唯一無二
いつものように手早く仕事を終えて、地下鉄に乗り病院へと急ぐ。
(よっしゃ、今日は少しだけ早いぞ、話の流れ次第では、じっくり口説けるかもなあ)
手土産のゼリーを片手に、大同はナースステーションに向かっていつものように手を上げた。
廊下を歩いていき、ひなたの病室の前まで行く。ノックをしようとした手を、すんでで止めた。
中から、ぼそぼそと男の声がした。
いつもなら誰もいない時間帯。ひなたの家族はみな仕事を持っていて、母親と姉は仕事の合間を見計らって来ては、早めに帰ったはずだ。父親はもちろん、土日にしか来ない。
(……友達、かな)
野太い男の声。体育会系の若い男の喋り方だ。
大同は、ナースステーションの横にある自販機の前まで、廊下を戻った。
少し経った頃、ひなたの病室のドアがガラッと開いて、若い男が出てきた。
男はジャージのポケットに両手を突っ込みながら廊下を歩き、ナースステーションを無視してエレベーターに向かった。短髪の、見るからに体育会系の、背の高い男だった。
(……彼氏いねえって、ひなちゃん言ってたよな)
自販機にもたれかけながら、男がエレベーターに乗るのを待つ。
ようやくエレベーターに乗ったかと思うと、今度はナースステーションから看護師同士の会話が耳に入ってきた。
「ひなたちゃん、見る目ないわあ」
「ほんと。なにあれえ。さっきも最悪の挨拶だったよね」
「彼氏でしょ? 私だったら、あの大人の男の人の方が良いわあ」
「ああ、あのいつも来る?」
「そうそう、あの人が彼氏なんじゃないの?」
「えええ、歳が離れすぎてるでしょ」
大同は、苦く笑った。
「さっきの子の方が、歳は釣り合ってるけど」
「若そうだもんね」
「でも、あれはない」
「賛成っ、あれはない」
看護師同士の話を聞きながら、大同は自販機の商品のラインナップをぼんやりと見ていた。
(……コーヒーでも買っていくか)
誰も見ていないが、なんとなく商品を選ぶフリをする。
看護師同士の話が早く終わらねえかな、と思いながら腕時計を見た。
(あーあ、せっかく早く来たのになあ。ひなちゃんと話す時間が無くなっちまう)
コーヒー缶がガコンと落ちてくる。それを拾い上げると、大同は廊下を歩いた。もちろん、ナースステーションの方は見ずに、だ。
ひなたの病室のドアをノックする。
ひなたは、ニットの帽子を被り、ベッドの背を起こして座っていた。
「や、やあ、ひなちゃん。今日はどう?」
にこっと笑って、Vサインをする。体育会系の男につられているのか、ひなたはいつもより元気そうな様子だ。
(……ああ、今のヤツの名残かな……って、ヤキモチかよっ。みっともねえ)
ゼリーをいつものように冷蔵庫に仕舞う。黙々と作業をこなして、ベッド横のパイプ椅子に座った。
すると、パイプ椅子の座面が、ほんのり温かくて、大同はびくっと立ち上がった。
(くそっ、さっきのヤツが座ってたのかっ)
内心、思うが口には出せない。ひなたが、どうしたの、というように首を傾げて大同を見ている。
「あ、えっと、そうだ、コーヒー買ってきたんだった。これ、飲もうぜ」
上着のポケットから二本。
一つをひなたに渡し、そしてもう一つのプルタブを開けながら、イスに腰掛けた。
コーヒを口の中に流し込む。
その様子を見ながら、ひなたもプルタブを上げた。
「さっき、誰か来てたね」
「え、あ、うん」
「若い男の子、なかなかのイケメンだった」
「そうだね」
「前、付き合ってた人?」
ひなたが顔を跳ね上げた。その驚きからか、唇が薄っすらと開いた。
「……うん、そう」
「ってことは、あれだな。ひなちゃんの短い髪をお坊さんみたいだって言ったヤツ」
「すごい、覚えてたの?」
ひなたが、薄っすらと笑った。
「そりゃそうだよ。ムカついたもん」
ふふ、と笑う。
「俺を怒らせたらどうなるか、今度会ったら知らしめてやる」
「もう、来ないと思うよ」
「え、なんで?」
「こんな姿、見たくないって」
ガタッと立ち上がった。持っていたコーヒー缶を、サイドボードに乱暴に置いた。
「匠さんっ、どこ行くの?」
「一発、ぶん殴ってくる」
握りこぶしに力が入って、爪が手のひらに食い込んだ。
「匠さん、やめて」
「でも、ひなちゃんっ‼︎ ……ひなちゃんが許しても、俺は許さねえ」
抑えた声が震えて、大同はさらに拳に力を入れた。
怒りで頭が煮えたのだ。その沸騰した血が、全身を駆け巡るように熱くなる。
「……許せねえ」
