陽の光を浴びて
「はああっ、……これは一体なんだろーな」
ハイボールをちびりと飲む。
ガヤガヤとした喧騒の中、トイレから戻る鹿島を待ちながら、大同は上の空で頬杖をついていた。
「んー、なんだろーなあ。むむうー」
「むふーじゃねえ、気持ち悪いぞ」
トイレから戻った鹿島に後ろから頭を押さえつけられ、大同は崩れた頬杖を立て直しながら、もう一度、うーん、と唸った。
「明日がオンエアってのに、どうしたんだよ」
「んー、んー」
「あー、あれか。試写会の時のことまだ気にしてんのか? あれはまあ仕方がないってか、倒れてもおかしくない状態だったんだろ?」
「んー、そうなんだけど……」
CMの撮影もトントン拍子に進み、全てが順調だった。
だからこそ、驚いた。
完成したCMを披露する試写会の日に、ひなたが急に倒れたのだ。
数週間前。
今回、CMを制作するにあたり、ひなたとの契約書を交わす際、大同は挨拶を兼ねてひなたの家へと足を運んでいた。
「ひなたが、どうしてもやってみたいと言うものですから」
品の良さが滲み出る、優しい母親だった。
この母親なら、ひなたが真っ直ぐに美しく育つはずだと、大同は妙に納得できた。
「けれど、その日その日によって、体調がすぐれない時があって……」
娘の身体を憂う母親を納得させるため、病院との連絡を密にする約束を交わした。
「撮影場所から総合病院は直ぐですから、具合が悪くなれば、タクシーで直ぐに送っていきます」
もちろん、試写会の日も、タクシーの用意はしていた。
けれど、元気だったのだ。
ひなたはこのCMの完成を心待ちにしていたし、とても楽しみにしていた。それがわかるくらい、ひなたは元気だったのだ。
ひなたをタクシーに乗せて病院へと連れていく間、大同は何もできない自分を情けなく思った。顔色を失っていくひなたを隣で見ながら、背中を抱きしめる。
その身体の細さ。
乳がんという命に関わる爆弾を、ひなたが抱えているのだという事実。
目の前に突きつけられ、そしてそれを否が応でも認めるしかなかったのだ。
「でも今はもう、大丈夫なんだろ?」
「うん、まあな。あの時は、体調を崩していたのに、無理してたらしいから」
ハイボールを飲んでから、大同はまた頬杖をついた。
鹿島も、新しく注文した芋焼酎の水割りに手をつける。
「なあ、鹿島。お前はさあ、小梅ちゃんのこと、どこら辺から好きだって思うようになったの?」
「んあ、俺の話か‼︎」
鹿島が最後に残していた焼き鳥を口に入れると、もぐもぐと咀嚼しながら言った。
「小梅ちゃんなあ。初めて会った時にはもう好印象だったんだよ。見ず知らずの俺のためにだな、花奈への花束を作ってくれたんだ。しかも閉店時間、過ぎてるのにだぞ。普通は追い返すだろ」
「ん、」
「その時にはもう、良い子だなって思ってたなあ。ただ、小梅ちゃんは若いから、俺みたいなおっさんじゃ、範疇外だろうなってのはあったけどな」
「範疇外がなあ、範疇の中に入ってきちゃうってことあるんだな」
「ここにいい見本がいるだろ」
「俺はなあ、範疇外なんだよ、いまだに」
好みとはまるで正反対の、あの細い身体。愛想も何もない、貼り付けたような鉄面皮。
「ひなたって子のことか? 視聴させてもらったけど、美人だよな」
面白いことは言わないし、なかなか笑わない。
「若いしね」
「幾つ?」
「24」
「24でガンだなんて、きついな」
「ああ」
大同は、試写会の時のことを再度思い出していた。
ひなたは、大同と羽多野に挟まれる形で、スクリーンの前に置いたイスに座っていた。
あと五分で試写が始まる、という時。
突然、ひなたが隣に座っていた大同の肩に、その小さな頭を乗せてきて寄りかかってきたのだ。
(おわっ、なんだなんだ?)
大同は最初、勘違いをした。ひなたが、甘えてきたのだと思ったのだ。
心臓がどっと鳴った。ドキドキと鼓動は徐々に高鳴っていき、そのうち顔もどかっと火照ってきた。
周りにたくさんの人がいたから小っ恥ずかしいのもあったのか、寄りかかられた肩には知らず知らずのうちに力が入ってカチコチだ。ひなたの短い髪が大同の頬をそっと撫でて、ふわっと軽い香りがした。
緊張もしたし浮かれもした。
もう少しで、その髪にキスの一つでもしてしまいそうな自分がいるのを感じた。
そして、嬉しさもあったのだと思う。心が、何かの感情でじわりと満ちていくのを感じたからだ。
けれど。
寄りかかっていたひなたの身体から、力がするすると抜けていき、そのまま折り重なるように倒れていくのに大同がようやく気づいて、はっとして抱きとめた時。
さあっ、と引き潮のように血の気が引いた。
「ひなちゃん、どうしたっ、ひなちゃんっっ‼︎」
直ぐには動けなかった。そして、心も。
凍りつく、とはよく言ったものだと、病院のベッドで眠るひなたを見て、後から思った。
あの時、ひなたが死んでしまうんじゃないかという考えが頭をよぎると、次にはぞっと寒気が走り、足が震えた。
「なあ、失えないって思うのは、好きってことなのか?」
鹿島の、口に近づけようとしていたグラスの手が止まった。
「いやあ、もうそうやって頭ん中いっぱいにしている時点で、好きってことなんじゃねえの?」
「ふは、マジか」
確かに、今までの人生で、ここまで一人の女をあれこれと想ったことはない。
「すいませーん、ハイボールを一つ」
大同は気持ちを新たにして、追加注文した。手を上げると、若い女の子の店員が、はーいと言って、伝票をつけにきた。
「ねえキミ、可愛いねえ。幾つなの?」
酔いのせいもあってか、いつもの軽口が出た。
「え、18です」
「わっかー。ミキちゃんっていうの? 俺、大同っての。よろしくねー」
大同が手を出すと、店員がすかさず手を差し出して握手した。
「厨房でカッコイイ人いるって、話してたんですよ。今度、ご飯でも行きませんか? 奢ってくださいよー」
パパ活か、そう思うとさっと酔いも冷めてしまい、大同は握手をしていた手を引いた。
「いやあ、ごめんね。俺たち結婚してるから」
面倒くさそうな相手に使ういつもの嘘に、なぜか罪悪感を覚えた。
ひなたの真っ直ぐな瞳を思い出す。
店員がそそくさと厨房に戻っていくのをいつものように見送りもせず、大同は俯いた。
「消毒されたんかなあ」
ひなたという存在に。
こうしてナンパをすることすら出来なくなったのが、その証拠のように思えた。
「あー、めんどくせぇ」
頭を抱えると、さらに脳裏に浮かんでくる。
ひなたの、小さな笑顔。
「大同、お前ももうわかってるんじゃねえの?」
鹿島の声が、腕で塞いでいた耳から、するりと入り込んできた。