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1 (一日目 八時〇〇分)
結城は、ただのしがない女刑事である。
いや、他者から見た彼女というのは、実際は「ただの」でも「しがない」でもない。そんな評価をするのは、よほど彼女に不満を持っている嫌みな同僚の陰口か、彼女に逮捕された犯罪者たちの愚痴であろう。彼女の正しい役職は警視でもある。「ただのしがない女刑事」というレッテルは、結城自身が自分で吹聴している自己評価であり、他者が彼女を呼ぶときは「凄腕敏腕女刑事」と言う。結城は、そう評価されるのがたまらなく嫌だった。
何故なら彼女は、大のハードボイルド刑事ドラマファンである。刑事ドラマに限らず、ハードボイルド系作品全般のファンだと言って良い。葉巻を吹かしながら、ベージュ色のロングコートで犯罪現場に現れ、大きめのサイズの皮靴を履いてロレックスの腕時計をはめたりしながら、部屋に横たわる被害者の遺体に一瞥くれて、「今日のお客さんは随分派手な化粧をしていやがる」とか言ってみたいのである。そう言うのは大抵、ただのしがない中年刑事なのが、世の中のお約束と言うものだ。
だから、結城はハードボイルドなただのしがない中年刑事にはなれない。彼女は、この世に生まれ落ちた時から、そうはなれないと、この世のどこかにいるかもしれない神から仰せつかった。
結城は、まず女だった。しかも、スラリと伸びた手足に短く切りそろえた黒髪は、日本の女性らしい艶やかな黒色で、それは銃を握らせたらハリウッド映画張りの演技を見せつけてくれるであろうスタイルと美貌を兼ね備えて、きっちりと着こなした黒スーツが良く似合っている。しかし、その美しさのせいで、ベージュの薄汚れたロングコートなど全く似合わないし、葉巻を吸えるほど彼女の収入は多くない。結城が、女の身で警視という地位に着くには、もちろん並み以上の努力と功績が必要なわけで、そこもまた、彼女が刑事と言う職を志した時点で、必然的に「ただのしがない刑事」にはなれないことを決定づけている。彼女の努力と功績は、警視庁内で噂になるほどであるし、男ばかりの警視庁内で彼女はマドンナ的存在となっていた。
仕事も出来て、男どもにちやほやされる刑事のどこがハードボイルドであろうか。結城はその現実に愕然としながら、それでもハードボイルドを目指した幼き日の自分をガッカリさせないよう、煙草と酒はいつも傍に置いていた。
そんな、自称ただのしがない女刑事は、今、実に不可解な死体を前にして、疲れたような溜息と共に肺をめぐって一巡してきた紫煙を吐きだした。
場所は、明け方の城鐘町駅前のビジネスホテル。駅前の、居酒屋や歓楽街のある通りから少し奥に建てられた、くびれた灰色のビルの一室であった。建物はくびれていて、内装も、お世辞にも綺麗とは言い難い。客室も同様にあまり清潔感の感じられない、良くあるビジネスホテルであった。その、六階建てのホテルの四階、四〇八号室は、今は凄惨な殺害現場と化していた。
ホテルマンが、一応磨いていたのだろうシミだらけの白い壁は、真っ赤な鮮血で彩られ、固い枕が備え付けられたベッドは、被害者の脳漿と血液でびっしょりと濡れている。そのベッドに横たわっている男…恐らく、体格からして男だろう、と結城は思う。だろう、と彼女が思うのは、ベッドの上に横たわる人間の遺体には首から上が無かったのである。首の断面は、既に血が固まりなんだかよくわからなくなっているが、首があったはずの枕の上には、帯びたたしいばかりの血液が飛び散っており、ベッドの上だけでなく床や壁まで濡らす始末だ。
さらに、この客室、ホテル内から、この客が持っていた所有物が綺麗にすべてなくなっており、遺体が頭部を失っていることからも、今現在、この遺体が一体誰なのか、全く分からない状態であった。