率直な怒り。ひなたを侮辱されたような気がして、我慢ができなかった。
それなのに。当の本人は、薄っすらと微笑みすら浮かべている。
「匠さん、ここへ来て」
優しい声で、言う。
その優しさに。
目の奥が、じんっと痺れた。
「……でも、ひなちゃんっ」
「怒ってくれて、ありがとう。でも大丈夫だよ。お願い、匠さん」
大同はひなたの言う通り、パイプ椅子へと戻った。
「……くそっ、あんな奴、最低だ。ひなちゃん、あんなのが好きだったのか?」
さらに口から出そうになる罵詈雑言を飲み込んで、大同は耐えた。
「ふふ、本当だね」
「今でも、好きなのか?」
「匠さん、」
大同は、唇を噛んだ。いつかは言おうと思っていたことが、堰を切ったように口から出ていった。
「ひなちゃん、俺を好きだって言ってくれっ」
心の奥底に、沈めていた言葉。
「匠さん」
「お願いだよ、俺を好きだって言って、く、れ」
大同はひなたの手を握った。その手が前より細く冷たくなった気がして、その現実はさらに大同の胸を絞り上げた。
大同は、眉間にしわを寄せると、今度は言葉を絞り出すように言った。
「……なあ、ひなちゃん。俺と、生きてくれよ」
「た、匠さん、」
見開いたひなたの目から、涙が零れ落ちた。
「俺を好きだって言ってくれ。愛してるんだ。俺と結婚して欲しいよ」
ひなたの胸が、呼吸をするたびに、上下する。愛しい、その胸が。
「……でも、わ、私」
ひなたが言うのを遮って、大同は言った。
「なあ、ひなちゃん、聞いてくれ。俺、猫飼っててさ。すっげえ可愛いんだよ。今度、写真見せてあげるな。でな、俺思ったんだ。子どもが持てないっていうなら、猫でも飼おうよ。子どもがいなくたって、それでも俺、ひなちゃんとは家族になれると思ってる」
大同は、握っていたひなたの手を、両手で包み込んだ。
「た、匠さん、」
「うちのチビ助見たら、ひなちゃんも絶対喜ぶよ。めっちゃ可愛いんだ。俺、すげえ可愛がってるよ。な、だから俺と生きること、選んでよ」
しん、と病室が静まり返った。
大同の息が上がって、少しだけ肩を揺らす。
ひなたの唇。
色を失っていて、かさかさと乾燥している。その唇が、少しだけ開いたかと思うと、ふるりと小さく震えた。
ぼろぼろと。涙だけが。白い陶器のような頬を伝って、落ちていく。
静寂の中、大同は握ったひなたの手を、離さなかった。
「……私、」
ひなたの喉が、ぐうと鳴った。
その喉元を、ぼんやりと見つめる。すると、頬を指先か何かでなぞられたような感覚があった。
大同の目から零れ落ちた涙が、頬を伝って流れていったのだ。一つ一つ、地球の重力に任せるように、それは病室の床へと落ちていった。
大同が、その涙の行き先を目で追っていると、ひなたの止まっていた唇が動いて、大同はひなたへと視線を戻した。
「……私、こ、この先、」
「ひなちゃん、」
「この先、……どうなっちゃうか、わからない、から」
大同は、涙をそのままにし、ひなたの頬を両手で包み込んだ。
「ごめんな、ひなちゃん。先のことなんて、俺にもわかんねえ……でもな、今なんだ。今、ひなちゃんと一緒にいたいんだよ」
「ん、んう、」
ひなたが、嗚咽を止めようと、震える手で押さえる。けれど、大同はその手をそっと握ると、ひなたの唇から離して握った。
「た、くみ、さん、んん、ひっく、」
ひなたが、しゃくり上げながら、涙でぐしゃぐしゃに潤んだ瞳を大同に寄せる。
その瞳は、まだ淡い。
「……また、また五年な、の。やっと、やっと三年経ったと思ったのに……っ、また五年、また一からなのおっ、」
「ん、ひなちゃん、聞いてくれ。そうだな、また五年だけど、俺と一緒にいる五年なら、きっと楽しくてあっという間だ」
「……たく、みさん、」
涙を零しながら、大同はへら、と笑った。
「おっと、もう家族がどうとか言うなよ。俺の家には、チビ助がいるし、それに、ひなちゃんが俺の嫁さんになってくれるだろ?」
「うう、うえ、……ひっく、」
ひなたが、子どものように泣き出す。そのひなたの手をそっと引いて、大同はひなたを抱き締めた。
「なあ、ひなちゃん。これってほんと、なんなんだろうな……自分でもよくわかんなかったんだけどな……でもな、俺、今までにこんなに大切で大事に思う人はいなかったんだよ。そんだけ……それだけ、俺にとってひなちゃんは、特別なんだ」
そして、耳元で囁いた。
俺の、唯一無二なんだ。
この言葉が、君のこの耳から入り、身体中を駆け巡り、どうか、どうか君の心へと届きますように。




