偽善
抱き合う二人。
あの温もりは、今でもはっきり覚えている。
シーツがかすかに擦れる音。振り返った優香の瞳は、こちらを向いているのに、焦点はどこにも合っていない。
ベッドの上、灯りは落としてある。カーテン越しに、街の気配だけが微かに流れ込んでいた。
優香は仰向けのまま、天井の代わりに空気の高さを感じている。
「……起きてる?」
「うん。君の呼吸が、少し速いから」
彼女は小さく笑った。
「さすが。見えてるみたい」
「長年の勘です」
しばらく沈黙が落ちる。
掛け布団の重さと、互いの体温だけが、確かなものとしてそこにあった。
「ね」
優香が、静かに言った。
「今日、あの子に言われたの」
「うん?」
「“先生の声、安心する”って」
俺は、一瞬だけ言葉を失った。
「……それ、すごいことだよ」
「そうかな」
優香は胸の上で指を組み、ゆっくりと言葉を探す。
「前はね、誰かに何かを“見せたい”って思ってた。絵とか、成果とか。ちゃんと形になるもので、自分を証明したかった」
彼女は一度、息を整える。
「でも今は……教室に入ってきたときの足音とか、声の震えとか。そういうのに気づけるようになった。見えなくなった分、怖がってるのが、前より分かる気がする」
俺は、そっと彼女の手を握る。
強くはしない。ただ、離れない温度で。
「夢、なくなったって思ってた?」
「思ってたよ。正直」
優香は少し間を置いて、続けた。
「でも違った。夢って、“なるもの”じゃなくて、“誰でいるか”なんだって。前に立って教える人じゃなくてもいい。隣に座って、大丈夫だよって言える人でいたい」
その声は、揺れていなかった。
「今日のあの子の言葉でね、少しだけ思えたの。……私、この道でいいんだって」
「君はさ」
俺が言う。
「失ったものの話をするとき、いつも優しいよね」
「だって」
彼女は、俺の指を軽く握り返した。
「全部が敵じゃなかったから。見えなくなったけど、あなたの声は前より近い。子どもたちの声も。夜も、もう怖くない」
言葉の代わりに、俺は彼女の額に、自分の額をそっと寄せた。
「じゃあさ」
「うん?」
「これから先の夢、二人分で考えよう」
優香は少し驚いたあと、柔らかく笑った。
暗闇の中で、呼吸が重なっていく。
未来は相変わらず見えない。
それでも――彼女はもう、教える人としてではなく、寄り添う人として、確かに前を向いていた。
* * *
「高梨くん」
俺は彼の声に起こされ、目をゆっくり開ける。目の前には古びた喫茶店内。
扇風機が弱々しく回り、コーヒーの香りが濃く漂う。風情ある茶色い木面で部屋に温もりを感じさせてくれ色合い。
隣の席には、白い肌が強調された、優しい印象を与える男性が佇んでいた。病室に来てくれたあの男だ。
鼻が高く、女子受けの良さそうな美形がくっきりと輪郭として目に映る。
「そろそろ来る時間のはず・・・」
携帯画面に示された時間は13:04
4分遅れてる。
その時、あの呑気な男が現れた。
「いや〜遅くなって悪いね〜」
30代半ばの男性。髭の剃り残しを抱える口元。色合いは比較的綺麗な服だが、ヨレヨレとしている。
以前と変わらない。
隣に顔を向け
「この方がジャーナリスト・十川さんです」
そして十川さんには、
「この方は、過去に人助けサークルに所属されていた鷹野陽翠さんです」
と自己紹介しあう。
「高梨江さん、もう退院されたそうでよかったですよ〜〜」
「え?なんでそのこと・・・」
「え?私があなたのために救急車呼んだの、覚えてない?しょ、ショック〜〜〜!!!」
とサングラス越しからもわかる驚きの感情。
オカマ具合が含まれる十川の声色。
「キッショ!!」と心で叫んだ。
* * *
話は本題に入る。
「で!!大学内の情報集めてくれましたか?なんでも些細なことなんでもいいんです!!」
十川の声が、場の空気を一気に引き寄せた。彼はアイスコーヒーを一口含み、氷の溶ける音を待つように、ゆっくりと身を乗り出す。
「折り鶴連続強盗殺人事件。被害者の手元には必ず折り鶴が残されていた。……その意味を考えたことは?」
「……いや」
短く返した俺の言葉を、彼は想定内だと言わんばかりに受け流す。
「私もわかんないです。でもね、でも折り鶴が置かれていた現場5件の容疑者の共通点が見えてきたんです」
彼は年季の入ったメモ帳を取り出し、ページをめくる音をわざと聞かせるようにして、ゆっくりと読み上げた。
「1件目、橋本和人。青島大学在学。2件目、斎木悠人、鶴宮大学卒業してまだ新卒。3件目、坂下竜介、第一大学中退。4件目・・・」
全員、ほぼ大学生。大学生ぐらいの年頃が多かった。
それだけでも十分に異様だが、さらに浮かび上がるのは、複数の大学を横断する共通の名前だった。
――A.C.T。
「あなたのサークルは、いろんな方の依頼を受けているそうですね、それも他大学まで。素晴らしい活動じゃないですか〜」
