理一と琴音(1)
「いったん休憩にしよう」
「ええーっ! いいところなのにぃ!」
抗議の嘆きを受け付けず、理一は席を立った。
ミニテーブルに突っ伏したまま、恨めしそうに理一を見上げている少女の名は琴音。国立士官学校高等部の学生だ。本人から直接聞いたわけではないが、管理局で最難関、超がつくほど有名な高等学校の制服くらいなら、いくら世情に疎い理一でも知っている。臙脂色を基調とした落ち着いたデザイン。管理局に生まれたならば、誰もが一度は袖を通したいと願ったことがあるはずだ。理一には全く縁のない世界の話だが。
国立士官学校は、将来管理局の中枢を担う人材を育成するための養成機関であり、士官候補生の一人である琴音はいわゆるエリート中のエリートである。そのはずなのだが、何の因果か、彼女は理一の部屋に入り浸っている。
一人暮らしの男の部屋に転がり込む危険性について。
理一は実践を交えてレクチャーすることを一度ならず検討したが、琴音の緩み切ったアホ面を見ては断念している。
「俺はコーヒー飲むけど、何がいい?」
「何でも」
何が嬉しいのか琴音はニコニコと機嫌良く座っている。短めのプリーツスカートからのぞく健康的な太ももが不意打ち気味に目に飛び込み、理一は慌てて目を逸らした。
気まずさを紛らわすように戸棚からテキパキとインスタントコーヒーとマグカップ、名前も知らない高級茶葉とティーセットを取り出した。花柄のあしらわれた、見るからに高そうなポットやカップは琴音の持参品だ。ちなみに理一の分もあるが、恐れ多くて一度も使ったことはない。
ティーセットをミニテーブルに並べ、もう一度キッチンへ。戸棚から紙箱を取り出した。確認していないが、おそらくケーキが二つ入っている。中身を類推できるようになるまで飼い慣らされてしまった。
「はいどうぞ。お姫様」
「うむ。くるしゅうない。よきにはからえ」
箱を開けると、生クリームのたっぷり乗った苺のショートケーキと几帳面にデコレートされたチョコレートケーキが入っていた。
琴音に苺ショート、自分にチョコケーキを取り分ける。
「毎回何か持ってこなくてもいいんだぞ」
「お母さんに持たされるの。お友達のお家に遊びに行くのに手ぶらで行くなんて失礼よ、てね。それに持ってこないと何もないじゃない。初めて来た時は、生活必需品以外全然何もなくてびっくりしちゃった。今度ぬいぐるみでも持ってこようかしら。クマに猫に犬に・・・・・・カエルなんかもいいかもね」
「勘弁してくれ」
指折り数える琴音に釘を刺す。
殺風景で生活感の無い部屋だ。彼女に指摘されるまでも無く、そんなことは分かりきっている。明日をも知れぬ天涯孤独の身の上だ。寝て起きて仕事に出かけていく。理一はそれで良いと思っている。
琴音がいなければ、理一の部屋はいまだに何の変化も無かっただろう。彼女の持ち込んだティーセットは二人で妥協点を模索した結果というよりは、完全に押し切られ、押しつけられた格好だ。
「えへへ。ウソよ、ウソ。何もないというのも、それはそれでいいところもあるかな、と最近思うのよね」
「どういうことだ?」
「ううん、こっちの話。理一は気にしなくていいの」
緩やかなひと時が流れていた。少し前までは、とても考えられない時間の過ごし方だ。
琴音の家庭は愛情に包まれ、暖かな満ち足りたものだと想像できる。それだけに自分のような二級市民の家を訪ねてくる必要性は皆無だと思える。彼女の目的が見えず疑心暗鬼に陥る日々だ。
琴音はおそらく一級市民、それもかなりの名家の出身だと理一は当たりをつけている。彼女自身が明言したことこそないが、言動の端々から上流階級出身者特有の緩い空気が漏れ出ているし、国立士官学校の学生ということからもそれはうかがえる。
一級市民と二級市民。
管理局内の人間は大別して、その二種類に分けられる。
公文書の類を一字一句なめ回すように探してみても、一級市民や二級市民という単語を見つけることはできない。公的にはそのような身分制度が存在することそのものが認められていない。だが、両者を隔てる見えない壁は厚く強固にそびえたっている。
管理局出身かそうでないか。
二級市民である理一は異世界からの流れ者だ。
だからといって、権利上、何かが制限されるようなことは無い。しかし、持てるものと持たざるもの。静かに確実に存在する差別。それは琴音のような、あるいはそれ以前の子供時代からすでに表れている。
例えば、一級市民である彼女には、生まれながらにして、社会の上層に登り詰めるための階段がいくつも用意されているはずだ。それに対し、二級市民である理一には、風に吹かれれば簡単に振り落とされてしまうようなたった一つの縄梯子がかろうじてかけられているだけだった。
国立士官学校の入学試験は誰でも平等に受けられるが、合格者の九割九分九厘以上は一級市民で占められている。
最難関の国立士官学校、その入学試験をパスした琴音。彼女に人並み外れた才能があり、並々ならぬ努力をしてきたことは疑いようも無い。だが、他の要素を完全に無視できるほど、理一は楽天的ではないし、大人でもなかった。