理一と琴音(3)
「ハッピーエンドで良かったぁ」
理一の話をまるで自分のことのように真剣に聞き入っていた琴音は、ほっと胸をなでおろした。彼女はひと息つこうと、ティーカップに指をかけたが、それはすでに空になっていた。
「入れ直すよ。ちょうどおすすめの茶葉があるんだ。知り合いからもらったんだけど、俺は普段飲まないし」
「ゴチソウサマデス」
ミニテーブルに額がつきそうなほど深々とお辞儀をする琴音を横目で見ながら理一は席を立った。
琴音は理一の目を気にせず、足を投げ出しくつろいでいる。信頼されていると喜べば良いのか、男として認識されていないと嘆けば良いのか。理一にその気は無いが、長らく一人暮らしを続けてきた彼にとって、居住空間に他人、しかも若い異性がいるという状況には少なからず違和感を抱かずにはいられない。
透明ガラスのティーポットの中で茶葉が舞う。透き通ったお湯が琥珀色に変化していく。茶葉が沈むころ合いを見計らって、カップに注いだ。
「琴音は普段何してるんだ?」
「学校行って、授業受けて、帰ってからは真面目に課題をこなす、とか? 別に普通だよ。理一と違って」
指折り数えて笑う姿に何とも微笑ましい気持ちになる。
「休みの日は? 勉強ばかりしてるわけでもないだろ? 友達と遊んだり、彼氏とデートしたりとかさ」
「いやー、そういう人がいたらここには来てないんじゃないかなー」
琴音は両手でカップを大事そうに抱えて何とも気のない返事をする。
数多ある異世界を渡り歩き、あらゆるタイプの美人を見慣れていると自負する理一の目から見ても、琴音の容姿は決して悪くない部類に入る。ぱっちりとした好奇心旺盛そうな瞳は黒目が大きく愛嬌たっぷり、鼻筋も通っているし、健康そうな厚めの唇も形が整っている。美人と言うよりは可愛いタイプだが、狭い国立士官学校の中にあっては、学内随一の人気を誇っていても不思議ではない。
「なんかさ。ほとんど話したこともない相手から好きだって言われてもピンと来ないんだよね。ヘタに扱うと嫉妬も怖いし」
「ということは、告白自体はされるわけだ」
「まぁそれは人並みくらいには。否定したらしたでなんかやらしいし? 告白してくれた人にも悪いかなって」
琴音はカップを両手で持ったまま、何かを期待するように理一を見上げたが、理一はあえて何も言わなかった。
琴音が理一に憧れに近い感情を持っていることには薄々気づいている。だが、理一から今の関係を変える気はさらさらない。彼女は憧れを恋心と勘違いしているだけだと大人の理一にはわかる。それを利用して彼女を受け入れることなどできるはずがなかった。
「モノは試しで好きだって言ってみてくれない?」
「お前なぁ」
理一があきれて声を上げると、琴音は嬉しそうに笑った。
冗談には冗談で返すのが礼儀だ。理一は声を低く抑えた。
「琴音、好きだ。付き合ってくれ」
芝居がかった調子で琴音の手を取ったが、ともすれば顔が崩れそうになる。冗談でも恥ずかしいものは恥ずかしい。彼女もすぐに耐えられなくなって笑い出すに決まっている。そう決めつけていたが、琴音は顔を真っ赤にして固まっていた。
「琴音?」
心配になって声をかけると、琴音はぱっと手を放した。赤い顔をしたまま目を白黒させている。
「ほほほほほ、本気でやらないでよ! ビックリするじゃない!」
「本気でって。冗談だぞ?」
叫び声を上げた琴音を理一は冷静に諭したが、彼女は暑そうに顔を両手であおぐばかりで理一の言葉など全く聞こえていないようだ。頭を抱え、意味不明なうめき声を上げた。
「冗談でも真剣な顔でそういうこと言わないでよ。ビックリするから」
涙目で訴えかけられ、罪悪感を刺激される。
「本気にするとは思わなかった。悪かったよ」
「わかればよろしい」
琴音は引っ込めた手を大事そうに胸の前で抱えた。
琴音は喜怒哀楽に合わせてコロコロとめまぐるしく表情を変える。彼女はきっと温かな家庭に育ったのだろう。本来なら自分とは縁のない世界の住人だと理一は思う。
