第四話
秋葉は自分の初めての名前をとても気に入ったみたいだった。秋葉、秋葉と繰り返し自分の名前を言い続けている様子は俺を笑顔にさせていた。
身長は少しだけだが俺よりも低いが、顔は大人っぽい。だが、本当の秋葉はガラスのように純粋で、無邪気な子供のような明るい女性だった。
「恭祐、恭祐は何を言いたかったの?」
そうだ、名前を考えていてすっかり忘れていたが、名前以外にも俺は秋葉の事についてもっと知りたいと思っていた。秋葉が異世界の住人だからではなく、一人の女性として俺は秋葉を知りたかった。
「秋葉、俺は秋葉の事を知りたいんだ。名前だけじゃない。何で昨日、あんなになるまで歩いていたのか。今まで秋葉に何があったのか」
「恭祐、それは……」
秋葉が何かを言おうとしたのと同じタイミングで部屋の中にはインターホンの懐かしい音が鳴り響いた。懐かしいというのは俺が引っ越してきてから、この家を訪ねてきた人はかなり限られているからだ。
それだけでも珍しいインターホンの音だが、それに加えて変だったのが今の時間だった。朝の九時半。今までこの時間に誰かが来たことは一度もない。
ピーンポーンとインターホンの音がもう一度部屋の中で鳴り響く。
普通ではない。俺はそう心の中で感じていた。もしかしたら、普通の宅配便の可能性もある。だが、俺は何故かそうは考えられなかった。昨日から現実離れしたことが起きているからだろうか? 目の前に異世界から来た女性が不安そうに俺を見つめているからだろうか?
「秋葉、どっかに隠れてろ。俺がいいって言うまで出てくるなよ」
俺の真剣な口調と表情に秋葉は何も言わなかった。ただ、俺を見て頷き、コートがかけてあるクローゼットへと身を潜めた。
大家さんかもしれないし、ただの宅配便かもしれない……。俺はそう自分に言い聞かせながら玄関へと続く廊下を恐る恐る、ゆっくりと歩いた。しかし、自分に言い聞かせる度に不安そうな顔をしていた秋葉が脳裏にちらつき、ドアの向こうにいるのが秋葉に関係しているという嫌な予感が心の底から浮き出てくる。
「よし、大丈夫だ」
息を整え、意味もないのに来ていたパジャマも整える。
ドアを開けるとそこには見知らぬ男が立っていた。黒いスーツに身を包み、背は俺よりもずっと高い男。そして、その男はまるで映画のワンシーンに出てくるように大きな男で、どう逆らっても負ける気しかしない。
「あのー、こんな高校生に何のようでしょうか?」
「お前には関係のないことだ。少し家の中を見せてもらう」
男はその言葉を発し、強引に家の中へと入ってきた。鍛えた体を持った見知らぬ男、いきなり家に入ってくる、そして俺には関係のないこと。その三つだけで俺はこの男が秋葉のことを追っている男だと確信できた。
「ちょっと待ってください! ここは俺の家なんですけど……。警察呼びますよ?」
正面から追い出そうとしても勝てないことを分かっていた俺が男に出来た唯一の反抗だった。
「警察か…。呼びたければ呼べばいい。君が捕まってもいいならな」
俺が捕まる。その言葉は目の前を堂々と歩くこの男が何か強い権力のもとに働いているということを暗示させるとともに、俺が何も出来ない無力な存在ということも伝えていた。
何もできなかった。無力だからじゃない。勇気がなかったからだ。大きな男と一対一で、強大な権力を敵に回すということが体を硬直させていた。
そして、さっきまでの強い姿勢は遠い彼方へと飛んでいき、心の中で秋葉が見つからないことを願う以外、俺は何もできなかった。
男は近くのキッチンから、洗面所、風呂場、リビングと順番に秋葉を探した。この家にはもちろん金持ちの人が持っているようなセーフルームなんてものはない。
この狭い家の中を男が見回るのに大して時間はかからなかった。残る最後の場所はクローゼットの中。男は秋葉がその中にいると確信したのか、静かに笑みを浮かべていた。
あと数秒。数秒でクローゼットの扉は開かれてしまう…。そんな時に体は無意識ながらに動いていた。勝てるはずもないんだ。そんなことは分かっている。だが、自然と体が動き、俺は男の前に立っていた。
「あ、あの…。これで勘弁してくれませんか?もう十分見たでしょ?」
「どけ」
男は低い声で諭すように言った。
「ど、どきません」
「そうか…」
男は呆れた顔でそう言った。そして、それが俺が見た最後の男の表情だった。その後は何が起こったの
かは分からない。ただ目の前が真っ暗になり、何も考えられなくなっていた。
ーーー
