理一(1)
夢を見ていた。
それは確かだが、その内容までは覚えていない。懐かしさと苦しさ、その残滓。
目を開くと、曇天の空が重たく立ち込めている。固いコンクリートに押し返された体を起こし、凝り固まった筋肉を伸ばす。
「今日も今日とて、わが心に一片の曇りなし」
反動をつけて軽やかに立ち上がると、誰に言うわけでもなく呟いた。
男の名は至業理一。
弱冠二十歳にして、多次元世界を股にかけ、いくつもの難事件を解決に導いてきた凄腕の犯罪捜査官だ。
その仕事ぶりからついたあだ名は流れ星。
誰が呼び始めたのかは定かではないが、管理局の同僚からは信頼と敬意を、犯罪者からは畏怖と敵意を日々集め続けている。
理一は四角く切り取られたコンクリートビルの屋上から廃墟と化した街並みを見下ろした。ビルは倒壊し、幹線道路は寸断され、打ち捨てられた車がそこかしこに転がっている。完全なゴーストタウン。不完全なピースとしての自分。吹きすさぶ乾いた風に頬を撫でられ、理一は薄く笑う。
人の営みが途絶えてしまった街並みを前にしても、理一の心は冷たく凪いだままだ。何も感じない。事象は所詮事象だ。視覚情報に踊らされ、物事の本質を見誤るような真似は多次元捜査官には許されない。原因と結果、その因果関係。それがすべてだ。
屋上の端に立った。吹きつける風に煽られ、テーラードジャケットがパタパタとはためいた。
現地捜査へ赴くのに際し、事前情報が与えられることは稀だ。余計な先入観を極力排除するため、というのが管理局の言い分だが、どこまで信用して良いものか。
派遣先で現地人と無用なトラブルを避けるためには、事前に世界観くらいは知っておきたいところだ。しかし、当局に対し、要請が通ったことは一度も無い。
だから、理一はもはや何も要請しない。その代わりと言っては何だが、現地では好きにやらせてもらっている。服装もその一環だ。白無地のシャツにスキニーパンツ、テーラードジャケットという格好は、行先の文明によっては物議を醸す可能性もなきにしもあらず。だが、仕事の邪魔になるようなら新しく服を現地調達すれば良いだけの話だ。それに彼の経験上、服装よりも、腰に下げた得物の方が警戒心を抱かれる可能性が高い。
一振りの日本刀。
多次元捜査官が携帯を許されているのは、ただ一つの武器だけだ。その武器に自らの命を預ける。遥かな昔、自らの刀を命よりも大切に扱った民族がいたそうだ。理一はそこまで熱くなれないが、考え方自体は嫌いではない。
ジャケットの内ポケットから懐中時計を取り出す。真鍮のカバーを開け、止まって動かないままの長針と短針を確認する。
「行くか」
まるで散歩にでも出かけるような気軽さで、理一は最初の一歩を踏み出した。片足で踏切、空中へと身を投げ出す。
空を捉えた感覚は一瞬、無重力状態はすぐさま解除され、自由落下が始まる。ビルの高さは三百メートルほど。空気抵抗を加味しない理想状態と仮定すれば、脳天から地面に激突するまで、およそ七秒から八秒程度。お祈りを完了するには少々心もとない時間だ。
蒼く霞む景色に身を任せ、理一はその時が訪れるのを待った。地面はたわみ、空間は歪む。五感を奪われ、上下左右を認識できない。それどころか自分の存在すら希薄化していく。
異世界へ転移するとき、捜査官は一度死ぬ。
それは物の例えだが、理一は言いえて妙だと感じている。
異世界で捜査官の命に危険が生じても、基本的に管理局は関知しない。
何の事前情報も持たないまま、文化も風俗も管理局とは全く異なる世界へ飛び込む。そこでは管理局の常識は通用しない。任務を完了するまで帰ることもできない。想像を絶する過酷な任務が待ち受けていても、逃げる手段は無い。事実、異世界へ旅立ったまま消息不明となる捜査官は後を絶たない。
視界が晴れてきた。いよいよ任務開始の時だ。
理一はまだ見ぬ世界への期待を胸に、光へと身を投じた。
罪深き偽りの旅人。
崩壊し、絶望し、漆黒に染め上げられた魂の慟哭。
張り巡らされた有刺鉄線。
分散する自己同一性をうちに押しとどめ、夜を渡る。
――dive into the deep blue――