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感情の肥溜め  作者: toru
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親父と、芥川龍之介と。

唐突だが、僕の好きな作家の一つに「芥川龍之介」がいる。

今時、古典的な作家が好きというのもちょっと変わり者なのかもしれないが、今でもkindleで彼の作品をダウンロードしたり、書店で文庫本を購入して読んでいる。

彼の「童話」にも似たような「悪い人は悪い」「良い人は良い」そして「悪い人は必ず『痛い目』をみて、必ず改心する。」そんな、良い意味で「シンプル」な話が、僕の心を暖かくしてくれるのだ。


僕がそんな「芥川龍之介」を知ったきっかけは、親父だった。


僕の親父は僕に似て、少し変わり者である。


子供の頃誰しもが経験していると思うが、僕も子供の頃、寝る前に親父から本を読んでもらっていた。

普通なら「桃太郎」とか「浦島太郎」などの「昔話」が出てくるのかもしれない。

ただ、親父はそういう「昔話」を一切読まず、代わりに「芥川龍之介」の短編を読んでくれた。


いつも親父は「寝る前に本を読んでよ。」僕がそう言うと、親父は本を持つわけでもなく一緒に布団に入り、そっと目を閉じた。

それが、親父が「本を読む」合図なのである。


親父はたくさんの「お話」を記憶していた。

その中の一変を、丁寧に丁寧にたどりながら、そして時にはアドリブを交えながら僕に話してくれた。

だから、いつもいつも同じ話なのに「変わって」聞こえていたのも覚えている。


一番記憶に残っているのは、芥川龍之介の超代表的な作品「蜘蛛の糸」である。


簡単に物語を説明すると、主人公は「死んで地獄に落ちた罪人『カンダタ』」と「その『かんだた』を地獄の上にある天国から見る『お釈迦様』」である。


天国は死ぬ前に「たくさんの良い事を行った人」が住むことが出来る場所である。

天国は暖かい日差しがさし、周りはたくさんの花に囲まれていて、つねに暖かい気候に恵まれている。誰もが「住み心地やすい場所」だった。


そんな「天国」に住むお釈迦様の日課は、天国の下にある「地獄」を眺める事だった。


その地獄は死ぬ前に「泥棒や殺人などのたくさんの罪を犯した人」が鬼によって連れてこられる場所である。

そこには「針の山」や「血の池」など、生きていても死んでいても絶対に経験したくないものがたくさん並び、有無も言わさず「そこを巡るように」と鬼から言われる。

そこには「痛み」や「辛さ」しか残っていない、もちろんたくさんの傷をおおうが、仮に辛くなって血の池に顔をうずめて呼吸を止めてみようと思ってみても「死んでいる」ので、そこからさらに「死のう」と試みても無理な話。

罪人たちは何の生産性もない、ただただ「苦しく」「痛い」環境で、ずっと過ごさなければ行けなかった。

そんな「地獄」の中でたくさんの罪人と苦しんでいたのが『カンダタ』だった。


『カンダタ』は、生きている間、たくさんの窃盗や殺人を繰り返し、たくさんの人に肉しまれながら亡くなっていった。

そんなたくさんの罪を犯しながら亡くなったものだから、当然ながら地獄には落ちる。

そして、そんな『カンダタ』を神様は「当然のことをしたまでだ。地獄でたくさん苦しむと良い。」と思いながら見ていたそうだ。


ただ、そのカンダタを見ているうちに、お釈迦様は「『カンダタ』が生きていることにやった一つの良いこと」を思い出した。


カンダタがある日、道を歩いていると、目の前を小さな蜘蛛が通りかかった。

カンダタはその蜘蛛をみて、何を思うわけでもなく、まるで挨拶をするように自然な気持ちで「こいつを踏みつけて殺そう」と思い、足を上げて踏みつけようとした。


ただ、人間誰しも「気まぐれ」で違う気持ちを起こすものだ。

カンダタは、「別にこいつを殺す理由もないだろう」という気持ちが生じ、足は蜘蛛を踏みつけずに下ろし、そのまま蜘蛛を逃してあげたそうだ。


神様はその「カンダタが唯一行った良いこと」を省みて、カンダタに一つチャンスを与えようと思った。

今振り返って考えてみたら、神様はメチャクチャ良い対応をしてくれていると思う。

もし、自分が神様と同じ権限を与えられていたのなら、「良いことをしたかもしれないが、そんなのチャラになるくらい悪いことをしている。」と、カンダタのことなんか見向きもせずに天国でのうのうと暮らしていると思うのだ。

