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2 (一日目 九時三〇分)
喫茶店『クー・シー』は、城鐘町の雑居ビル街に乱立する、灰色のコンクリートビルの一階に店を構える、欧風の喫茶店である。ちなみに、このビルの二階には、蒼井の探偵事務所があるのだが、その紹介はまた別の機会に。
『クー・シー』の外には客専用の屋外テラスが設置されており、お洒落なメニュー板が立てかけられている。『モーニングタイム お好きなパンとコーヒーセットで六三〇円!』城鐘町では、珍しくサービスに見合った値段設定だ。しかし、その割には客入りが多そうな朝時なのにもかかわらず、喫茶店周辺は、物静かで人気がない閑散とした空気が漂っていた。店内と外の雰囲気は、若いカップルや学生が好みそうなものであるが、悲しい事に、この喫茶店『クー・シー』の客入りが少ないのには理由があった。
「はぁい、ハルちゃん。『クー・シー』特製ビッグチョコバナナパフェお待ちどぉさまぁ~」
客がいない喫茶店の最奥の席を陣取った蒼井と榛名の目の前に、高さ五十センチはあるであろう巨大なグラスに、品無く盛られた生クリームとバナナとアイスとチョコレートの塊が差し出された。アイスとバナナがぶち込まれた上に、たっぷりしぼられた生クリームのそのまた上に、ちょこんと乗ったチェリーが少し愛らしい。しかし、その全体の重量がテーブルの上にのって、ずん、と空気が重くなり、蒼井の肩に圧し掛かった気がした。
「どうも」
「うわぁ、榛名君、朝からそれはどうかと…」
「普通ですよ。それに、蒼井さんの奢りなら、これくらい食べておかないと勿体ないですから」
そう言って、榛名は長いスプーンを手に取り、もくもくと生クリームを食べ始めた。蒼井はそれを見ながら、残念そうに顔を歪めて逆流しそうになる胃液を腹に押し込める。どう見ても、普通じゃない。
「あらぁイイじゃない。美味しそうにバナナを食べてくれる若いコは、アタシも好きよぉ」
決して卑猥な事を言っているわけではないのだが、彼、いや、彼女?が言うと、それは立ちどころに深夜の繁華街を賑わす、アブノーマルなプレイを好む人専用の店で交わされているような会話に聞こえるから困る。
喫茶店『クー・シー』の店長である、麗華は、鍛え抜かれたボディービル選手顔負けの肉体と、彼のメイクスキルを最大に駆使したメイクを、その頬骨のある顔に施した、どこの誰がどう見ても、たくましい顔つきの男だった。声も野太く男性そのものだったが、女性らしい言葉遣いには、異常なまでの違和感を覚える。
「はぁ、どうも」
榛名は、ブラウニーを頬張りながら、顔を青くして僅かに麗華と距離を置きながら小さく会釈をした。そんな榛名の嫌そうな反応を見て、麗華は逆に気分を良くし、長い付けまつげを瞬かせながら彼にウィンクを飛ばした。
「ハルちゃんはそうやってツれないのがイイのよねぇ。逆に燃えるっていうの? ねぇアナタ、今度ウチでバイトしてみない? ウェイター姿のハルちゃんも映えると思うわぁ」
「いや、遠慮します」
「んもう! 拒否るの早すぎ! じゃあアオちゃんは?」
「断る!」
「アンタ、顔は良いけど清々しいくらいムカつくからそそられないのよねぇ」
満面の笑みで答えた蒼井に、頬に手を当ててがっかりと溜息をつく麗華は、内股になりつつ腰をくねらせた。料理は美味いし値段も良心的。雰囲気もいいこの喫茶店に何故客入りが少ないのか。それは、店長である麗華が個性的すぎるのが原因であった。そして、類は友を呼ぶというか『クー・シー』の常連客である蒼井達も、一般人からしたら個性あふれる愉快な人、悪く言えば、出来るだけ関わり合いになりたくない人なので、その負の連鎖反応のせいで客が少ないと言ってもいいだろう。それを榛名は、酷く勿体なく思っていた。
「それで、アンタ達なんでこんな朝早くから動いてんの? まだ朝の九時じゃない」
