3. 初めての食事
ふぅ……。
一通り話を聞き終わった俺は、大きく息を吐く。
窓の外から差し込んでくる太陽の光はまだ白く、日が傾いているようには言えない。
それなりに長く話し込んでいたと思ったんだが……この世界にやってきたのが存外に早い時間だったんだろうか。
そう思ったところで、気づく。
ない。
腕時計がない。
作家を止めて大学生になる際に、先輩作家がくれた某時計メーカーのものが。他にも財布や会社の書類が入ったカバンがあったのだが、そんなのは別にいい。財布がないのも少しばかり不安があるか。とはいえ、あっちの通貨はこちらではほぼほぼ使えないのだから、無用の長物だ。
しかし、あの時計だけはダメだ。たった六年しか身につけてやることはなかったが、それでも俺の短い人生の中で数少ない宝物というべきもの。可能なら、何としてでも取り戻したい。
「おい女神」
「なに?」
……女神と呼ばれただけでなぜ少し嬉しそうなのか。
まぁ、今はそんなことは問題じゃない。
「俺が死ぬ間際に持っていたものはどうなっている」
「御遣い……部下たちが管理しているはず」
「とにかく今すぐ返してもらいたいものがあるんだが」
「なに?」
「時計だ。俺がつけていた腕時計」
「ちょっと待って」
女神は虚空から錫杖を取り出し、机の上にかざす。
すると机の中心、その一点が大きくはねる。それはまるで水面に水滴が落ちたかのように波が広がっていく。俺の目にはただ木材の表面がぞわぞわとうごめいているようにしか見えない。先ほども幻覚のようなものを見せられたが、これがファンタジー世界で言うところの魔法なのだろうか。だとすれば俺はとんでもないものを見ているのかもしれない。
そんな今更なことを思っていれば、そこからノイズのようなものが聞こえてきた。
「プリス様、もうお戻りですか?」
水面のように揺れる机から、落ち着いた妙齢の女性のような声が聞こえてくる。
その言語は俺を気遣っているのか、はっきりとした日本語だった。
「違う。ソータが、持ってた時計を返してほしいって」
「腕時計ですね。はい、すぐそちらに送ります」
その言葉の一瞬後、変化が起こる。
腕時計が――そうであったものが、波打つ机の中心に浮かび上がってくる。
なんだこれは。
ブレスレッド部分がきれいさっぱりなくなっており、その付け根の十二時側――ラグには長い麻ひもがつけられている。反対側のラグは丸められており、端から見ればそれはもう懐中時計にしか見えない。
「おい――」
「勝手ですが、こちらの世界に順応しやすい形にさせてもらいました」
文句を言おうとするが、すんでのところで割りこまれる。
……調子が狂うな。人の話を遮るなと親に教わらなかったのか。
きっと今の俺は、苦虫をかみつぶしたような顔をしていることだろう。
「……礼を言う」
「どういたしまして、でしたね。そちらの言葉では。用件は以上ですか?」
「うん。ありがと」
「いえ、プリス様のためであればこの程度は問題ありません。こちらのことは気にせず、人間界を楽しんできてくださいね」
「ご褒美。部屋の奥の棚にお菓子がある」
「はい、仕事を終わらせてからいただきます」
最後にふふっと控えめな笑い声を上げて、御遣いとやらの声は途絶えた。
同時に、机の上の波紋もなくなり、平らで硬い木に戻る。
それにしても、やけにアットホームな職場だな。かつて俺が働いていたところなど……いや、やめておこう。
というか、このちっこい女神よりも部下の方がやけに大人びた雰囲気を感じた。
実際に姿が見えたわけではないが、きっと有能な人物なのだろう。
「助かった」
「ん」
手に取ると、右手にひんやりとした金属の手触りが伝わってくる。
周辺が変わったといっても、文字盤の部分は一切かわっていない。裏に刻まれたイニシャルも確認した。俺が持っていた時計そのままだ。そのまま、とは少し違うかもしれないが。
時刻は十一時といったところか。どうりで明るいはずだ。
再び手元に戻ってきた時計の感触を確かめていると、ドアがコンコンと軽い音を立てる。
『よろしいでしょうか?』
聞こえてきたのは、どこか舌っ足らずな声だった。
『どうぞ』
プリスがこちらの言語でそう言えば、ゆっくりと扉が開かれる。
そこにいたのは、先ほど下で見た獣耳の少女だった。
彼女の表情はガチガチにこわばっており、緊張しているのが一発で分かる。
震える手に持った木の板には湯気を上げるお椀が二つ、乗せられていた。
『か、買いますか?』
「くれるのか?」
差し出されたお椀に思わず手を伸ばせば、器が引かれる。
勢いが強くて少しこぼれてるじゃないか。
『た、ただじゃない、です。五ミニット、ください』
「……言葉分からん」
こんなことなら、最初からプリスに全て任せていればよかったか。
『――っ』
ふたたび少女はびくりとそのちいさな身体を震わせる。
彼女の表情は、どこかおびえているようにも見えた。
……怖がらせる気はなかったんだが。
ただ、この調子だと何もしないままあれが手に入らないことは分かった。
あぁ、いや、そうか。
「ソータ、その子が言ってるのは――」
「あぁ、すまん。プリス、この食べ物に金を払ってくれ。無一文の俺じゃ、いつまで経ってもありつけそうにない」
「ん」
女神からいくらか通貨をもらい、少女に渡す。
すると、今度はすんなりと机の上に置いてくれた。
お椀の中はミルク色のスープ。暖められた牛乳の甘いにおいが鼻孔をくすぐる。
実にうまそうなにおいだ。
ただ、やけにこわばっている少女が気にかかる。
緊張されっぱなしというのは個人的になれていないので、何とかしたいのだが。
「悪かったな」
『……っ!』
かがんで少女の頭を撫でようとするが、ビクリと身体を震わせて扉まで飛びすがられた。さらりとした髪は指先を流れ、その手は空を切る。
……さすがになれなれしすぎたか。これでも、あっちでは子ども好きされるタチだったんだがな。
『お、おじゃましました!』
少女はそれだけ言うと、俺たちに頭を下げて慌てて部屋から出て行った。
今のはさすがに言葉が分からなくても理解できる。きっとお礼あたりだろう。
「
なんで?」
「何で分かったのか、か? 何となくだ。まったく。飯代さえまともに払えないなんてな」
「大丈夫。お金ならたくさん持ってる」
「いや、そういうことじゃないんだが……まぁ、いい。食うか」
「ん」
お椀に入っている白い液体を、木のスプーンですくう。
異世界に来て最初の食事は、甘いミルクの味がした。
それはやさしく舌を包み、のどをうるおしていく。
小さなきのみや鶏肉も入っており、、歯ごたえや食感には困らない。
「中々、悪くないな」
「おいしい」
異世界の食べ物が口に合うか不安だったが、この分なら大丈夫だろう。
人間が生まれて初めて口にするのが母親の母乳とはよく言ったものだ。
スープに舌鼓をうちながら、俺はそんなことを考えていた。
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