まさに神様の行った対応は「神対応」だ。(すいません、言いたくなっただけです笑)


神様は、目の前にいた蜘蛛が垂らしていた糸を手に取り、地獄で苦しむカンダタの目の前で垂らしてやり、カンダタに「これに登って天国まで来るように」という一つのチャンスを与えた。


現実的に考えてみれば、土台無理な話である。

子供の僕でもわかるが、「蜘蛛の糸」なんてのは誰もが手にしただけでもすぐに切れてしまうし、「大人が手にとって登る」なんてのは、「無理」以外の言葉が思いつかない。

ただ、そこは「物語」の一つ。

当然、カンダタは「神様がチャンスをくれた!!」と喜び、一目散にその蜘蛛の糸を手にとって上へ上へと登っていった。

ただ、今カンダタが登っていっているのは「蜘蛛の糸」である。

わかりやすくいうと、テレビ番組「SASUKE」というアスレチックを主体にした特番の最終ステージに出てくる「アレ」だ。

「アレ」のように丁寧に丁寧に、ただ、時間制限はないので「ゆっくりゆっくり」と慎重に登っていく。


距離にして8割ぐらいを登った頃だろうか、カンダタの目の前には「天国と地獄の境界線」に張り巡らされている大きな雲が段々と近づいていっているのがわかる。

「あと少し、あと少しであんな苦しい地獄ともお別れだ。」カンダタは今まで感じたこともない喜びを感じながらも、ある違和感を感じていた。


糸をつかむ手から、何か「別のもの」が引っ張ってくる感覚がある。

しかも何かたくさんのものが連なって、引っ張ってくる。そんな感覚があった。


カンダタが下をみると、そこにはカンダタと同じようにたくさんの人が「蜘蛛の糸」を手にとって我先に登ろうとする多くの罪人が見えた。


カンダタにはそれが恐怖に見えたに違いない。

これは僕の主観だが、針の山や血の池などでたくさん苦しむ罪人たち。

親父はその時「悪いことをした人たちは、針の山や血の池などで苦しんでいました。」と描写を省いて本を読んでくれていたのだが、小説を読むと「たくさんの罪人は針の山で穴だらけになった。その状態で血の池にはいり、罪人たちはうめき苦しむ。」などの残酷な描写が書かれていた。

そんな「残酷な罰」を受け、うめき声をあげる様はまさに「ゾンビそのもの」のような感じもする。

小説を読んだときでさえ「苦しそうだなぁ。怖いなぁ」と思いながら読んでいた僕だ。

当然、カンダタも震え上がるくらいの恐怖が迫っていたに違いない。


それに、カンダタにはその恐怖に加え「多くの人が押し寄せること」によって、「糸が切れるかもしれない」という恐怖も押し寄せている。

糸が切れれば「天国へ行けるチャンス」はなくなり、また地獄で苦しい生活を送らなくてはいけないのだ。

当然、カンダタは必死に「他のもの」に対して、「糸から離れろ!そんなに人が集まると、重みで糸が切れる!!」と怒鳴った。


すると突然、いままでカンダタが登っていた「蜘蛛の糸」が「プツリ」と小さな音を立てて、カンダタの元から切れた。

天国から垂れた一本の細く長い糸は、カンダタの親切心を試していたのだ。

もしかしたらカンダタが皆に気を配り「急いで登ったら切れてしまうかもしれないので、皆さんゆっくりと登っていきましょう。」と声をかけたら、カンダタを含め、糸に登った皆は天国へと行けたかもしれない。

ただ、「糸から離れろ!!」とちょっと怒鳴っただけで糸が切れてしまったということは、「親切で誰にでも気を配れ、些細な事で怒ってはいけない。」という気持ちが「蜘蛛の糸」には込められていたのかもしれない。