俺は心地の良い席に座っていた。周りにも似たような席が多く並んでいるが、この薄暗い空間には誰もいなかった。静かで、眠くなってしまうような空間の中で俺は一人、目の前に広がる大きなスクリーンを向いて座っていた。
ここは現実なんだろうか? それとも何か違う世界なんだろうか? そんなことも分からなかったのには理由がある。体は動かず、顔を見回すことしか出来なかったからだ。
辺りを見渡しているとスクリーンは白く光りだした。そこには白いキャンパスのように何も映ってはいない。この空間とは対照的な画だったが、不思議とそれは俺の心を落ち着かせていた。
「上映中は携帯電話の電源を切ってください」
聞き覚えのある小さい女の子の声だった。しかし、いくら考えてもこの声が誰だったのかも俺は思い出せなかった。
しばらくすると、白いスクリーンの奥からは女の子が歩いてきていた。長い黒髪で、白いワンピースを着ている。サンダルは片足にしか履いていなく、何ともアンバランスだ。しかし、そんな事をっ吹っ飛ばすほどに女の子は小さいながらも美しく、天使という言葉を体現させたようだった。
「恭祐、私はここにいるよ」
小さな声が俺に囁く。その女の子の可愛いらしい声は何故か心の奥から聞こえるようだった。
「だから、もう恭祐は自由になって……」
女の子は体の前で両手を組み、何かに願うような様子だった。悲しくもあり、懐かしい感じもする。目を瞑り、女の子は何も言わなくなってしまった。
「き、君は誰!?」
俺がそう叫ぶとスクリーンには何も映されなくなってしまい、薄暗かった空間も何も見ることの出来ない暗闇に包まれた。
ーーー
「…け!…すけ!」
「恭佑!恭佑!大丈夫?」
誰かが俺の肩を揺すりながら叫んでいる。
意識がまだ完全に戻ってはいなかったが、目を覚ました時に絶世の美女が目の前にいた事に嬉しさを感じた。天井はぐるぐると回っていて、遊園地の回るティーカップに乗ったあとのようなフラフラした感覚だ。左頬は感覚がなかったが、口の中は痛みと血の味が広がっている。
秋葉…なのか?周りがいつも通りに見えるようになっても、俺の身に何があったのかは思い出すことはできなかった。
一つずつ思い出そう。秋葉と会ったのは昨日で、今日の朝は一緒にご飯を食べた。それで、インターホンが鳴って、大きな男が秋葉を……。
俺は何があったのかを思い出すとともに溢れ出そうな涙をこらえている秋葉を見て困惑した。男はどこに行った? 俺は守れなかった。なのに何で秋葉がまだ俺の目の前にいる?もしかして、これは夢なのか?
「何で、何でいる? 俺はてっきり守れなかったと……」
秋葉は困惑した俺を見て、頬を流れる涙とともに笑顔を見せた。その瞬間、秋葉はいなくなった。瞬きを一回した瞬間に消えたんだ。でも、確実に気配はする。
「秋葉! 秋葉!」
そう叫びながら、周りを見渡す俺の前に突然秋葉が現れた。何が何なのか全く分からない。
「息を止めると、消えれるんです」
ニコッと笑う秋葉の赤く染まった頬に手を添えることで秋葉がいると感じられた。そして俺は思う。夢なんかじゃない。現実なんだと。秋葉は息を止めて、あの男から隠れ切ったんだと。
「よかった……。秋葉…。本当に、良かった…」
秋葉の肌から温もりを感じると、俺の目元からも涙がこぼれていた。昨日初めて会った秋葉、その秋葉が大切な存在になっていた事はこの時まで気付かなかった。普通ならありえないだろう。それほど長い時を過ごしたわけでもないのに、それほど話したわけでもないのに、俺は秋葉を失いたくないと思ってた。
流れ出た涙は全ての感情を含んだようで、泣き終わった俺は何も入っていない箱のように空っぽだった。頬が腫れているとか、血が出ているとか、そんな事は放っておいて、秋葉が俺の目の前にいるという幸せを噛みしめるためだけに神経を使っていた。
「恭祐……。よかった。私、私……」
秋葉も同じように普通じゃなかった。昨日まで名前も知らなかった俺のために泣いてくれているんだ。そして、心配してくれていたという事がいとも簡単に読み取れるほどに秋葉は俺が起き上がったことに泣いて喜んでくれた。
その間、俺達は話すことはなかった。部屋には鼻をすする音以外は聞こえず、この部屋の外は時が止まっているのかと思えるほどに静かだった。
「もう大丈夫、大丈夫だから」
俺は頬に当てていた右手を秋葉の頭へと持っていき、ゆっくりと黒く輝く髪を撫でおろす。秋葉が泣き止むまでゆっくりと、優しく。
「恭祐、私が何なのか、話すよ」
秋葉はさっきまで泣いていたとは思わせないほどに真剣で、秋葉の赤く腫れた目元の中に光る金色の瞳は何かを覚悟したようだった。