麗華が、怪訝そうな顔つきで首をかしげる。『クー・シー』の開店時間は午前九時。開店と同時に入店してきた二人に、麗華は驚いたものだった。面白い依頼が無い限り、動き出すのは決まって午後からである蒼井が、蒼井曰く助手、実際はアルバイト学生の榛名を朝早くから連れ回しているのは、些か見過ごせないことである。
「ああ、駅前のビジネスホテルで殺人事件だ。今日の昼にはニュースになると思うよ。僕は今回、この事件を解こうと思うから榛名君にも現場を見てもらいたかったのさ」
もちろん助手としてね! と愉快そうに笑って言う蒼井に、麗華は呆れたような視線を向けた。仮にも、人一人死んだ事件があったのだから、もう少し重い空気になった方がいいのではないか、と思う。不謹慎のような気がする。
しかし、そんなことを蒼井に言っても無駄なのだ。蒼井という自称探偵の男は、この世で起こる様々な事柄を、全てエンターテイメントと捉える人間なのである。結婚、出産、祭事、愛、絆、命から、殺人、強盗、窃盗、悲しみ、憎悪、死まで、彼にとってそれらは、等しく『興味の対象』に他ならない。
だから、蒼井は『興味深い事』を見つけるとそれにすぐに飛びつく。例えそれが、祭事の巫女の袴でも、先ほど人を殺した殺人犯にでも、等しく、平等な興味を示すのだ。
その、見境ない好奇心の塊に憤慨した昔の麗華が、蒼井にこう問いかけた事がある。『なぜそうも知りたがるのか。知って何をしようと言うんだ』その問いに対して、蒼井はキッパリと答えた。『ヒトの探究心とは本能だ。僕にとって興味を惹かれるという事は、食欲や性欲とそう変わらない』 呆れるような答えだった。
蒼井いわく『世の中の面白い事全てを、客観的に楽しみたい』のだそうだ。それこそ、物語の語り部のように。だから彼は、興味を惹かれた事に対しては率先して首を突っ込む。事件に全く関与していない立場からその事件を調べ上げて、物語の結末を見出そうというのだ。
それを聞いて、麗華は愕然とした。恐らく、この種の人間には何を言っても無駄なのである。会話をしている次元が違う。
とはいえ、常人とは異なるぶっ飛んだ感性の持ち主であることは確かだ。何をしでかすかわからない。
ならば、せめてこの男が下手な事をしないように、麗華は蒼井の開いた探偵事務所の一階に喫茶店を開くことにしたのだ。喫茶店とは名ばかりの、蒼井を監視するための店。それが喫茶店『クー・シー』の正体である。だが今となっては、麗華の料理は蒼井の助手と言う榛名の舌を十二分に満足させ、数人の常連客も獲得して、それなりに喫茶店として機能するようになったことは、店長である麗華も予想外の出来事だった。
「あらやだ。殺人? 本当にこの町は治安が悪いわねぇ」
「しかも首なし死体なんです。蒼井さんが好きそうな」
榛名がジト目で蒼井を見た。特大パフェは、既に三分の一ほど減っている。榛名の言葉を聞くと、蒼井は、となんでもない、と言わんばかりに激しく首を横に振って否定した。
「失礼な! それじゃぁまるで僕がくだらないスプラッター好きの危ない人みたいじゃないか!」
「違うんですか?」
「断じて違う! 大体、スプラッター映画ならともかく、現実のバラバラ事件なんて面白くもなんともない」
蒼井が詰まらなそうに吐き捨てて椅子の背もたれに背中を預ける。予想外の蒼井の否定の言葉に、麗華は不思議そうに首をかしげた。
「面白くても困るケド…」
「バラバラ事件全部が面白くないわけじゃないよ。今回のが詰まらないだけさ。今回、首を切った犯人のやり方は、非常に乱雑だ。犯人が映画に出てくるような異常な趣味を持っている人間で、首を切るのが目的で殺したならば、首の切断面はもっと手なれた職人技のように綺麗なものだ。彼らは一様にして、常人には理解しがたいポリシーというものを持っているものだからね。しかし何だあれは。汚すぎる。僕の方がもっと綺麗に切断できると思うね」
