第2話 社交会デビューに向けての厳しいマナーレッスンから逃げ出したい
エリーサベト・モルベリの18歳の誕生日会兼婚活でもあった舞踏会は無事、相手を見つけることなく、一夜を明けていた。
ステンドグラスの窓の向こうでは5羽の純白の鳩が大空へと飛び立っていく。
ベッドの上で背伸びをすると、家庭教師のザンドラ・ピーロネンはオフホワイトのブラウスと黒のパンツスーツを着て、こちらをじっと睨んだ。何かを言いたそうにしている。
「な、何よぉ。朝からそんな睨みつけないでよぉー」
「おはようございます。エリーサ」
幼少期からの家庭教師であるザンドラ・ピーロネンは機嫌が悪いと眼鏡をクイッと上げて、略称のエリーサと呼ぶ。今日の個別指導は正式な社交会デビューに向けてのマナーやエチケットを徹底的にするという話であった。朝食も着替えも、まだ済んでいない中でのこの睨みっぷりに何だか落ち着かなかった。
「お、おはよう!」
エリーサベト・モルベリは、慌てて侍女のマーナと一緒にベージュのコルセットビスチェを着始める。本当はボーイッシュな格好をしたいところだが、ドレス着用が必須のため、許されない。
「そうそう。急いで着替えましょうね。これから、色々と昨日の反省と改善を話し合って行きましょう」
「え、ちょっと待って。ザンドラ! 昨日の反省ってどういうこと? 何か指摘することが山ほどあるってことかしら? ――ぐふぅ!」
マーナにきつくコルセットを締められて、一瞬苦しくなったが、ぐっと堪えた。
「ええ、ええ。言いたいことは山ほどありますわ。母上様がご存命でいらしたら、私よりも書類が重なるくらいになるかもしれませんよ。私だから、緩く、そして優しくできるんですからねぇ」
「そんな、ま、まさか! ザンドラの言われた通りのマニュアルを参考に行動していたつもりだけど……一体どこがダメだったのかしら。ねぇ、マーナ。私間違ってなかったわよね? ね?」
インナーからドレスまで着替え終わると、マーナに問い詰める。
「そ、そうですね。私にはそういうの存じ上げませんからぁー。ごめんなさい。失礼しますぅー」
エリーサベト・モルベリの侍女マーナは、白いシュシュをパーマかかった茶髪をまとめて、白いエプロンを着用していた。今朝の仕事を終えると、ささっと仕事道具を持ちながら、部屋を出て行った。ドレッサーの近くで今日のマナーレッスンの本を確認していたザンドラ・ピーロネンは、軽く会釈してマーナにお礼をした。ここからはエリーサベト・モルベリとのマンツーマン指導と変化する。首をグルングルンまわして、ストレッチしていた。何だか、恐怖を感じたエリーサベト・モルベリは忍者のように横歩きして逃げようとする。
「エリーサ、どこに行かれるのですか? まさか、レッスンを受けたくないとおっしゃらないですよね?」
「……えー? そんなぁ、まさか。私、そんな人に見えるかしら?」
「えぇ、えぇ。昔からの付き合いですから、貴女がこれから何をしようとしてるかくらいお見通しですよ! キュリアクス!!」
廊下でガードマンをしているキュリアクス・ゲウサが、ぼんやりしていた気持ちをシャキッと切り替えて、部屋の前に立ちはばかった。エリーサベト・モルベリは今か今かと逃げ出そうとする気満々だったようだ。
「逃がしませんよぉ!」
部屋の内側からと外側からとはさみ打ちで身体を抑えられるエリーサベト・モルベリは、両手に長いアクセサリーを付けられた。ピンクのダイヤモンドが散りばめられたペンダントとも違う。まるで手錠のようなものが両手に付けられるとは思っても見なかった。
「うわーん。こんなの拷問よぉーー」
「何をおっしゃいますか。とてもとても綺麗なアクセサリーですよ。可愛いです。さぁ、この本をじっくりご覧なさいませ」
「……何だか、私は騙されている気がするんだけど、気のせいかしら」
「いーえ、全然騙されていませんよ。誰が詐欺師ですか」
分厚い本を渡されたが、文字が多くて読むのが嫌になってくる。エリーサベト・モルベリは、人差し指をしっかりとザンドラ・ピーロネンの顔面に向けた。それを手のひらに包まれて制御されてしまう。
「なんと、まぁ。マナーがねぇ。お上手ですことぉー」
「でしょう?」
「…………」
円満の笑みで答えるエリーサベト・モルベリにザンドラ・ピーロネンの額にはたくさんの筋ができていた。扉の前に逃げ出さないよう見張りをしていたキュリアクス・ゲウサは何も言うこともできなかった。二人の戦いは日常茶飯事で驚くこともない。
エリーサベト・モルベリはザンドラ・ピーロネンとともにそんな風に過ごしながら、教養を身に着けるための訓練をしていた。果たして、誕生日会の指摘する箇所というものはどういうものだったのか、誰にも教えなくないくらいの量で頭から煙が出そうになり、外の光が無くなる時間まで指導が続けられたのであった。
エリーサベト・モルベリの今日はなぜか、ものすごく時間の進みが長かった。
夜空に月の光が輝く中、ふくろうの鳴き声が聞こえるくらいまでザンドラ・ピーロネンの厳しいマナーレッスンが行われていた。




