三頁 開会式
「ふんふーん♪ ふんふん♪」
一人の少女が、鼻歌を歌いながら台所で料理をしている。すっと通った鼻筋に色白のきめ細かい肌。薄い桃色の長い髪は絹のように滑らかだ。少女のそばには肉や野菜、果物などが並べられている。食事の用意をしているようだ。
手にした包丁で手際よく野菜を切り分けた少女は、下ごしらえを終えた燻製肉と一緒に切れ目を入れた焼き立てのパンに挟む。丁寧に紙で包むと、蓋つきの手提げ籠に収めた。
「よしっ、完成!」
少女は壁に掛けられていたゼンマイ仕掛けの時計に目をやった。
「時間も大丈夫。着替えてこよっと」
片付けた台所を後にすると、階段をとんとんと上り自分の部屋へと向かう。すると、少女の部屋の前には母親の姿があった。
「マレナ! もう朝よー、起きなさいー!」
「もう起きてるよ、お母さん」
後ろから声をかけると、少女の母アニタは驚いたように振り返った。
「なんだもう起きてたのかい。珍しいじゃない」
「えへへ。今日は“騎士祭”だもん。レイにお弁当作ってあげたんだ」
「へえ。弁当とは気が利くじゃないか」
「うん♪ 私、着替えたらお父さんのお店行ってくるね。それからお祭りに行ってくる」
「あぁ、頼んだよ」
部屋に戻ったマレナは、壁に飾ってあった真っ白な衣装を手にとった。
一枚の大きな生地で縫われており裾が広がるように作られたその衣装は、胸元や裾、袖口に綺麗な刺繍が施してある。今日のためにシスカの裁縫屋で作ってもらったものだ。驚かせたくて、レイには秘密にしてもらっていた。
寝間着を脱いで下着姿になると、頭からすっぽりと被った。体に合うようにきちんと整える。
「わあ、さすがシスカさまの服! とっても肌触りがいい…」
マレナは姿見の前に行くと自分の姿を映した。
「大きさ…少し小さいかな?」
真新しい白い衣装は彼女の清楚な雰囲気に合っていたが、大きさがぴったりのそれはマレナの女性として魅力的な体の曲線をひと際際立たせていた。もちろんそうなるようにシスカがこしらえたのだ。マレナが恥ずかしがると思ったのか、本人には伝えていなかったようだが。
「…もしかして、太ったかな…」
マレナは胸元に手をやった。ここだけ少し窮屈なようだが、それは太ったのではなく成長したという表現が正しいだろう。
「でも他のとこはぴったりだし、大丈夫よね」
上機嫌のマレナは鏡の前でくるりと一回転。裾がふわりと広がって、とても綺麗だ。
「やっぱり可愛い…。レイも可愛いって言ってくれるかな…えへへ」
櫛で髪をきれいに梳かし、丁寧に三つ編みにしていく。最後に赤いリボンを蝶々結びに結わえる。
階下に下りると、母は朝食を準備しているところだった。
「おやおや見違えたね」
「これ、シスカさまに作ってもらったの! どう?」
「シスカに? あんたいつの間に…」
「でも、レイには内緒なんだー」
アニタも近寄ってマレナの衣装を眺めた。
「こりゃなかなか上質な生地じゃないか。あの子にはお礼言わなくちゃ」
「え? そうなの?」
「あんたもちゃんと言うんだよ」
「分かってまーす。えへへ、可愛いでしょ」
「そりゃ、あんたは下町の聖女と言われたこのあたしの娘だからね。感謝しなさい」
「まーた嘘ばっかり…」
マレナは母の姿をちらりと見た。自分が生まれる以前のことは分からないが、母のずんぐりとした丸っこい体型は幼い時から変わっていない。
「そんなことより、そろそろ出かけないと間に合わなくなるよ」
「あ、そうだった!」
慌ててお弁当の籠を下げると、マレナは玄関で丈の長い革靴を履きかえた。
「今年は観光客も多いみたいだし、変な輩には気をつけるんだよ」
「はーい。いってきます!」
扉を開けると、通りは多くの人で賑わっていた。マレナの家があるのは店を営む商人が多く住んでいる通りで、外には観光客の他に露店へ商品を運ぼうと準備している住民たちの姿が見える。
「マレナ、おはよう」
「あ、おはようございます」
「お、マレナちゃん! 今日は一段と可愛いじゃないの!」
「へへ♪ いいでしょー」
「今日はお祭りだもんな」
「うん!」
幼い頃から住んでいるこの街では、皆ほとんどが顔見知りだった。近所に住む大人たちと次々に挨拶を交わす。明るく美人で、気立てのいいマレナは通りの看板娘のようなものだ。
楽し気に街の中心部へと向かうマレナのもとに二人の小さな少女が走って来た。果物屋の双子の姉妹、ミルとメロだ。
「マレ姉ー! おはよう!」
「おはよー」
「ミル、メロ、おはよ」
「なんかマレ姉いつもと違う!」
「ほんとー、真っ白ー」
「可愛いでしょー♪ シスカさまの服だよ」
「いいなー!」
