出逢いとは思いも寄らぬもの
信じられないことが、身近で起きた。自分の目の前で、大逆転と言ってもいいことが起こったのだ。
(人生とは数奇なものだ)
大同 匠は、氷を入れたウィスキーを片手に湯船に浸かりながら、大袈裟にそう思った。
湯量を半分にしてある湯船に身体を半身だけ埋めながら、氷を入れたウィスキーをちびりちびりと飲む。浴室にある防水仕様のテレビをぼんやりと見つめていた。
(しっかし、あの鹿島社長がねえ)
鹿島とは、十年来の友人で、同じ経営者としてアドバイスをし合う仲だ。歳は同じのはずだから、現在は35歳。
「それがだ。13歳も歳下と付き合うだなんて、いまだに信じられねえ」
バシャっと水面を叩くと、水飛沫が顔に掛かった。
「くそっ、前は美人でモデルみたいなのと付き合っていたのに……。まるっきり正反対の小梅ちゃんと上手くいくなんて、これっぽっちも思わんかったぞ」
最近、その鹿島が小梅という伴侶を得て、毎日のようにウキウキしているのが正直、癪に触る。
が。そんな13も歳下、自分ではありえねえけどなと思いつつも、大同は概ね、鹿島の恋を応援してきた。
一度は別れたその小梅を、二年越しで一途に想い続け、最終的にはその恋を実らせた鹿島。
大同は心底、凄いと思った。
それだけ長い間ただ一人の人間を、人は強く想い続けることができるのか、と。
(大逆転とはまさにこのことだな。小梅ちゃんはそりゃあ可愛いけど、どっちかっていうと俺は、花奈さんの方が好みだったな)
鹿島の元恋人の顔を思い浮かべる。
モデルのような長身に小さい顔。細身ではあるが色気があり、出るところは出ていて、男心をそそられる。
(でもまあ、鹿島の元カノを狙うわけにもいかねえからなあ)
テレビのスイッチをオフにする。
「本気の恋かあ。あーあ俺にもどっかの美女、落っこちてねえかなあ」
ウィスキーを飲み干すと、大同は水面をざばりと揺らしながら、浴槽から出た。肌触りの良いホテル仕様のバスタオルを棚から取ると、身体の水滴をだいたいに拭いてから、腰に巻きつけた。
「……やっぱ俺、羨ましいんかなあ。羨ましいだけなんかなあ」
浴室に再度入って、空になったグラスを取ると、キッチンへと移動してシンクへと置いた。そのキッチンは使い込まれることもなく、常に綺麗なまま。
今までずっと、女を切らしたことのない大同だったが、ここ最近は毎晩こんな風にグラスは一つのみ、だ。
「俺ってば、さみしーヤツだなー。はやく、女捕まえよ」
もう一枚のタオルで頭をガシガシと拭き上げると、今度はリビングのテレビのリモコンを取り上げ、オンにした。
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(落っこちて、きた……のか⁇)
目の前にはビルの屋上近くに設置されている大型ビジョンを、じっと見つめる女性。その女性から目が離せない。
大同はこの日、数年前に分社化したもう一つの本社の方へと、足を運ぼうと地下鉄に乗った。
大同はこの地方では中堅の不動産管理会社の代表取締役だ。
叔父の会社を継いだ鹿島とは違って、大学時代の友人である羽多野という男と二人で、一から会社を興し、一部上場の一歩手前までに成長させた会社だ。
大同の腹心ともライバルとも言える羽多野とは、数年の共同経営の後に分社化し、それぞれの会社でそれぞれが社長となった。
羽多野が経営する社屋へはいつも、地下鉄で移動している。大同の経営する本社ビルからは、地下鉄で六駅渡った方が、格段に時間短縮となる。
羽多野とは時々、お互いに行き来をして、業績の報告や今後の戦略、経営相談などを交わしていた。
そしてこの日。時計を見る。確かに羽多野との約束の時間が迫ってはいる。
