プロローグ
夢を見ていた。
ただ一つの明かりすら無い真っ黒に塗りつぶされたトンネル。その中をとぼとぼと力無く泣きながら歩いている。
それが夢だとわかるのは、何度となく同じ光景を見てきたからだ。
初めて見た時のことはよく覚えていない。
飽きることなく繰り返される悪夢に、ともすれば逃げ出したくなるような状況に、しかし冷めた目で、それをどこか他人事のように眺めている。
まるで鳥の刷り込みだなと自嘲ぎみに呟いた。
だが、その声を聞く者は現れていない。いまはまだ。
彼が哀れみ眺めている子供は、幼き日の彼自身に他ならない。
なぜ自らが体験したはずの記憶を第三者的な立ち位置から平然と眺めているのか。しかも一度ではなく、何度も何度も繰り返し、それこそ擦り切れるほど、細部に至るまで記憶するほど、何度も何度も見せられているのか。
まるで見当がつかない。
心のどこかで過去へと干渉したい気持ちが強いのかもしれない。しかしすぐに思い直した。もし多少なりともそんな気持ちが残っていれば、泣き続ける子供に手を差し伸べるくらいのことはやってみても罰は当たらないはずだ。だが、そのような光景が展開されたことはただの一度も無い。
子供は立ち止まり、蹲り、膝を抱え、やがて世界に蓋をする。
闇の帳が下ろされ、絶望が心を黒く覆い隠した。すすり泣き、しゃくりあげる声だけが、暗闇の中に空しく響く。
そろそろのはずだと彼は思った。
はたして遠く、遙か遠く、地平線の彼方に届くほど遠く、一粒の光が瞬いた。
その光は極小だが、まるで周囲の闇に対抗するように、明るく強い光を放っている。
しかし、世界に蓋をし、絶望に包まれた年端もいかない小さな子供がどうしてそれに気がつくことができようか。彼は膝を抱えたまま、虚ろな目をして闇の淵をじっと覗き込んでいる。
光は闇をぽっかりと切り取り、縦長の長方形を描いた。それは光り輝く脱出口。顔を上げさえすれば、未来へ通じる道が見えるはずだが、子供は頑なに動こうとはしない。より正確に言えばしないのではなく、できないのだ。現在の彼にはそのことが痛いほどよくわかっている。だが、それでも顔を上げろと過去の自分を叱責したい気持ちに強く駆りたてられる。決して声は届かず意味のない行為だと知ってなお声を上げずにはいられない。
「気づけ! 立ち上がれ! 前を見ろ!」
子供は全く気がつかない。半ば予想通りの結果だ。
夢の世界には干渉できない。まるで過去は決して変えられないのだと説教臭く諭されている気分だった。それすらも何度と無く繰り返された光景だ。彼は諦めにも似た境地で自嘲気味に笑った。
やがて光扉に黒点が浮かび上がった。それは見る間に大きくなり、外界から何かが闇の中へ滑り込んできた。子供に近づくにつれ、その光に包まれた輪郭が露わになる。
それは一羽の大鷲だった。
雄壮な両翼を広げ、光を引き連れ滑空する。子供の頭上でバサバサと翼を羽ばたかせ、その傍らに着地した。
子供はようやく顔を上げた。そして生まれて初めて目にする生き物に目を丸くする。
「ついてくるか?」
大鷲は低く落ち着いた声で、問いかけた。
「どうしてしゃべれるの?」
「そんなことは些細な問題だ。君は目にしたはずだ、終わりの光景を。それに比べれば、私が人語を解することなど、些細な問題だ。違いないだろう?」
子供が発した当然の疑問には答えず、大鷲は超然とした態度でそんなことを言う。だが、彼はその時、その大鷲こそが最後のチャンスなのだと直感した。生き残るためには得体の知れない大鷲であろうと何であろうとすがりつくしかない。まさに藁にも縋る思いで、挫けそうになる心を奮い立たせ、さらに言葉を発しようと試みる。けれども、それは意味のある音にはならなかった。ひきつけを起こし喉に絡んだ空気が唇の端から力無く漏れ出ただけだった。
「すまないが、もう時間がない。私はできるならば君を助けたい。それには君の協力が必要不可欠だ。すべては君の意思が決める。生き残れるのはその意志のあるものだけだ」
子供は必死になって口をわななかせる。それなのに、意味のある言葉はどれほど頑張っても出てこない。
大鷲はいったん呼吸を置き、再び問いかけた。
「生きたいか?」
大鷲は子供をじっと見つめる。
彼はすべてを失ってしまった。
家族も、友達も、家も、故郷も、何もかも奪われてしまった。そんな彼に対し、大鷲は言う。
「すべては君の意思が決める」
「生きたいか?」
そう何度も問いかける。
「僕はっ・・・・・・!」
精一杯力を込めて声を発したつもりだった。
しかし、闇を打ち払うには全く足りていない。全ては闇に飲まれて消えてしまう。大鷲は動かない。ただ静かにたたずんでいる。
「僕は、生きたいっ!」
それは終わりのプロローグ。
すべてを奪われた子供が、すべてを取り戻す。
その始まりの物語。