二人天使
昼休み、猿飛佐助が守るゴールに、ボールが勢いよく飛んできた。
「佐助!」
仲間の声に佐助は、
「しゃぁ! 任せろ!」
力強く答え、横っ飛びにボールへ跳び付いた。運動神経には自信のある佐助だが、この時ばかりは、目測を誤った。
「ぐおっ!」
石崎くんばりの顔面ディフェンスで、ゴールネットは揺れなかったが、
「大丈夫かー?」
敵味方問わず、佐助を心配して、ゲームが中断された。
「痛っ――。ああ、大丈夫」
答えた佐助だが、生温かい、鼻水では無い鼻水が、鼻腔の奥から下がるのを直後に感じた。
「あ、ヤベ」
「ありゃりゃ、鼻血か。保健室行かなきゃな」
「くぅ、みっともねえ……。この年になって鼻血垂らすとは」
佐助は鼻血被害を食い止める為に、顔を上げて言った。
「佐助、ほら、ティッシュ」
クラスメイトの一人からティッシュを受け取って、鼻に詰める。
「付き添ってやるよ。そうすりゃ、五限目サボれるかもしれないし」
「いや、俺が付き添おう」
「いや、俺が俺が」
クラスメイト達は、自分が付き添うと口々に言い出す。彼らの五時間目の授業は、霧隠才麗の受持ちである。
結局、じゃんけんで、幸運なる者が決められた。
「チクショー! グーで来たかー!」
不幸なる者の叫びを背中に受けつつ、佐助は戸澤君と共に保健室へ向かった。
保健室のドアを開けようとして、
「戸澤?」
戸澤君の手が、止まった。と、戸澤君は中の様子に、耳をそばだてた。
「どうした?」
「いや、なんか、中入るの、危ない気がして」
「はぁ? それより、俺の方がヤバイわ」
佐助の鼻血は一向に止まる気配が無い。ここに来るまでの五分で、三枚のティッシュが、血みどろになっていた。
渋る戸澤君を尻目に、佐助はドアに手をかけ、開けた。
優に八人の男子生徒が陶然とした表情で正座をしているのが、まず目に飛び込んできた。
「っ!」
ぎょっとする佐助と戸澤君。次に飛び込んできたのは、耳にだった。
「『あんたなんかに!』
ナオミは官能の疼きに身を悶えながらも、アキラを罵った。ずっと、見下してきた男へ、僅かな、だがすぐに壊れるプライドを持って。
『流石は、学園のアイドル様だ。でも、こっちは素直だぜ?』
ニヤッと、薄く笑ったアキラは、指をナオミの顔の前に持っていった。
『ほら。みてみろ。こんなになってる』
『いや――』
アキラは容赦が無かった。左手でナオミの顔を掴んで、背ける事が出来ないようにすると、執拗なまでにナオミの――」
「何やってんだ……?」
意識を回復した佐助が口を開いた。
「なっ!? 何奴!」
ドアが開いたことにすら、気付いていなかったらしい。八人は腰を浮かし、明らかに狼狽した。
「俺達の秘密集会を知ったな! 貴様!」
「は?」
「あら? 佐助?」
と、カーテンに仕切られた奥から、由利詩来が、顔を出した。
「詩来……お前何やってんだよ」
「うん。週に一回の朗読会」
詩来は艶然と微笑んだ。
「朗読会??」
「佐助も参加する? 五百円ね。って、やだ、もう興奮しちゃってるの?」
「違う! これはサッカーしてて! てか! 今後やめろ! 品性が問われる!」
「誰が、誰に?」
「え……? いや、それは……とにかく! やめろ! いいな!?」
かなり強い語気で佐助は通告し、詩来も、
「結構なお小遣い稼ぎになってたんだけどな」
渋々承諾したものだが、
「やめないで下さい! 詩来さま!」
「週一回、月曜日に詩来さまの御神託で、俺達は一週間を生きられるのですぅ!」
男子八人、大号泣。てか、御神託て。
「お前らにとって、コイツは女神かなんかか?」
「何を言う! 詩来さまは俺達の天使だ!」
――女神と天使って、女神の方が格上だよな……?
佐助だけでなく、戸澤君ですら、そう思った。
「世の中、需要と供給で成り立ってるしね。やめるわけにはいかなくなっちゃった」
詩来は言ってのけた。
「五百円か……」
戸澤君は拳を口に当てて、真剣そうであった。
「しっかりしろ戸澤! ……先生! 根津先生!? 居んだろ! 先生からも……」
――ちょっと待てよ? 年中無休のアル中保険医に言ったところで、無駄なんじゃねえか?
保健室の主の人となりを思い返して、佐助は言葉に詰まった。そこで気付いたのだが、根津末広保険医は、どこに行ったものだろう? パッと見、見当たらない。デスクにも居ない。
「末広先生なら、そこに」
詩来は、自分が腰掛けているベッドの隣を指差した。佐助が近付いて、ベッドのカーテンを開けると、えもいわれぬ臭気に見舞われた。
「うっ! 酒臭っ!」
ウィスキーの大瓶を抱えた末広が、横になっていた。
「酔っ払って寝てるわ」
「……見りゃ分かる」
――コイツ……よくクビにならんよな。
佐助の胸に去来する疑問。いつの間にか、鼻血は止まっていた。
だが、五時間目の才麗の授業はサボった。
そして、翌週から、月曜日になると戸澤君は、昼休みに姿を消すようになった。