第二話
大きな氷の塊がゆっくりと溶けていくように、部屋に戻ると俺の体は徐々に熱を取り戻していた。
色々と起こったからだろうか、本気で走ってバッグを取りにいったからだろうか、俺は今何が起こっているのかが分からなかった。一瞬だけだが、俺の部屋の中にエルフがいるのも忘れていた。もしかしたら、俺は心の中でこれは夢なのだと思いこんでいたのかもしれない……。
だが、ベッドに安らかに眠る彼女を見ると、これが夢ではないんだと改めて感じる。
これからどうすればいいんだ……。
俺は着ていたコートをクローゼットのハンガーにかけ、座り込んだ。胡座をかきながら、ベッドよりも少し低い高さのテーブルに右肘をつき、人差し指で口元を触りながら考えた。
エルフを見たのは大家さんだけだろうか?
他の人がエルフを見ていたとしたら?
普通は俺が通ってきた道に人がいるなんて考えないが、不安と緊張が俺をネガティブな思考に自然とさせていた。
俺はポケットから携帯を取り出し、今朝見ていたエルフの都市伝説のページを見返していた。
「エルフは金色の瞳を持っていて、耳が長い。何故この地球に来たのかはわからない…。もしかしたら、私たちの地球を侵略しに来たのかもしれない…」
そのようにネットでは騒がれているが、あの疲れ切った歩き方に、この寝顔だ。その寝顔は優しく、暖かく、そして可愛く、綺麗だ。だから俺は目の前にいる彼女を地球の敵、エルフ達が侵略を目的に地球に来たということは信じられなかった。
彼女を見つめ、いくら考えても俺が何をすればいいかなんて案の定分からなかった。まあ、当然といえば当然だ。俺が家に連れてきたこの女性は得体も知れない存在なんだから。
俺はテーブルを使って立ち上がり、冷えた体の芯を温めようとお茶を飲むことに決めた。
電気ケトルに水を入れて、電源を入れる。そして、カップにはティーパックを入れておく。もう何回目になるかも分からないこの動作をしていると、俺は部屋の奥から女性の声が聞こえた。
「んん…」
彼女はまだ自分が何をしているのかも分からない様子だった。開ききっていない瞼を手でこすりながら、呑気にあくびまでしていた。
「あの、大丈夫ですか?」
俺はそう声をかけた。これ以外に何を言っていいのか分からなかったからだ。
彼女の反応は当然と言えば当然なのだが、威嚇をしているような様子だった。あまり得意ではない、不自然な笑顔を見せて、小さく手を振りながら話しかけた俺とは正反対の様子だった。もしかしたら、俺の変な笑顔が威嚇の原因なのかもしれない…。
彼女は歯を見せながら威嚇するとともに背中から何かを取り出そうとしていたが、数回空振りをしたことで彼女はやっと自分の背中には何もないを事を気付いたようだった。
「タッ? シュバルタッタキニシトナイラ!」
え? 今なんて言った? 何語ですか? もしかして日本語喋れないのかよ…。
「シュバルタッタキニシトナイラ!キッラサラバトラ!」
いやいや、何言ってるのか分からないから。でも、これを俺はどうやって伝えるかは知らなかった。彼女は隣の部屋の人にも聞こえそうな大きな声で俺に何かを問いかけていた。
彼女は一歩ずつ、ゆっくりと近づいてくる。俺はそれに合わせて一歩ずつ、ゆっくりと後ろに下がる。完全に俺は彼女のその外見からは想像ができない迫力に圧倒されていた。
何をすればいい? 何をすれば落ち着いてもらえる? 通じないけど、ダメもとで日本語で喋ってみるか? ジェスチャーするか? どれも彼女の警戒心を解くものはなさそうだった。 威嚇を続ける彼女、そんな彼女の声の中から、電子ケトルから圧迫されて出てくる湯気の音を聞いた。
お茶…。試してみる価値はある。
素早く俺は置いてあったコップを手に取り、触れば一瞬で火傷してしまうほどに熱くなったお湯を注いだ。
彼女は俺がお湯を入れていることにも威嚇をしているようだった。そんな彼女に俺は片手を彼女に向け、待つように暗示する。
「こ、これ、よかったら飲んでみてください…」
彼女は差し出されたコップを見ても警戒心を解く気はないらしい。そりゃあそうか…。
