第十一話
薄暗くも心地の良い空間に俺は座っていた。布でできていて、両肘を置くことの出来る肘掛もある。この空間に来たことがある気もするが、いつだったかは思い出せない。
周りにも多くの席がある。しかし、誰も座ってはいない。俺一人、貸し切り状態ってやつだ。暗く、静かな空間。暑くもなく、寒くもない。目を閉じるとすぐに眠ることが出来そうなほどに気持ちがいい。
「上映中は携帯電話の電源を切ってください」
幼い女の声が聞こえるとともに、正面には大きなスクリーンが広がった。白く、何もないスクリーン。しかし、不思議と眩しいとは思わなかった。
何も考えずにそれを見ていると、スクリーンの奥から声の主だと考えられる女の子が現れた。何故か見覚えがある。しかし、その女の子が誰で、俺と何の関係があるのかは分からなかった。
「恭祐…。もう迷わなくてもいいんだよ」
女の子は心地の良い声で俺にそう呟く。迷わなくてもいい、と。
「あの時、恭祐はずっと私を守ってくれた。だからもう苦しまないで…」
女の子の声とともに俺は自分の胸元が少しづつだが締め付けられるように感じた。何故だかは分からないが、締め付けられて、苦しくなっていく。
「君は誰?」
痛む胸を右手で抑えながら聞く。見覚えもある。声も聞いたことがある。でも、その女の子が誰なのかは分からずにいた。
「君は誰?」
もう一回聞いてみるが、彼女は黙ったままだった。目からは少しだけだが涙を流し、俺を見つめている。
「恭祐…。もう忘れてもいいんだよ。こんな夢を見なくてもいい。だって恭祐には彼女がいるでしょ? だからもう、私の事は、……」
ーー
部屋に広がる小鳥の囀りを聞きながら、俺は目を覚ました。部屋には太陽の淡い光だけが差し込んでいて、それ以外にこの部屋を照らすものはない。今日が何曜日なのかも分からない程に俺は寝ぼけていた。
しかし、寝ぼけている中でも今見た夢は何となくだが覚えている。映画館の中で俺は誰かを見ていた。誰か、俺の大切な人を…。だが、それが誰なのかを思い出すことはできない。
昨日飲みすぎたせいか、頭は重く感じ、頭痛も酷い。目も完璧に開ききっていない俺は上半身だけを起こして、痛む頭を右手で抑えながらベッドを眺めた。ベッドの上には秋葉がまだ気持ち良さそうに眠っている。その姿を見るだけで、頭痛が少し和らいだ気がした。
俺はフラフラになりながらも頭痛薬のある台所へと向かった。白い薬を一錠口に含んで、秋の終わりの冷たい空気で冷やされた水道水と一緒に飲む。スッキリはするが、まだ頭も体も石のように硬く、重く感じた。
眠りに落ちた時から自分のポケットに入っていた携帯を見てみると、午前の八時と表示されていた。酒を飲んで、こんなに疲れていても、六年間積み上げてきた早起きの習慣は崩れてはいなかった。
もう一度部屋に戻り、何も考えずにテレビをつける。何も考えずにつけてみたテレビだったが、そこに映された景色に俺は圧巻させられた。一面赤と黄色の葉がテレビを覆い尽くし、太陽の光でその葉たちはさらに温かみを、輝きを増していた。
「今日は京都にやってきました! 見てください、この景色!」
ニュース番組のアナウンサーと思われる女性が大きな声でリポートをしていた。しかし、それは大袈裟な反応でもなく、演技でもないと感じられた。実際にそこに映る景色には誰もが釘付けになるだろう。テレビ越しの俺でさえなってしまったんだから。
「恭佑、綺麗ですね…」
俺がその景色に目を奪われていると、後ろから弱々しい声で秋葉が俺に言った。
「ああ、綺麗だな…」
俺達は二人揃って、紅葉の持つ不思議な魔法のようなものに囚われていた。その瞬間だけは何も考えずに、ただその光景を見つめていた。
秋葉の方に振り返ると、秋葉は昨日と同じように疲弊している様子だった。ご飯食べる?なんていう質問は今の状況には愚問だ。秋葉が俺と合うまで、きっと何も食べてはいない。たとえ秋葉に辛いことがあったとしても、俺は今やれる事をしなければいけないと感じた。
「秋葉、今からご飯作るから待ってろよ」
冷蔵庫には玉ねぎ、ハム、冷凍しておいた白米、それに卵があった。これだけの材料で作れるものは沢山あるが、秋葉にはこの料理を作ってあげたかった。
「お待たせ、はい、恭佑特製チャーハンだ」
俺が秋葉に出来上がった熱々のチャーハンを渡すと、秋葉は黙々とだが、がっつきながらチャーハンを食べ始めた。秋葉は笑顔を見せることはなかった。だが、俺は分かる。俺と会えたということよりも、この六年間に体験したことのほうが苦しく、笑顔を作ることさえ出来ないんだと。
ニュースの中での紅葉の特集はいつのまにか終わっていて、アナウンサーたちは何か違うことについて話していた。
静かな部屋の中にはテレビから発せられる音とスプーンが皿に当たる高い音しか響いてはいなかった。前は威嚇されたことで緊張したが、今回は何か重い雰囲気のせいで俺は少し緊張していた。
このまま秋葉が何かを話すまで待つ…という事もできた。昨日のように秋葉から話してくれるのを待つこともできた。だが、俺にはそんなこと出来なかった。
秋葉の笑顔を取り戻すには何をしたらいいのだろうか?奴らが奪った感情を秋葉にまた与えるにはどうしたらいいのか。そんなことを考えると、俺は自然と口を開いていた。
「秋葉……その、京都行ってみるか?」
考えてみると、自分が発した言葉がどれだけ勇気のいることかを理解した。そんなことをしたら秋葉はまた危険に侵されるかもしれないのに……。
秋葉はチャーハンを食べる手を止めて、俺の顔を見た。「そんなことできるわけ無いじゃん!」と言われるのは覚悟ができていた。しかし、実際に見つめられると俺は否定的な事を言われることに少し恐怖を感じてしまっていた。
「……。うん」
行かないと言うと思っていた俺は秋葉の言葉に驚いた。何というか、予定も何もなく、何も考えないで言ってしまったことだから、いざ京都に行くとなると、俺は秋葉の言葉に対して何も言えなかった。
しかし、秋葉が行くと言ってくれたことに俺は嬉しく思った。無責任な言葉だったかもしれないが、俺にはこの京都に行くという中で六年ぶりに秋葉を守るという責任を負うことができた。また、ポジティブに考えれば、京都にいる間、秋葉がこの町の近くにいると思っているはずの研究所の奴らからは見つかりにくくなる、と思う......。
「恭佑…行くなら早く行こう…」
秋葉は真剣な表情で俺に言った。