第十三話
お寺の夜間拝観の時間は終わりに近づき、俺と秋葉はもっと長い時間が見てみたいという気持ちがありながらもその場を去った。そして、暗い夜道の中で行きと同じように俺達はタクシーをつかまえて、三十分ほど遠くにある旅館へと向かっていた。
三十分ほど乗ったタクシーを降りると、趣のある旅館が俺達を迎えていた。細くも広すぎもない石畳の道の先には温かい光を放つ提灯があり、その二つの提灯は旅館の玄関を明るく照らしていた。
その何とも言えない日本の懐かしの雰囲気に秋葉は初めて感じるからだろうか、緊張しているようだった。漫画に出てくるキャラクターのように秋葉は口を閉じないで、ただただ立ち尽くしていた。
「おい、秋葉。そろそろ行くぞ」
「う、うん!」
夜の七時半、お寺を出てくるときにチェックインすると言っておいただけに、玄関には仲居さんがしっかりと正座をして待ってくれていた。ここまでして迎えられると俺達までかしこまってしまいそうになる。
「本日は当旅館をご利用いただきありがとうございます」
「は、はい。こちらこそ…」
秋葉の緊張はまだ解けていないようだった。空気に完全にのまれて、頭が回っていないという感じだ。
浴衣も貸してもらい、俺達は仲居さんに連れられて綺麗な木材に囲まれた廊下を歩く。いつもビルに囲まれている俺は何だか別世界に来たような感じだった。俺達の部屋に着いた時も同じだった。仲居さんが部屋の扉を開いてくれると、俺達の目には二人が泊まるには丁度いいサイズの畳の床が広がっていた。
「説明は以上で全てとなります。何かありましたら聞いてください」
そう言うと、仲居さんは部屋を去り、俺と秋葉の二人だけになってしまった。恭祐の事を忘れられなかったなんて言われると、少し二人っきりになるというのは照れくさかった。秋葉も俺と同じようで、部屋をうろうろ歩き回っている。
「夜ご飯まで時間あるみたいだからさ、お風呂でも入ってきたら? 一応、温泉がある部屋にしたから、ゆっくりしてきなよ」
秋葉は俺の言葉に対して下を向いて黙ってしまった。昨日みたいに冷たい態度ではなく、なんだか照れている感じだ。
「……。ううん。ご飯の後にゆっくり入るから、大丈夫だよ…」
「そ、そうか」
秋葉が入らないとなると、俺は何をすればいいのか分からなくなった。俺も部屋を見渡しながら、何となくお茶を二つの湯飲みに注ぐ。部屋は静かだが、気まづさとともに、落ち着きもあった。
「なんか家にいる時とあんまり変わらないな」
少しでも秋葉と話すために、普段はあんまり言わない冗談なんかを笑いながら言ってみる。すると、俺が座っている反対側に座り、高熱を保った苦いお茶を一口だけ飲んで見せた。
「そうだね。こうやってお茶を飲んだりするのも何だかいつも通りって感じがする。でも、当たり前かもしれないけど、ここのお茶は苦く感じる……」
「京都に来たって感じがするよな……」
半日前までにはビルがひしめき合う町にいたとは思えなかった。長い日だったからだろうか。また秋葉と一緒に笑顔になれたからだろうか。俺はこの一日を永遠とも言えるほど長く感じていた。
ーー
「はぁー、美味しかったー。秋葉はどうだった?」
「美味しかったよ。恭祐のチャーハンの方が美味しいけど……」
「え?」
「ううん、何でもないよ。美味しかったって言っただけ」
サングラスを外し、フードも頭から取った秋葉はそう小さく笑いながら言った。
ここまでリラックスできるのは旅館の落ち着いた雰囲気からだと思う。仲居さんには自分たちで布団を準備すると言ったことで、もう秋葉が周りを気にすることはなくなっていた。
豪華なご飯を食べ終わった俺達に旅館で残されたやるべき事と言えば、温泉に入ることしかなかった。運がいいことに、ちょうど今日にキャンセルがあったみたいで、少しお金はかかったが、個別の露天風呂がある部屋を俺は選んでおいた。
「秋葉、先に風呂に入るか? その間に布団とか俺が敷いといてやるからさ」
「え……いや、いいよ。私も布団敷くの手伝うから。それに、今まで頑張ってくれたんだから恭祐が先に入ってほしいな……」