(けれどまあ、遅刻でいいかあ……それよりこっちが重要だからな)
いつものように駅から上がってきた所で足を止め見上げると、そこには羽多野の経営する本社ビルの屋上近くに設置された大型ビジョンが。
駅から階段で上がってくる人が否応無しに目に入れるこの場所に、羽多野は絶好の広告になると大型ビジョンを据えた。けれど、ここで立ち止まってまで、この大型ビジョンを見やる人は、まずいない。それだけ自社のプロモーション動画が、皆の関心を引きつけられていないことに、毎回ここへ来る度にガッカリさせられていた。
それなのに。
今日は。
女性が立ち止まって大型ビジョンを見つめている。
(……まさか、先客とはな)
大同は少しだけ距離を置いて、その女性を見た。
服装は小綺麗だが流行りのものでもなく、ロングスカートに白の長袖ブラウスが大人びた雰囲気を醸し出している。
髪型はあごのラインまでのストレート。艶のある栗色で、さらさらと風に揺れている。
ただ。
女性の見た目に、違和感を感じていた。
(多分あれ、ウィッグだろ……)
そして。ブラウスの袖の長さが少し長すぎる。
(服のサイズが合ってないっていうか……何だろうな、ぶかぶかでなんか違和感、あるよなあ)
凛とした横顔。食い入るように見つめるのは、大型ビジョンで流されている自社CM。
そして、女性はその視線に気づいたのか、ちら、と大同の方へと目をやった。
視線が合った。
きっと不躾に見入ってしまっていたのだろう。突然の視線に、どっと胸が鳴った。視線は逸らさなかったが、心の中では動揺した。
「あ、えっと……」
女性の表情は。
むっとしているようにも見えるし、そうでないようにも見える。
大同は慌てて、頭に手をやりながら数歩、彼女に近づいた。
「これ、気に入った?」
大同はへらと笑いながら、ビルに設置されている大型ビジョンを指さす。
同じCMが、また始まる。
女性が顔を戻して画面を見たのに合わせて、大同も顔を上げて画面を見ると、アップになった女優がカメラを真っ直ぐに見て、何かを喋っている。最近、演技力を評価されるようになってきた若手の女優だ。
大同は、周りを見た。
足を止めてそのCMを見ている人はいない。
だからこそ、この目の前にいる女性の、食い入るようにCMを見る目が気になった。
大通りの信号が赤信号になったのか、パアアッと車のクラクションが鳴らされて、大同は女性をもう一度、見た。その時、CMの女優の発した言葉が、その甲高いクラクションの音で見事に掻き消された。
彼女の横顔。高い鼻だな、大同がそう思っていると、「あれ、なんて言ってるんですか?」
ようやく女性が、口を開いた。
おやと思いつつ、大同が答えて言った。
「『I need you』って言ってるんだよ」
言った言葉が思いのほか、恥ずかしさを連れてきた。
(……はは、寒みいセリフ)
大同は苦笑しながら、頭を掻く。その間もCMは続いている。
すると、大型ビジョンを見つめていた女性の口元が緩んだ。
「……カッコイイ」
口角の少し上がった唇が、そう言ったのをスローモーションのように見つめていた。
人間の唇が形を作るのは、何のことはない、ただの『言葉』だ。
けれど、その時。大同にはそれが、とても美しく動いたように見えたのだ。
女性の唇に気を取られていたら、いつのまにか、女性は大同を見ていた。
「カッコイイCMですね」
もう一度、言う。
大同は、ニコッと笑って、「ありがとう」と言った。
女性が、不思議そうな顔をしたのを見て、慌てて付け足した。
「俺の、会社」
今度は大型ビジョンに社名が出るところを、指差す。
すると、女性の身体が揺れた。揺れた拍子に、栗色の髪が一瞬、頬に掛かってから、収まった。
「そうなんだ」
大同は、はっと息を呑んだ。
笑った顔が、好みの顔だった。