蒼井の発言に、麗華は一層顔をしかめた。よくも首なし死体と言う異常事態を前にして、首の切断面なんて観察できたものだ。蒼井こそ、常人には理解しがたい感性とセンスを持っているだろうに。感嘆と同時に、麗華の背中に寒気が走る。
「アンタの感想は置いといて、じゃあ一体何のために、犯人は首なんか切ったのよ?」
「被害者の身元を隠すため、でしょうね」
巨大パフェの半分をたいらげた榛名が、淡白な表情で呟く。榛名の意見を聞いて、蒼井は、パチンと指を鳴らして嬉しそうに彼を見た。
「そうだ。その通りだワトスン君。やはり君を助手にして良かった!」
「榛名です」
榛名は表情を変えずに、やはり淡白な表情で素早く蒼井の台詞を修正した。しかし蒼井は、そんな榛名の言葉など聞こえていないようなクチぶりで話を続ける。
「恐らく、犯人が首を切ったのは、被害者の身元を隠すため、だ。乱雑な切断面は、犯人が『切るつもりもないのに切らなきゃいけない状況に陥った』という証拠。被害者の荷物が、ごっそり捨てられていた意味も、それで説明がつく」
「アラ、案外簡単に『首無し死体』の謎が解けちゃったのね。犯人は、思わず被害者を殺してしまい、その身元を隠すために首を切って荷物を持ちだしたわけね」
「そう思うだろう? だが違う。この事件の面白いところは『死体首が無い事』ではないんだ」
蒼井が、愉快そうに笑いながら足を組み直して言った。
「榛名君はもう知ってるけど、その首無し死体の死因は、鈍器による撲殺。頭部へのね。撲殺と言う殺し方は、相手に憎しみ、嫌悪を持った時の殺害法だ。憎い相手は気が済むまで殴りたいだろう、嫌いな相手はボコボコにしてやりたくなるだろう。今回のもそれだ。部屋に飛び散っていた血液がそれを物語っている。」
「あれだけ血が飛び散るほどに、何度も殴ったんじゃぁ、計画的殺人と言うより、衝動的殺人でしょうね。ビジネスホテルで発覚した痴情のもつれとか?」
榛名の相槌に、蒼井はうん、と頷くも、麗華はややこしくなってきた、と言いたげに額に眉を寄せた。
「それなら、やっぱり犯人は思わず、被害者を殺してしまった、と言う事になるでしょう。犯人が首を切ったのも、恨みのせいなのよ」
「ストレートに考えるなら、それで解決するんだ。しかし、そう考えるとどうしても拭えない違和感が一つ残る」
蒼井は、額をおさえて、ううむ、と唸った。蒼井の言う、違和感の存在に気付かない榛名と麗華は、怪訝そうに蒼井を見つめて首をかしげる。
時刻は午前9時を回ったが、依然として喫茶店には客が入らない。
「違和感? なんですか、それは」
すっかりパフェを堪能した榛名が、食後のコーヒーに角砂糖を落としながら問いかけた。相変わらず火の付いていないパイプ煙草を咥えながら、蒼井は頭上のオレンジ色に輝くランプを見つめる。納得いかない、という困ったような顔をしながら、その表情は嬉々としているようにも見える。
「凶器だよ。被害者を殺害した凶器。血の飛び散り具合からして、恐らく長さ五十センチほどのパイプ状のものだと思うんだが、あのビジネスホテルの備品に凶器になりえるようなものが無かったんだ」
蒼井は、ホテルから出る際に他の部屋と事件があった部屋を見比べてきた。他の部屋にも、事件があった部屋にも、備え付けられた備品に変わりは無く、おびただしい血液と鼻を覆いたくなるような臭い以外は何も変わっていなかった。
なので、犯人が室内にあったもので被害者を殺害し、その凶器を捨てて逃げた、という考えではどうにも納得しがたい。
「衝動的殺人なら、部屋の中にあった灰皿でも使うだろう。一体犯人は、どこにあった凶器で被害者を殺したんだろうね」
「…持参した鉄パイプで殺した、とか?」
「そう考えると、この事件は衝動的殺人ではなく、計画的殺人、ということになる。しかし、計画された殺人で、被害者の身元を割らせたくなかったのなら、もっと上手くやる思うけどね。首を切るなんて面倒くさい。自殺に見せかけるなり、室内が汚れない方法で殺すなり」
ランプを見つめながら考え込んでいる蒼井に、榛名はコーヒーを啜りながら視線だけ投げた。