残念ながらカンダタはそのまま多くの罪人たちと地獄へと落ち、再び苦しむ一方で、お釈迦様は何事もなかったかのように天国でのんびりと暮らしていた。


という話だった。


親父はこの話を、あくまで「寝る前に読む本」としてゆっくりやさしく読んでくれた。

ただ、「天国」と「地獄」の描写は、その「やさしさ」に加えて、たっぷりと「感情」を加えるように読んでくれた。

天国には、優しさに加えて「豊か」な感情を表すために少しゆっくりと。

そして地獄のときには「鬼」のようなしゃがれて、怒気を含んだような声。

今だったら「デーモン小暮の真似をしてください。」と言って、みんなが出すような声だろうか。

あんな声を出しながら「鬼の怖さ」を表現し、地獄で苦しむ人達はアドリブで「うめき声」なんかを加えながら「地獄の怖さ」を表現していった。


僕はこの話を聞いたとき、「地獄の怖さ」に怖くなり、時には「怖いよ。お父さんやめてよ。」と言いながら布団にもぐった。ただ、一方で「天国の豊かな風景」に喜び、心がやさしくなり、時には「親切なことをしていれば天国のように豊かに暮らせる。ただ、悪いことをすればそれなりに『痛い目』にあうのか。」そんな事を思いながら眠りについていった。

まるでそれは「布団のように温かい気持ち」にさせてくれるだけではなく、ジェットコースターに乗るときのようなワクワクした気持ちも持たせてくれ、僕を楽しませてくれた。

「蜘蛛の糸」の魅力にどんどんハマっていった。


親父は、それ以外にも「杜子春」などの「芥川龍之介」の作品はもちろん、グリム童話や、「西遊記」の原文も読んでくれた。

(これは余談だが、あとで親父の本棚を覗いたとき「西遊記」は小説で、全15巻ぐらいに渡って続いていたのを覚えている。「とても長い作品なのだな。」とびっくりした。絵本でも発売されているぐらいの作品なのだ。相当「短い話」だと思っていた自分が何か恥ずかしくなったような気もした。)

そして僕は、「蜘蛛の糸」以外の話ももちろん楽しんで聞いていたのだが、親父が「今日は何の作品にしようか。」と、リクエストを募って来たときは、毎回、「蜘蛛の糸」頼むようになった。

それぐらいハマっていたのだ。


僕は今でも本を読んで、作品に出てくる主人公と一緒になって苦しんだり、喜んだり、悲しんだり、怒ったり、楽しみながら、様々な時を過ごす。

そしてその作品を読み終わったあとには「こいつらも頑張っているんだから、俺も頑張らなくちゃな。」と勇気をもらい、仕事やプライベートに対してのエンジンを掛けてもらうのだ。

もしかしたら、僕は小さい頃の、この頃から本に対して様々な「教え」や「勇気」を教えてもらっていたのかもしれない。


僕はそれから、まるで当時流行っていた「ヒーロー番組」のように、友達に対して「悪いことすると、『蜘蛛の糸』で助けてもらえないよ。」と注意したり、先生に対して「悪いことしても、お釈迦様が見てくれて、『蜘蛛の糸』でチャンスをくれるんだ。」と言ったのを覚えている。

「蜘蛛の糸」自体を知らなかった友達や先生たちは「キョトン」とした目で僕を見ていたのを覚えている。今更ながら恥ずかしい話だ。


それから時が経つにつれ、僕はたくさんの本と触れ合った。

ただ「芥川龍之介」を読むことはしばらくなくなった。

単純にいうと「恥ずかしかった」のだ。


中学か高校の授業の時に、この「蜘蛛の糸」が取り上げられた。

「へぇ。こんな作品もあるのか。」と思う子もいれば、「テストの範囲だから」と真剣に聞いている子もいた。

ただ、僕は「恥ずかしくて」まともに授業を聞くことが出来なかったのを覚えている。

子供の時に、僕が「ワクワクしながら」「一喜一憂しながら」聞いていた作品だ。

つまりは、子供ながらに見た「仮面ライダー」や「ウルトラマン」と同じ感覚なのだ。

中学・高校生くらいの多感な時期に「子供のころ触れた作品」というのは「懐かしい」という感覚ではなく「どこか恥ずかしい、くすぐったい」感じがするのだ。


そんなだから、僕は「蜘蛛の糸」を聞くと、子供の頃のいろいろな事を思い出し、恥ずかしくなって、時には「顔が赤くなる」ぐらいまで火照ってしまうような事もあったので、なるべく話を聞かず、じっと先生の目を見ていたような気がする。