頭を失った男の身体は、魂を失ってもなお体重の重みでベッドに沈み、結城を悩ませた。
「首の無い死体なんて、全く、見ていて気持ちのいいものじゃないわね」
結城は、手持ちの携帯灰皿の中に煙草の吸殻を落としてため息交じりに呟いた。
この、城鐘町で殺人事件が起きるのは、何もそう珍しい事でもなかった。都心が近い割に、お世辞にも治安が良いとは言えず、恐喝強盗強姦窃盗殺人売春などなど、この町でそれらの事件は、『実によくあること』である。駅前ではガラの悪い連中がたむろし、露出度がイカれた服を着た女達が、卑猥に腰を振りながら客引きをする、路地裏には何のテナントが入っているのかわからない雑居ビルが立ち並ぶ、陰鬱で廃れた町。ゴッサムシティさながらのその町に住む人々は、恐ろしげもなく町中を徘徊する。その町で日常的に起こっている暴力や淫行が、他の場所でも当然のように起こっているものだと信じて疑わないまま。
城鐘町の担当を受け持って一年弱になる結城だったが、さすがにここまで陰惨な被害者を見るのは、初めてではないにしろ慣れた事ではなかった。
被害者の身元は、今部下にホテル名簿を取りに行かせているため、追々わかるとしても、この殺し方は尋常じゃないだろう。被害者の荷物が無くなっていることから、物取りの犯行かと考えたが、ただの物取りならば、遺体にこんなに傷つける意味が無い。ならば、怨恨の可能性か。死体にここまでするようならば、被疑者は被害者に相当な恨みがあったのではないかと結城は思った。
そんなおぞましい死体を前にして、一人無言で考え込む彼女の後ろに、背の高いシルエットが現れた。鑑識達が動いているのを遠巻きに、結城は一人考え耽っていたせいで、突如背後に現れたその気配に全く気付く事が出来なかった。
「やぁ、結城警視。これはまた、陰惨な事件に出くわしたね」
不意をつかれたのと、この殺害現場、という状況では決して聞くことの無いはずである声に、結城は思わずヒッと声を出して身体を強張らせた。
結城の真横から、遺体を覗き込むようにして顔を出した男は、結城が驚くのを見ると満足げににっこりと笑って姿勢を正した。
背筋を伸ばした男は、この時代では、コスプレとしか思えないベージュのインバネスコートに、同色の鹿撃ち帽を被っており、口元には探偵の真似ごとか、火の付いていないパイプタバコを咥えていた。どう見ても不審者丸出しの青年の服装であるが、彼があまりにも、人間離れした容姿をしているせいで、そのコスプレまがいの服装も似合っているように見えるから、非常に厄介である。
欧米人のようにスラリと高い身長と白い肌、スッと通った鼻先に水晶のように美しい双眸。細い糸のような金髪の髪は、僅かに癖っ毛なのか、鹿撃ち帽の縁から出た髪の房はくるくると滑稽に巻かれているが、それすら似合ってしまうほどに男は美しかった。人形のように美しいとは、彼のような人間を指す時に使うのだろう、と、彼を最初に見た人間なら、全てがそう思うだろうが、生憎、結城にとってこの男の登場は、驚愕の次に不快の感情しか生まなかった。
「あ、あ、蒼井!?なんでアンタがここにいるのよ!」
「うむ、僕だけじゃないぞ!助手の榛名君も一緒に来ている!」
蒼井、と結城に呼ばれた、人形のような男が声高らかに言うと、蒼井は勢いよくホテルの部屋のドアを指差した。彼が指差した先には、黒髪短髪の青年が、白衣のポケットに手を突っ込みながら眠そうな顔で現場を見渡していた。
室内の鑑識が、彼をどう扱ったらいいか結城に助けの視線を送っている中、蒼井に声をかけられた榛名は結城を見つけて、淡白な表情で会釈をした。
「こら、榛名君、ちゃんと結城君の前で挨拶しないとだめじゃないか!」
