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「アノス様!」
「ふたりとも無事か?」
「無事?そんなことを言ってる場合ですか!」
月鼠の船上でリリアナが急ぎアノスの元まで駆け寄る。その理由は止めどなく溢れる血液と鬱血して最早黒ずんでいる片腕を見たからだった
「ダメです!回復も、もう」
「アノス様!おやめ下さい」
「ダメ、だ。まだ仕事が残ってる」
心配する2人を他所にアノスは船団を扇動し始めた
「おやめ下さい、アノス様!」
「アノスさん!」
「…」
軋み、砕けていく船舶の数々、海に落ちていく貴金属は船の言わば骨や肉。皆が崩れていく船舶に不安を覚える中、リリアナとシルビアはアノスを止めるに止められずにいた
数十人の命とひとりの腕の天秤は惨たらしくもその重さを2人は分かっていた。アノスのその行動は正解であり不正解だった
◆◇◆◇◆
「え?」
「あれ…」
「新しいお船さん!」
朝日に誘われ港に集まる住民が目にしたのは誰もが記憶の片隅にすらない、ハリボテの記憶の一部───『月鼠』率いる『猫の手』それと『60級』だった
焦り、不安で震える2人と対照的に上がる歓声、鳴り止まない拍手、興奮に震える空気。その裏でまだかまだかと2人は怒りすら覚えていた
出迎える町民と安堵を浮かべる冒険者が悠長に岸へとへたり込んだり、抱き合ったり、語り合ったりする中、ついにリリアナが叫んだ
「早く退けよ…バカ!」
「…?っ!」
静まり返る住民、言い返そうかと思ったひとりが前に出た瞬間、血の気が引きその場で尻餅をついた
新しい船に興味を持った童が前に出ようとするのを抑えた親族を含む住民は最後の最後に降りてきた3人を見て言葉を失った
◆◇◆◇◆
皆一様に姿勢を保てなくなった
華やか、模様に見えたそれは『傷』であり、降りてきた者達が操縦していたとばかり思っていたそれは『たったひとり』が『操り』さばいていたことに皆が気づき
新しいのではなく『忘れていた』だけの『亡霊』の帰還、縁の下の力持ちの『風前の灯火』の虫食いだらけの枝に言葉を失った
「もう、誰もいませんね」
激昂したメイドとは対照的に泣きべそをかく子供をあやす様な優しい声色で少年が言った。小指に掛かるたった一本の糸
意図してか、無意識か、或いは必然か、当然か、糸が音を立てて『プツリ』途切れた瞬間。耳を叩き潰さんとする騒音が港を超え、町の隅々まで響き渡った
「良かっ、た…」
ちぎれた小指を見つめる少年は目の焦点が合わなくなると同時に真後ろへと倒れ込んだ