そんな「恥ずかしさ」から数年後、「懐かしさ」を純粋に「良い思い出」として受け入れられるようになった数年後、僕は古本屋に通うことが多かった。

大人と言ってもまだ、まともにお金を稼ぐことのできない僕は、本を買うにしてもCDを買うにしてもDVDを買うにしても恥ずかしながら「中古」ということが多かった。

もちろん「作家に還元される」「好きな作家を応援したい」という気持ちはあったので、新品を買いたかったのであったが、「新品を買える金もない、けどエンターテインメントには触れていたい。」そんなわがままを叶えるために、僕は本を買うときは必ず古本屋に行っていた。


そんな古本屋にたまたま僕が好きだった話「蜘蛛の糸」が収められた「芥川龍之介短編集」が置かれていた。

本当は別の本を探していたのだが、懐かしいタイトルを見つけたことでワクワクしたのか、その本を手に取り、パラパラとページをめくった後、すぐにレジへ向かった。


何もすることが無かったのもあり、家に帰るとすぐにその本を読み始めた。

そこには相変わらず「豊かな天国でのんびりと暮らすお釈迦様」「地獄で苦しむカンダタや罪人」「罪人を急かす鬼たち」など様々な登場人物が出て、僕を怖がらせたり、ワクワクさせたり、いろいろな考えをもたせたり、あの頃の「子供の頃の僕」と同じような気持ちにさせてくれた。


それは、まるで「遊園地」のように僕のことを楽しませてくれた。


「蜘蛛の糸」で「懐かしさ」を感じ「再び楽しませてくれた嬉しさ」を感じた僕は、ワクワクしながらそこに収められた「他のお話」も大事に大事にページをめくりながら読んでいった。

そして一つ一つの話に涙したり、ワクワクしたり、「それはだめだよー。」と声を上げながら読んでいった。

あの時から20年が経ち、僕は「芥川龍之介」の魅力にハマっていった。


話は変わるが、これを書いている現在、芥川龍之介は「死後90年」が経つ。

日本では「『死後50年』経つと、基本的に著作権を失う。」という法律がある。

いわゆる「パブリックドメイン」というやつだ。

これが適用されると、出版社・個人・団体関係なく、好きな形態で故人の作品を出版し、販売する事ができる。

よくの時期に各出版社が「夏の文庫フェア」と銘打ち、「芥川龍之介」や「夏目漱石」「太宰治」などのたくさんの既に死後50年以上がたった作家の本が出版されるが、これは「著作権がきれて自由に販売できるようになったから」なのである。


それに反して、未だに満足にお金を稼ぐことができていない僕は相変わらずこれらの作家も含め、基本的に本を買うときは「古書店」である。

また、これらパブリックドメインとなっている作家はkindleなどの電子書籍で「無料」で販売されているものも多く、気軽にダウンロードをしては読んでいる。


「出版不況」と呼ばれ、誰もが「本を読まなくなった。」と言われている現在。

(これに対しては僕はちょっと異論があるのだが。それはまたあとで)

振り返ってみれば、僕も「本にお金を使うこと」は無くなったわけではないが、「作家にお金が落ちる形でお金を使うこと」がかなり少なくなったように思う。

それは「無料で素敵な作品が落ちていること」に魅力を感じてしまった事にあるのかもしれない。

ただ「お金をかけなくては経済が回らないこの世の中」で、「お金をほとんど使っていない自分

」が少し恥ずかしくも思えた。


今は無料でたくさんの名作をダウンロードし、読んでいるが、いつか満足にお金を稼ぐことができるようになったら、たくさんの「名作」をダウンロードし、また「あの子供の頃」に戻ってワクワクしたい。そう思った。


余談だが、親父にそれとなく聞いてみたところ今は紫式部の「源氏物語」を読んでいるそうだ。

古書店で買ったものなので、今、書店でチラホラとみかけている「角田光代さん新訳版」ではないと思う。


僕は今、SEKAI NO OWARIのSaoriさんこと「藤崎彩織」さんの処女作「ふたご」を読んでいる。


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