課題 桜
僕は春が嫌いだ。
新生活を始める人々の希望に溢れた顔や、新天地への思いにほころぶ顔が嫌いだ。
理由は単純で、妬ましいから。
特に目標も目的もなく、ただ日々を過ごす今の現状に僕は絶望している。ふとした時、脳裏に浮かぶのは暗い思考ばかり。我ながら嫌気がさしてしまった。
だから今僕はこうして、雑居ビル屋上の縁から身を乗り出している。
良い天気だった。空は青蒼く、見渡す限り雲一つ浮かんでいない。
そっと下を覗くと、街ゆく人々が蟻の群れのように見えた。この高さなら確実に逝けるだろう。
あと一歩踏み出せば、一足先に春を越せる。
重心を前に傾けかけた、その時だった。
「ちょっと君! そんなところに立たれたらせっかくの桜が見えないじゃない!」
不意に後ろから怒鳴られ、慌てて振り返る。
そこにはレジ袋を片手に佇む、OLらしき女性の姿があった。
このビルの社員だろうか? なんにせよ、これでは迂闊に飛び降りることもできない。
呆気に取られる僕を他所に彼女はずいずい近づいてきて、
「もしかして君も桜を見に来たの? 私しか知らない絶景スポットだと思ってたんだけど」
「さ、桜……?」
「ほらあそこの。ここからだとよく見えるのよ」
彼女が指差す方へ視線を向けると、そこにはたしかに満開の桜がひしめき、絨毯のように広がっていた。
まったく気がつかなかったが、たしかに綺麗ではある。
僕の感嘆に満足したのか、彼女はコンビニ袋から缶チューハイを取り出すと、そのまま数回喉を気持ちよく鳴らした。
「まぁせっかくだし、君もどう?」
そしてもう一缶を差し出しながら、僕の嫌いな笑顔とは別の笑顔を浮かべてくる。
僕はしばし戸惑ったが、気がつけば缶チューハイの冷たさが掌に染み込んでいた。
彼女にならって、勢いよく喉を鳴らす。すると何故か、自殺なんてものが馬鹿馬鹿しく思えてきてしまって。
僕は少しだけ、春が好きになった。