠して持ち帰っていたのだろう。真っ暗だったし、私の目を盗んで手にするのは簡単だったはずだ。」
祭壇の中央に置いてあった石…。
「それ…祀られてあったものですか。御神体?」
大河が言うと、ニクラスは首を振った。
「いや、そんな感じには見えなかったな。あれが御神体なら皿からこぼれているのを放って置いたりしないだろう。それも昨日言ったと思うが?」
少しうんざりしているようだ。確かにそうだが、すっかり忘れていたのだ。
しかし、ニクラスは腕を組むと考え込んだ。
「ただ…あれが何らかの役目を果たしているだろうことも分かる。あんな場所、いわば神から見える場所にわざわざ置いているということは、それなりに重要な役目を担っているのだろうと思われる。」
湊が、おずおずと言った。
「じゃあ…もしかして、修三…いや先生は、それを持って来たせいで、呪いかなんかでこんな風に?」
しかし、それにはニクラスは首を振った。
「呪いというものがあるのかどうかは、私は知らない。修三が持病を持っているのかどうか、分かったか、デニス?」
デニスは、まだガサガサと荷物を漁っていたが、振り返って、首を振った。
「いえ、まだ確実なことは。ですが、こんな厄介な症状がある持病があるなら、定期的に薬を服用しているでしょうが、その薬が見当たりません。ここにあるのは、修三が使おうとしていた懐中電灯の換えの電池と、着替えですね。それに、デジタルカメラ。財布もありますが、中にも薬は見当たりません。目立った持病はなかったんじゃないでしょうか。」
ニクラスは、厳しい顔で修三を見下ろした。大河が、言った。
「呪いなんか見た事ないんですか?科学では説明できないこともあるっておっしゃっていましたよね?こんな形は、見たことがないってことですか?」
ニクラスは、息をついた。
「出来るだけ理性的に物事を見ようと思っているだけで、私は呪いが無いと言っている訳ではない。確かに、不審死をしたり狂気に陥ったりした学者を見たことがあるが、その原因を確かに目の当たりにしたわけではないから、断言できないだけだ。」
湊は、不安そうに大河を見上げてから、ニクラスを見た。
「じゃあ…もしかして、先生のこの様子は、その石を持って来てしまったせいとかじゃ。」
ニクラスは、また首を振った。
「分からない。石のせいだとして、もしかして放射線などが出ている石であった可能性も無いとは言えないし、それが呪いだとは決めつけられない。ただ、石は戻して来た方がいいだろう。そういったものは、あるべき場所にあった方がいいのだ。修三の治療は、それからだ。三日後まではどうしようもないし、彼はこのまま寝かせておいて、私達はその石を、洞窟へ戻して来よう。石を探せ。」
そうして、石は出て来た。
手帳が出て来たのと同じ夏用のブレザーの、内ポケットの中からだった。