「理一は人を本気で好きになったことある?」
「どうかな」
理一はすっと目を逸らした。
異世界から異世界へ。
一つどころに留まることが許されない職業柄、理一は私生活で人と関わるのを極力避けてきた。そしてそれはこれからも変わらない。そんな理一の心情を知ってか知らずか、琴音は「そっか」と短く呟いた。
「ところで理一。試験の結果はどうだったの? 師匠は何て?」
「オマケで合格だとさ」
理一自身知らされていなかったが、師匠曰く、今回の任務は理一の卒業試験を兼ねていたらしい。経験豊かな水先案内人の許しを得て初めて一人前の多次元捜査官と認定される。それまでは言わば仮免許の見習い期間ということだった。
「というか、どうして琴音は俺が試験だって知ってたんだ?」
「あー、それはその……国立士官学校で習ったのよ! そう! ついこの前! 私も筆記試験あったし! 多次元捜査官認定試験の受験には五年間の実務経験を要する! 超重要事項! アンダーライン引いた!」
「ホントかよ」
慌てふためきながら力の限り主張する琴音に疑いの目を向けるも、こくこくと首を縦に振るばかり。何かを隠していることは明白だが、追及して機嫌を損ねることもないと理一はあえて見て見ぬふりをした。
「それはそれとして理一って凄いよね。多次元捜査官として正式に免状を交付されるのは一割にも満たないんでしょ? ほとんどの人は自分が仮免許であることすら知らされず仕事を続けてるって」
「それは師匠も言ってたな。オマケで合格とはいえ、キッチリ五年で合格はたいしたもんだとさ」
多次元捜査官として正式に免状を交付された。きっと喜ばしいことなのだろう。だが理一としてはいまひとつ実感が伴わない。それよりも師匠からもたらされたもう一つの事実の方が、よほど衝撃が大きかった。
コンビ解消。
その一言を師匠はこともなげに何の感慨もなく簡単に言い放った。
それは、今回の仕事を終え、管理局に戻る直前の出来事だった。
「お前を一人前の多次元捜査官に育て上げることこそが私に課された隠された任務だったのだ。当然だろう?」
いつものように飄々とした調子だったから、半ば質の悪い冗談のように聞こえた。
「またまた。嘘をつくならもう少しマシな嘘にしてくれよ。笑えない」
「笑わせるつもりはないから当然だ。次からは新しい水先案内人とよろしくやってくれ。引継ぎだけは完璧に済ませておく」
師匠は冷静そのものだ。遅ればせながら理一にも師匠の言葉の意味が理解として追いついてきた。
「そっか。お別れ、か」
仕事を始めてからこれまで師匠とともにいくつもの事件を解決に導いてきた。そして理一はこれからもそれはずっと続くのだと勝手に思い込んでいた。何の準備もできていない。だからお礼の言葉一つさえ自然には出てこなかった。
「長い間、お世話になりました」
「うむ。こちらこそ世話になった。おかげで私も箔がついた。これで心置きなく出世街道を邁進していけるというものだ」
師匠が快活に笑うから理一も笑うしかなかった。
「何、心配することはない。私の後任もすでに決まっている。聞くところによると、史上最年少の十六歳で水先案内人の国家試験を突破したエリート中のエリートだそうだ」
そこで師匠は言葉を切って、意味ありげに含み笑いを浮かべた。
「なんだよ」
「お前も弟子を取る年かと感慨に耽っていたのだ。奇しくも最年少同士、せいぜい仲良くするが良い。長く仕事を続けていれば、また会うこともあろうて」
師匠の言う通りだった。何も今生の別れというわけではない。心の整理はついていない。だから、今はせめて笑顔で明るく振舞おう。理一は右手を差し出した。
「師匠、お元気で」
「うむ」
右手と右翼で軽くハイタッチを交わした。
師匠は理一の元を離れ、青く澄み渡った大空へと舞い上がった。理一はその姿が遠く視界から消え去るのをいつまでも見送っていた。