「いいなー」
じゃれ合うようにして話す三人。まだ幼いミルとメロにとってマレナは姉のような存在なのだ。
「二人も決闘試合を見に行くの?」
「うん!」
「レイ兄応援するのー」
二人もレイの試合を応援しに行くようだ。声を聞きつけたのか果物屋の方から女性が出てきた。双子の母、マナだ。
「あら! マレナちゃん可愛い! ごめんね、うちのおてんばたちが」
「いえいえ、大丈夫ですよ」
「ミルおてんばじゃないよ!」
「メロも!」
「はいはい分かったから。マレナちゃんはシスカさんと一緒に見るのよね」
「はい。特別席なんです!」
「うらやましいわ。あそこは特等席だもんね」
決闘試合は、養成所の中心に建てられた闘技会場で行われる。中央の闘技場を円形に囲みながら、せり上がるように階段状の観覧席が建てられており、観衆はそこから試合を観戦できる。中には特別席と呼ばれる席が設けられており、養成所の関係者と試合に出場する騎士見習いの家族しか入れない場所があった。騎士の決闘を間近で観戦できるのだ。一人で見るのは寂しいからと、マレナはシスカに誘われて特別に入れることになっていた。
「一緒には見れないけど、私たちもレイのことはしっかり応援しにいくからね」
「ありがとうございます!」
「じゃあレイとシスカさんによろしくね。いってらっしゃい」
「はい! いってきます」
「マレ姉いってらっしゃい」
「またあとでね!」
「うん! またね」
三人と別れたマレナは、商人通りを過ぎて大通りへと歩いてきた。露店はまだ準備中のものも多いが、旅行客らしき人の数は多い。祭りが本格的に始まるのは決闘試合が終わってからで、旅人はそれまでに街の見物を済ませてしまうのが定番の観光の仕方だった。そろそろ試合が始まる時間とあって、通りを歩く人のほとんどが養成所のある街の中心地へ向かっているようだ。
案の定、養成所の入り口にはたくさんの人が集まって、闘技会場の入り口に向けて長蛇の列が出来ていた。
「今年も賑わってる…! お父さんのお店もお客さんいっぱい来るといいな」
マレナの父は工芸職人で、“騎士祭”では毎年木彫り細工の人形や家具を売る露店を開いている。露店の開ける場所は毎年くじ引きで決められるのだが、今年は養成所の目の前という一番いい場所を引いたと喜んでいた。
大勢の通行人にぶつからないように進んでいくと、正門の正面にある露店に父の姿を見つけた。すでに何人かの客が品物を見ているようだ。
「お父さんおはよう」
「お、マレナ! 早いじゃないかって、今日はレイの晴れ舞台だもんな。当たり前か!」
がははと笑う父の大声にびくりとする旅人。毎日一人で山奥まで木材の切り出しに行くマレナの父は、日に焼けた肌に屈強な体つきが一見すると漁師か大工のようで、とても木彫りの職人には見えない。けれど、手先は器用で売り物の出来も良く、毎年旅行客に人気だった。
「うちの自慢の娘が店先に立ちゃ、売り上げも伸びるだろうにな! レイ坊は放っておいて、店手伝わないか?」
「もう…。それでレイが負けちゃったらお父さんだって嬉しくないでしょ?」
「がはは! 違えねぇ! それに、レイにはマレナがついてねぇとな」
そんな二人のやり取りを見ていた客の何人かが興味を持ったようだ。
「まぁ、可愛い娘さんだこと」
「これは可憐な看板娘だね」
「親父、可愛いお嬢さんに品物選んでもらっていいかい?」
「いやぁ、ありがてぇ! マレナ、選んで差し上げてくれ」
「えへへ…。分かりました! じゃあこちらへどうぞ」
木製の机に並べられた、たくさんの品物の前に旅行客を誘導する。若い女性には木彫りの首飾り、旅人風の男性には騎士の剣をかたどったお守り、裕福そうな男女には少し高価でお揃いの木彫りの指輪と、次々に品物を選んでいく。
手際よく品物を紹介する美人な娘に惹かれて、続々と人が集まってくる。露店はあっという間に大繁盛となった。
「親父、見かけによらず器用だなぁ」
「この細工も素敵よ」
「本当に綺麗なお嬢さんだ」
「はーい皆さん、お決まりの方はこちらでお勘定いたします。ほら、お父さん!」
「あいよ! 順番にお願いしますよー!」
ほとんどのお客が品物を選んだところで、マレナはそっと人込みから抜け出した。露店に目をやると、父もマレナに気づいたようだ。片目をつむってマレナに目配せすると、すぐに勘定しながら大声で客引きを始めた。マレナも軽く手を挙げるとにこっと笑った。父の手伝いはしてあげたいが、そろそろ決闘試合が始まる時間だ。レイが出場するのは決勝戦なので一番最後だが、他の騎士見習いにも顔見知りがいるので応援してあげたかったのだ。
「えっと、東の四番口だったよね」