蒼井が腕を組みながら怒ったような口調で注意すると、榛名は一つ欠伸をして重い足取りで結城と蒼井の傍まで歩み寄った。
「偉そうなこと言わないでください、蒼井さん。俺は研究明けで徹夜だって言ったでしょう。無理矢理連れてきたからには、休日出勤料は当然出るんですよね」
「うう、むむ…もちろん出すさ! 僕を見損なわないでくれよ榛名君!」
「って、そうじゃなくって! なんでアンタ達どっから入ってきたのよ! ここは一般人立ち入り禁止なのよ!?」
結城が蒼井に詰め寄る。いくら城鐘町が治安の悪い町だからと言っても、守られなくてはいけない最低限のルールと言うものがある。犯行現場に一般人は侵入不可。これは、城鐘町だけでなく、日本全国に共通したルールである。ホテルの従業員は退避させ、入口も塞いだというのに、一体この二人はどこから沸いて出てきたのか。結城は自分よりも背の高い蒼井を下から睨みつけながら拳を握りしめた。
「もちろん下の入口からだが、加えて言うなら、三波君の案内でここまでたどり着いたと言っておこうか!」
「みなみぃ…?」
蒼井の口から、先程ホテルの利用客名簿を取ってくるように使いっぱしりに出した部下の名前が出ると、結城は怪訝そうに眉を寄せた。そして、榛名の後ろのドアの縁から、顔を覗かせるようにしてバツが悪そうに笑う、短い黒髪の青年を見て結城の怒りは有頂天になった。
「ちょっと三波! どういうつもり? 一般人を現場に入れるなんて、担当があたしじゃなかったら始末書ものよ!?」
結城が、今度はごまかすような笑みを浮かべて頭を掻く長身の青年に詰め寄って問い詰めると、三波は慌てて首を横に振りながら弁解するように早口で言った。
「ち、違うんですよ結城さん! ほら、蒼井さん達って前も俺たちが手こずってた事件を解決してくれたり…してくれなかったり…じゃないですか! 俺も俺なりに、事件が早く解決すると良いなーって配慮で…」
蒼井と言う、この見た目ちゃらんぽらんで如何わしい男は、城鐘町で「探偵」という職についている、なんとも胡散臭い商売を飯の種にしている男だった。別に結城とて、探偵職業を馬鹿にするつもりはない。行方不明の猫探しや不倫調査などは、結城達警察の本分でないし、そのような相談を受け付ける探偵は世の中に必要だと考える。
しかし、この蒼井の場合は度が過ぎるのだ。気まぐれのように結城が担当している事件を覗きこみに来たり、興味本位で事件の内容を独自調査したりする。もちろん結城になんの断りも無く。
探偵は、猫や四十路過ぎても二十歳の少女なんかと遊んでいるような下衆な親父を追っかけていれば良いものを、遊び半分で事件に首を突っ込みたがるからいただけない。これは遊びではないのだ、と何度も蒼井を叱責したが、このちゃらんぽらんは全く聞く耳を持たなかった。
「だからと言って、一般人を現場に入れていいわけが無いわ。それに、探偵風情の力を借りる必要もないの。アンタ達はさっさと出て行きなさい」
「へぇ、首なし死体とは、また随分面白い事をする犯人ですね」
「聞きなさい!」
蒼井だけでなく、榛名までもが、結城の横から顔を出して遺体を覗き込むので、結城は声を荒らげて地団太を踏んだ。これだからこの二人は嫌なのだ。まったく人の話を聞かないし、人の言う事を聞こうともしない。結城の怒りはいつもから回っていた。
こうなったらもう、力づくでこいつらを、この四階の窓から外に放り出してやろうかと結城が考え始めたとき、部屋を見渡していた蒼井がぽつりと呟いた。
「死因は、撲殺によるショック死か。犯人はよっぽど被害者に恨みがあったようだね」
「……撲殺? いえ、被害者はどう見ても、頚動脈切断からの失血死じゃない。どうして撲殺なんてことになるのよ」