俺は湯気がのぼるコップに息を吹きかけ、彼女に安全であるということを伝えるためにそれを一口だけ口に含み、飲んでみせた。
大丈夫。危険なものをじゃないから飲んでみて。
そう説得するように俺はお茶の入ったコップを彼女に渡した。彼女は恐る恐る近づいてきて、お茶の熱で暖かくなったコップを手に取った。
少しずつだが俺の作ったお茶を飲んでいる彼女を見て、彼女の警戒心がゆっくりと和らいでいくのを感じられた。
よかった…。殺されるなんてことは避けられたみたいだ。
「アリフォラトリア…。スレカエエラ」
うーん、そうか、何を言っているのか全く分からない…。
彼女は意味の分からない言葉を俺に発すると、ベッドの上に座り込み何かを言いたい様子だった。言葉が分からないし、俺の言葉も通じない。意思疎通がこれ程難しいと思ったことは今日が初めてだろう。
俺が首をかしげながら彼女を見つめると、彼女も何も言わなくなり、数分前に大騒ぎがあったとは思えないほどに部屋は沈黙に包まれていた。
数十秒だろうか…。この上ない気まずい雰囲気が部屋には漂っていた。
何か言わないと、そう思った瞬間だった。
グ~
その音は彼女のお腹の中から聞こえ、静まり返った空間に響いた。
彼女の顔は一瞬で赤くなり、俺は緊張感が解かれたことと突然の事が重なり合ったことで自然と声を出して笑ってしまった。
そうか、お腹がすいてたんだな。俺はそれを察すると冷蔵庫の中を確認する。
一人暮らしな俺だが冷蔵庫の中は綺麗に整理してある。運がいいことに丁度昨日に買い物に行っていたことで二人分の料理を作れる材料は十分あった。
「しょうがないな…作ってやるか」
包丁を知っているかはわからないが、俺は彼女に今から料理をすることを伝えるために包丁で食材を切るジェスチャーをしてみせた。彼女は一瞬俺が何をしているのか分からなかったようだったが、頷いてくれた事で理解してくれたことが分かった。
俺が料理をしている間、彼女はじっとベッドの上に座っており、部屋を見ていた。というよりも観察していた。きっと、エルフの彼女の世界には無いものがたくさんあるんだ。
「はい、チャーハン」
「チャーハン…」
「そうそう! チャーハン!」
「チャーハン!」
初めて言葉が通じた…。こんなに言葉が通じることに感動したのも今日が初めてだ。最初に話した言葉がチャーハンだったのは予想外だったけど。
「スカエラ…」
言葉が通じたと思ったが、まだまだ道のりは長そうだ。
「ス、スカエラ?」
俺がそう彼女に聞くと、彼女はチャーハンを掬う(すくう)ジェスチャーをしてくれ、それによってスカエラがスプーンだという事がすぐに理解することができた。
スプーンを持ってきてあげると、彼女は一週間砂漠を歩き続けて何も食べていなかった放浪者のように俺が作ったチャーハンを頬張った。彼女の口元には自然と笑顔が出来ており、俺も彼女につられて自然と笑顔になっていた。
食べ終わるまでに何分かかっただろうか…。いや、何分もかかっていないかもしれない。そんな風に感じるほど彼女の食べっぷりは凄かった。
「美味しかった?」
俺は何も考えないで彼女に分かるはずもない日本語で話しかけていた。きっと、彼女の笑顔と言葉が通じたことが嬉しくなってしまったんだと思う。
「おいし……おいしかった!」
通じた…。いや、完璧に意味までは分かってないのかもしれない。
だが、今の俺にそんなことは関係なかった。返事をしてくれた、それだけでも俺は嬉しかった。
彼女に比べて、俺は食べるのに時間をかけていた。実際には普通の時間なのかもしれないが、彼女の食べる速さが俺の食べる速さを遅く見せていたと俺は思った。そして、その間、彼女はじっと俺の事を見つめていた。人間が珍しいのか、何で彼女が俺を見つめているのかは分からなかった。
そんな中、彼女の瞼と頭が一緒に動いていることから、俺は彼女が相当疲れていることが分かった。
彼女には謎が多い。だけど、今話が通じない中で話し合うのは混乱につながってしまうだろう。
俺がそうチャーハンを食べながら考えていると彼女はいつの間にかに寝てしまっていた。
「ったく」
俺は小声で呟きながら、また彼女をベッドの上へと乗せた。