「計画的殺人ならば、身元を割らせないために他に楽な方法があって、衝動的殺人だとすれば、凶器はどこに? そういうことですか」
計画性があるようで全くないような可笑しな事件。いつものように、蒼井は面白半分で首を突っ込んだようだが、よく事件を検証してみると可笑しな出来事がいくつも浮かび上がってくる。その可笑しな出来事が、霧の中に浮かび上がった人影のように不気味で、榛名はなんとも言えない気分になった。
「じゃあ、結局何も分かってないじゃないですか。一丁前に推理披露して、凶器しかわからないんじゃしょうがない」
淡白な表情でコーヒーをすすりながら、榛名はがっかりしたような口調で言った。厳しい榛名の意見を聞いて、蒼井はバツが悪そうに顔をしかめた。そして、懐から古臭い手帳を取り出して眺めた。現場の詳細が詳しく書かれた手帳である。字が汚くて、蒼井以外の人間には解読できないだろう。
被害者の身元の手がかりもなく、手帳に残った現場の状態だけでは操作するにも限度がある。第一発見者が誰かも結城に教えてもらえそうにもない。せっかく面白そうな事件に巡り合えたというのに、これでは地道に聞き込みをしていかなければならないのだろうか。
探偵のくせに、そういう地道な作業があまり好きではない蒼井のモチベーションは、早くも下がり気味だった。
「現場って、ビジネスホテルだったんでしょ? 宿帳とか無いのかしら?」
「……あ、そうだ」
麗華の言葉に、思い出したように天井を見ると、榛名はソーサーの上にコーヒーカップを置いてごぞごぞと白衣のポケットを探り始めた。ポケットから、レシートやら飴の包み紙やらを大量に引っ張り出す榛名に、蒼井と麗華は怪訝そうに眉を寄せて顔を見合わせる。
しばらく、榛名の四次元ポケットから出てくるゴミの山を見つめた後、ようやくお目当ての物を探し当てたらしい榛名は、その小さなメモ用紙を一度見て確認すると、蒼井と麗華に向けた。
「あのビジネスホテルで、四〇八号室を使用したと思われる客の名前です。現場にいた時に、三波さんに宿帳を見せてもらったんです。ちょうど、蒼井さんが結城さんに怒られていた時ですね」
クシャクシャになったメモ帳には、ボールペンで『白石 信彦』と書かれていた。榛名の台詞から察するに、あの背の高い口の軽そうな刑事見習いは、一般人を無断で現場に入れたり、重要資料を勝手に一般人に見せたり、刑事としてはどうしようもない人材である。しかしそれが、蒼井のモチベーション回復につながった事は、恐らく誰も得をしないことだろう。
「でかしたぞ榛名君! 白石信彦、この人物について聞き込みをすれば、事件のカギにつながるぞ! さあ榛名君、聞き込みだ! 探偵の醍醐味は、地道な聞き込みにあるのだから!」
先程まで、聞きこみなんて面倒くさいと思っていた蒼井は、いきなり手のひらを返したようにやる気を出して声を上げた。いきなり生き生きとした表情になって、拳を握りしめながら立ち上がった蒼井に、麗華は頬に手を当てて苦笑し、榛名は残り少なくなったコーヒーを飲み干すと、変わらずの淡白な表情で蒼井を見た。
「その前に蒼井さん、提案があります」
「なんだね優秀な助手よ! 発言を許可しよう!」
楽しそうな蒼井に反して、常にローテンションの榛名は偉そうに言う蒼井を一瞥してコーヒーカップを置いた。
「とりあえず、仮眠をとらせてください」
徹夜研究明けの理大院生は、酷く疲れた様な声音で、目元にくっきりと隈を映して今にも閉じそうな瞼を無理矢理こじ開けながら言った。
登場人物紹介
蒼井…………城鐘町で探偵業を営む眉目秀麗の男
榛名…………蒼井の探偵事務所でアルバイトをする大学院生
結城…………城鐘町を担当する警視
三波…………刑事見習い 結城の部下
麗華…………喫茶店『クー・シー』の店主
首無し死体…駅前のビジネスホテルで見つかった首無し死体
白石信彦……首無し死体が発見された部屋を利用したと思われる人物