第3章
母様が家を出て行ってしまってからというもの、会話の絶えない賑やかな家庭だったというのに、シンと静まり返るようになった。
一週間後、弱った体を人様に見られたくないと言ってあまり外出しなかった父様が、杖をついて姉様達の職場を周った。
そして、自分の身体はご覧の通りで自転車の修理などとてもできないから、どうか自転車の修理は買った店へ持って行って欲しいと頭を下げた。
付き添いで一緒に行った私も同様に頭を下げた。
体の悪い老人(見た目)と幼い少女に頭を下げられ、今まで姉達に他所で買った自転車をただで修理させていたと思われる図々しい人達は、気まずそうな顔をしていた。
何故か私は、お菓子やクレヨンや風船などを色々もらって帰路に着いた。これまでは誰かから何かを貰おうとすると
「人様から物などもらうな、みっともない」
と言っていた父様が、何故か何も言わなかったからだ。
私は父様に合わせてゆっくりゆっくりと歩いて行くと、聖堂の高い塀の前に通りかかった。
ここで少し休もうと父様が言ったので、道路沿いに並んでいるベンチに二人で腰を下ろした。見上げると桜の花が満開になっていた。
「綺麗だな」
父様が呟くように言った。凄く寂しそうに。
だから私も「うん」と小さく答えた。桜の花は綺麗すぎてそれが余計に悲しくなった。
去年は家族全員でこの桜を見に来た。
ううん、去年だけでなくて毎年。
一番上のサーラ姉様が生まれた翌年から、我が家では聖堂の前でお花見をすることが恒例になっていたからだ。
この国にはお花見という言葉はない。遠い東の国の国民的慣習らしい。
父様が王都で騎士団に入っていた時、母親がその東の国の出身だという同僚がいたらしい。
その人は春になると必ず、桜の下で宴会をしようとみんなを誘ったらしい。それが自分の国の習慣だったからと。
父様が母様と結婚式を挙げた時、聖堂の周辺は淡いピンク色に染まっていたそうだ。
それはまるで自分の新妻の頬のようだった。
「周りが明るく光り輝いていて、まるで自分達の未来を暗示しているようで、幸せな気分になったんだ」
以前父様は少し照れながらそう私に話してくれた。
そしてその時、かつての友人の話を思い出して、来年はここで妻と花見をしようと思ったのだそうだ。
まあ実際は、その翌年の花見の時はすでに家族が一人増えていて、思い描いていたその情景より何倍も楽しくて幸せな時間だった、と父様は言っていた。
「俺は家庭というものを知らなかった。だから結婚して子供ができて、初めて幸せな家庭というものを知った。
そしてその幸せは、子供が次々と生まれてくるごとに増していった。
私は幸せだった。それなのに何故その幸せを守れなかったのだろう。いや守らなかったのだろう。
私にとって、何よりも大切なのは家族だったのに。
家族を守りたいから他人に尽くした。そうすればいざという時、周りが家族を守ってくれると思ったからだ。
それなのに、それは間違いだったのだろうか」
私は父様が泣くのを初めて見た。あの時の私には、父様の言っている意味がよくわからかなかった。
母様が出ていってしまった理由も、父様が何故こんなにも憔悴しているのかも。
リーラお姉様とツーリィー兄様、そしてターリャ姉様は、父様が悪いと言って怒っていたけれど、私はそれを
もちろん母様を叩いたり、大きい兄様のことで母様を泣かせたことは酷いと思っているけれど。
父様は無口であまり家族とは話をしなかったけれど、私と二人きりの時はよく話をしてくれた。体を壊してから余計に。
もしかしたら私にならどうせ何を話してもわからないから、誰にも話せずにいたその思いを吐露していたのかもしれない。
父様にとって私はいつまでも幼い子供のままでいる存在だったのかもしれない。
実際の私は結構おしゃまで、同級生の誰よりも大人びていたと思うのだけれど。
私は父様が好きだった。そして母様も。だから貧しくても前のようにみんなで楽しく暮らしたかった。
でも、それを父様には言えなかった。
だって幸せだったのは父様と私だけで、母様や姉、兄様達は違ったみたいだから。
家を出てから一月後、母様は二番目の姉のリーラ姉様と一緒に家に戻ってきた。
母様はリーラ姉様の勤め先である洋品店の高級婦人服売り場で働くことになったからだ。
母様は元々この辺りでも名門と呼ばれる家の出だった。母様のお祖父様までは男爵だったらしい。
そして母様は若い頃からその美貌でかなり有名で人気があったそうだ。
その上貴族並みのマナーを身に付けた立派な淑女と評判だったらしい。
それ故に、リーラ姉様が上司の方にどこか良い仕事先はないかと相談したところ、是非ともうちで働いて欲しいと言ってもらったのだという。
高級な婦人服を売るのだから、上流階級の客でも相手にできる妙齢な女性がいいからと。
ただし
「離婚歴がある女性はたとえ相手の有責で別れたとしても、色々と悪い噂が立ちやすくなるから雇いにくい。
それはうちでなくてもそう言われるはずです。だから、離婚はよく考えた方がいいですよ。
娘さん達の縁談にも影響があるだろうし」
そう上司に言われたそうだ。そして彼は言いにくそうにこうも言った、いや言ってくれたそうだ。
「ご家庭の事情に口を挟むつもりはありません。
しかし、貴女が体の不自由な夫を捨てた冷たくて薄情な女などと評判になったら、傷付くのはお子さん達ですよ」
と。
それで母様は帰ってきたみたいだった。理由はともかく姉様も兄様も、そして私もとても嬉しかった。
母様は私を抱きしめながら、学舎を休ませて父様の面倒を見させてしまってごめんねと、泣いて謝った。
それに対して私は、自分が好きでしていたのだから気にしないでと言った。
だってそれは本当のことなんだもの。私は虐められていたから、学舎へ行きたくなかったのだ。つまりずる休みをしていたのだ。
だって、虐められているなんて、ただでさえ辛い思いをしている家族には言えなかった。
もちろん心配をかけたくないという気持ちの方が大きかったが、自分のことが情けなくて、惨めな姿をさらしたくないというのも正直な思いだった。
母様にはこれからどんな言い訳をしようかとずいぶん悩んだのだけれど、それは無用な時間だった。
なぜなら母様が戻ってきた翌朝、私は二つ年上のターリャ姉様に無理矢理、まるで散歩を嫌がる犬のように引きずられながら学舎へ連れて行かれたからだ。
しかも普段よりもかなり早い時間に。