蒼井が呟いた一言が気になり、結城は思わず問いかけた。蒼井は、視線を結城に合わせると、うん、と頷いて答える。
「良く見たまえ。確かに、大量の血が付着しているのはそのベッドの上、ベッド付近だけだが、良く見ると部屋のいたるところに飛び散ったような血痕が付着しているだろう。」
蒼井が指差した方向には、部屋の窓と天井、バスルームへの扉、有料テレビ、至る所に少量の血痕が付着していた。どれも『飛び散った』という表現が正しい痕跡だった。
「首を切った時に飛んだ血液にしては少なすぎるし、遠すぎる。しかし、遺体には首から上以外の損傷は無い。ならばあの血痕は、頭部への攻撃時に飛び散った血痕ではないだろうか。人を死に至らしめるだけのダメージを与えられる攻撃法と言ったら、恐らく撲殺。そして凶器は、石や灰皿では無い、振り回して血が辺りへ飛び散れそうなもの、恐らく鉄パイプ、ってところだろう」
蒼井が、顎に手を当てながら、ううん、と唸って語った。
そうなのだ。この蒼井と言う、自称城鐘町のホームズを語るこの素っ頓狂な男は、見た目こそこんな訳のわからない、気狂いか何かとしか思えないカッコウをしているが、結城の担当する事件に、どこからともなく現れたかと思えば、結城の捜査に鋭い意見を提示して、またどこへともなく去って行く、つむじ風のような男なのである。
その蒼井が一般人のくせに警察の捜査に顔を出し、指摘してくる意見と言うのが、また的を得ていて、素直に『なるほど』と頷かせられるようなものばかりなので、結城の警察官としてのプライドにいつも引っかき傷をつけてくれるのだ。
なので、天の邪鬼な結城は、蒼井の推理に素直に歓声を上げて拍手まで送る三波を横目でジロリと睨みつけると、熱心に遺体と部屋を観察している蒼井と榛名の襟首を掴んで、力強く引っ張った。
「ご高説、ありがとうございました。探偵さん。それではさっさと出て行ってくださいな。ここには、貴方の力を必要としている人間なんかいなくてよ」
「ちょっと待ってくれ、結城君。僕はまだホテルの利用客名簿とやらを見ていないぞ」
「誰が見せるか! アンタはさっさと迷子の犬でも猫でも探しに行きなさい!」
結城の一喝と共に、蒼井と榛名は同時にホテルの部屋から閉め出された。三波の、申し訳なさそうな顔がドアの隙間に一瞬だけ映り、乱暴に空気を揺らしながら緋色の重そうなドアはしっかりと閉じられてしまった。『四〇八』と彫られた部屋番号の札がきらりと光り、残念そうに肩を落とす蒼井と、ぼんやりと扉を見つめる榛名が取り残された。
「うん、結城君はいつも短気でいけない。彼女はもっと、三波君のような寛容さを持つべきだと僕は思うね」
蒼井が、呆れたように溜息をつきながら腕を組んで、ヤレヤレと首を横に振った。結城がその様子を見たら、全く反省の色を見せずに言いたい事だけ言う蒼井を、有無を言わさずぶん殴っていたことだろう。榛名はそれを思って、少々残念な気持ちになった。
蒼井は、少し思い知った方が良いとは榛名も思う。
「まぁ、蒼井さんと一緒にいると、怒るのも馬鹿馬鹿しくなりますしね」
「そうだろう、そうだろう! 僕の寛大で気持ちの大きな心に触れたら、怒るのもあほらしくなるというものだ」
「ですね。蒼井さんの場合、大きいのは態度と自意識だけでしょうけど」
「ははは、そう褒めないでくれたまえ!」
褒めたつもりはないのだが、榛名の皮肉を高らかに笑いながら受け流す蒼井に呆れたような溜息を小さくついて、榛名は再び大きなあくびをして蒼井に提案した。
「とりあえず、『クー・シー』にでも行きましょうか。俺、何か腹に入れないと眠れない体質なんで」
濃い隈のある眼を向けられてしまい、蒼井は高らかに笑いながらも、申し訳なさそうにその提案を受け入れた。