特別席への入り口は普段は衛兵が使用する小さな扉となっていた。人込みに揉まれることなく、中に入れる。
「マレナちゃーん」
大きな声に振り返ると人込みから少しはずれたところにシスカが立っていた。隣には衛兵隊長カイルの姿もある。
「シスカさま、カイルさん、おはようございます!」
「おはよう、マレナ」
「マレナちゃんよく似合ってるわ! 大きさも大丈夫みたいね」
「はい! こんなに可愛い服、ありがとうございます」
「いいのよ、いつもレイと遊んでくれてるのだから。本当よく似合ってるわ」
「レイも可愛いって言ってくれるかな?」
「あの子きっと照れちゃうわ。ね、カイルさん」
「確かに。レイはあぁ見えて照れ屋ですからね。でも本当によく似合っているよ」
「よかったー…」
シスカは萌黄色の服に身を包んでいた。黒っぽい紫の髪を一つに結わえて、肩から胸の前に垂らしている。町民街一の美人と謳われるその美しさはいつにもまして輝いていた。一方のカイルは立派な鋼鉄製の鎧に身を包んでいる。
「カイルさんはどうして鎧なんですか?」
「あぁ、実は所長から宣誓の挨拶を命じられてな…。せっかくの祭りなのに暑苦しくてかなわんよ」
「そうなんですか! 頑張ってくださいね」
宣誓の挨拶は開会式に行われる重要な習わしだった。騎士の正装である鎧は欠かせない。暑苦しいとは口で言いながらも大役を任されたことについては、普段から冷静なカイルもまんざらでないようだ。
「それでは行きましょう。まもなく始まるゆえ」
三人は小さな扉から通路へと入った。すれ違う衛兵たちに挨拶しながら進み、特別席へとたどり着く。
見上げると、一般の観覧席は数えきれないほどの見物人でぎっしりだった。まだ空いている場所もあるようだが、入り口からはひっきりなしに人が入ってきており、すぐに埋まってしまうのだろう。
特別席は決闘場のすぐ目の前で、剣を交わす騎士見習いたちの姿が目に浮かぶようだ。
「マレナちゃん、わくわくするわね」
「はい! レイが緊張してないといいんですけど…」
「あら、緊張しているのはレイだけかしらね?」
そう言うと、いたずらっぽい笑みを浮かべてカイルの方を見た。視線に気づいたカイルは観念したように両手を挙げた。
「シスカ様、勘弁してください。ただでさえ心臓が飛び出そうだというのに…」
「うふふ。カイルのこともちゃんと応援していますよ」
「頑張って下さい、隊長さん♪」
「…やれやれ。女性には敵わんな」
その時、大きな鐘の音が闘技場に鳴り響いた。開会式が始まるのである。ざわざわとしていた観覧席も静まり返る。
「もうこんな時間か。それでは私はこれで。お二人も楽しんで」
「えぇ」
カイルは決闘場の隅の入り口に消えていった。
二人も用意された長椅子に腰かけ、始まりを待つ。少し経つと、軽快なラッパの音が大きく鳴り始めた。出場者が現れる二つの出口から、音楽に合わせて太鼓や騎士団の旗を掲げた衛兵が整列して歩いてくる。決闘場の中心で合流した二つの列は足並みをそろえて止まった。すると特別席の一つから眼鏡をかけた老人が歩いてきた。騎士養成所の所長・ツギノ老人である。そばにはカイルがついている。ツギノ老人は中央に立つとその小太りの体型からは想像できない、落ち着きながらも通る声で喋りだした。
「世界中からお集まりの皆さま、お待たせたしました。東の大陸が誇る王立騎士団、大陸を守る若き剣
が今年も数多く育ちました。騎士見習いたちよ、前へ」
すると東西の出口から、騎士見習いたちが整列して現れた。身にまとう革製の鎧は深い青色に彩色されている。見習いの正装だ。観客席から大きな歓声が上がる。東の列の中に薄い青髪の青年を見つけたマレナは嬉しそうに声をあげた。
「レイだ! シスカさま、レイがいたわ!」
「本当! レイー! 頑張ってねー!」
歓声が大きすぎて二人の声は届かないようだ。見習いたちは決闘場の中心で二つに分かれて立ち止まった。中央に開けられた道にカイルが歩いてくる。カイルが立ち止まると歓声が止んだ。宣誓の挨拶が行わるのだ。いよいよ決闘試合が始まる。
カイルは大きく深呼吸をすると、目をつむったまま腰に帯びていた剣を勢いよく抜き放った。見習いのものとは違う、立派な刀身の鋼の剣だ。
大きく切り払った剣を眼前を構え両目を見開くと、声を張り上げた。
「王立騎士団、決闘宣誓!」
カイルに続き、騎士見習いたちが一斉に剣を抜いた。一糸乱れぬその動きで決闘宣誓の構えをとると、全員が負けじと大きく声を張った。
「我ら、大陸を守る剣とならん!!」
割れんばかりの歓声が〈渓谷街〉中に響く。
決闘試合が始まった。