「そうか……じゃあ、布団敷いたら先に入らせてもらおうかな」
「う、うん……」
正直に言うと、仲居さんが色々と説明をしてくれたからか五分もかかることなく俺達は布団を敷くことができた。
「それじゃあ、入ってくるよ」
「うん」
さっきから「うん」としか言ってないような……、というのは置いておいて俺は少しだが温泉を楽しみにしていた。一人暮らしを始めてからは家族と会うことも少なくなって、そんな中で温泉に行くなんてことは滅多になくなったからだ。
着ていた服を脱いで、浴室のドアを開けると、そこには湯気が立ち込めていた。目で見なくても、それが気持ちいいことが徐々に凍り付くような空気で冷たくなっていく体で感じられる。それよりも、目を奪うものがそこにはあった。緑に囲まれて、見上げると夜空には無数の星が輝いている。
ささっと体と頭をシャワーで流し、すぐに俺は露天風呂へと入った。首から上は冷たいのに、そこから下はじんわりと心の芯まで温めてくれている。この温度の差がまた気持ちよさを高めていた。目を閉じると、お湯が流れる音が耳に入ってくる。それ以外は何も聞こえない…と思っていた。
「恭祐、一緒に入ってもいいですか?」
「え、ちょっと、秋葉……何やってるの?」
完全に気を抜いていた俺は振り返るとともに、前をタオルで隠した秋葉がいたことに驚いてしまった。しかし、振り向いたのは一瞬だけで、すぐに秋葉からは目をそらした。二十三歳になった今でも俺はまだ子供だった。裸の女性を目の前にして、口と体は動かなくなってしまっていた。
俺が温かな湯の中で固まっていると、秋葉は俺の隣に入ってきてしまった。もちろん、悪い事じゃない。というよりも、俺にとっては嬉しい事だ。だが、俺にはここから何をすればいいのかは宇宙の謎を解くほどに難解だった。
「お、俺はそろそろ出ようかな…」
「待って、恭祐」
そう言われると俺は何も言わずに湯船にまた浸かってしまった。
「あのね、恭祐、私の世界にはもう一つ伝統があるの。ゲートをくぐるのと、もう一つの伝統が…。その伝統っていうのがね、これなの。自分の愛する男性と一緒にお風呂に入る、それが私達の世界のもう一つの伝統なの…」
動揺していた俺だったが、何故かその話を聞いた時に冷静になれていた。秋葉が俺を好き、愛してくれている。それがただ嬉しくて、俺の中にもう動揺は消えていた。
しかし、その中にはもう一つの責任感という感情があった。俺達は恋人にはなれない…。心の底で俺は思っていた。愛し合えないからじゃない。ただ、俺は秋葉を元の世界へと返さないと思っていたからだ。
しかし、そんな事を考えていると秋葉は俺に言った。
「恭祐さ、ずっと私を元の世界に帰さないといけないって思ってるでしょ?」
図星だ。完璧に心を読まれている。
「うん」
「やっぱり…少しの間しか一緒に過ごせてないけど、恭祐の考えてることなら何か分かる気がする……。あのさ、恭祐、好きってことに世界が違うなんて関係ないよ。私が元の世界に帰らないといけないとしても、好きなことは変わらないんだから」
「俺も………」
俺はこの瞬間ほど叫びたいと思ったことはない。目の前にいる秋葉に好きだ、愛していると叫びたかった。六年前に秋葉を見たあの時から好きだったと伝えたかった。
しかし、俺の中には葛藤がいまにも爆発してしまいそうなくらいに膨張していた。秋葉が好きという感情。そして、好きなのに会えなくなる事を願う責任感。この二つは決して共存は出来ないと分かっている。分かっているが故に俺は何も言い出せずにいた。
「……。恭祐、今言ってくれなくてもいいよ…。私はいつまでも待ってるから」
涼しい秋風が俺達の頭上を過ぎるとともに、秋葉は夜に輝く笑顔を見せながら言ってくれた。そして、秋葉は一回上の夜空を見上げている。そして、この天国ともいえる場所から出ようとした。
そんな秋葉を見て、俺はふと六年前の事を思い出した。突然俺は秋葉を失って、自分の思いに改めて気づかされたことを。
「秋葉、待ってくれ」
気付くと俺は秋葉の手首を握っていた。
「秋葉…、俺も好きだ。秋葉の事が、六年前から好きだった。そして、今も愛してる」