語尾だけが妙に軽い。
皮肉を塗り込めたその笑みが、妙に腹立たしい。そう感じながらも、話は止められなかった。
「あなた、何か噂を聞きません?」
十川の問いに、俺は無意識に隣へ視線を向けていた。
「私は・・・1期のサークルメンバーです。聞きたいことは私が答えます」
静かだが、迷いのない声。十川も私の隣にいる鷹野さんに視線が移る。
「鷹野さんでしたっけ? なぜこのようなことが起きるのか心当たりは?」
「顧問が関係しています・・・どのようにかは・・・うまく説明できませんけど、あの人の正義感がみんなを狂わしたんです」
「顧問?」
「犯罪心理学の杉田圭太教授・・・彼から全てを奪いたいんです。そのためにあなたの力をかしていただきたい」
空気が、張り詰める。
十川の表情が、ほんの一瞬で変わった。
「・・・ただで私が協力すると?」
「あなた、折り鶴連続強盗事件を調べてるんですよね?杉田圭太はその事件にのめり込んだ人物でもある、何か話が聞けると思います」
好奇心に火が点いた目だった。
獲物を見つけた人間の、それだ。
* * *
私――咲白杏奈は、ナイフを持った男が追いつけない距離まで、無我夢中で走り続けていた。隣には星野舞さん。
肺が悲鳴を上げ、呼吸はほとんど過呼吸に近い。
命を狙われるという現実が、身体をここまで追い込むのだと、初めて知った。
ふと立ち止まり、俯いたままの星野さんの顔を、私は半ば強引に上げさせた。
「な、なんで!!あんな危ないことしたの!?」
荒い吐息が、互いにぶつかり合う。
「もう・・・知ってる人を・・・失いたくないので・・・」
その言葉で、掴んでいた服から手を離した。
あの事件のことだと、すぐにわかった。
「空手か柔道してたの?」
「4段を・・・」
「4段?それって強い方なんじゃ・・・」
「いえ、本番だと使い物になりませんよ・・・」
呼吸が、少しずつ整っていく。
二人は無言のまま、人目のある場所へ向かうことを選び、一般人も入れる公式の図書館へ足を向けた。
図書「館」という名に偽りはない。
幾層にも重なる本棚の間を、受験生、大学生、中年の男女、親子連れが静かに行き交っている。
けれど、私たちは本を読むために来たわけじゃない。
身を潜めるためだけの場所。
サークルの闇を調べる気力も、ページをめくる集中力も、すべて削がれていた。
「深入りするな」
そう言われている気がして、胸の奥が冷たくなる。
一階の休憩室で、私は力なくベンチに座り込んだ。
自販機から戻ってきた星野さんが、少し距離を取って隣に腰を下ろす。
彼女の表情が、次の行動を促せない空気を雄弁に語っていた。
沈黙。
ただ静かな時間だけが流れる。
そのとき、ガラス越しに映る光景が目に入った。
――小さな公園。
半袖半ズボンの子供たちが、何も知らずに笑いながら走り回っている。
ああ、今は夏休みの真っ只中だった。そんな当たり前のことさえ、忘れていた。
私は、誰かの幸せを守っているつもりだった。
でも現実は、何一つ守れないまま、立ち尽くしている。
「私・・・サークルやめようかな・・・」
独り言のような声。それでも、隣の星野さんには届いていた。
「・・・」
「私誰も救えていない。宮崎優香さん・・・斎藤ルカさん・・・そして・・・時島くんのことも、根本的な解決はできないまま・・・」
「・・・意味ないでしょ」
はっきりと、切り捨てた星野さん。さらに言葉を続けた。
「こんな偽善サークルなんて、できることは限られている。誰かを救えたなんて映画だけの話です・・・」
言葉は鋭い。けれど、冷たさだけではなかった。
「でもです、誰かがいないと何もできない。それが人間です・・・私・・・高校入学後すぐ、ストーカー被害にあったんです。やめてって言っても女の私では到底敵わなくて・・・てか怖くて・・・悔しくして空手教室に通ったんです。これは自分の身を守るためだって・・・」
私はただ、聞くことしかできなかった。
彼女の過去が、静かに、しかし確かに胸に染み込んでくる。
「それでその後・・・どうなったの?」
気づけば、そう尋ねていた。
フッと、小さく笑う星野さん。
「電車で痴漢しようとしたそいつの手、へし折ってやりました」
言葉を失う私。
この人には、何度も驚かされる。
少し話し過ぎたと感じたのか、彼女は一度、口を閉ざす。
「つまり言いたいのは・・・私を救ったのは周囲の人間じゃない。空手教室の先生でもない。私自身なんです・・・でも私が相手を倒せたのは、周りが手段を与えてくれたから」
その瞬間、視界がひらけた気がした。
今日ずっと薄暗く感じていた雲さえ、私の心の変化を感じ取ったかのように。
眩い光が図書館の一階に一筋の光を照らし始める。
「手段・・・」
「そう手段・・あくまで私たちは依頼人って奴が、前を向く手段を与えているだけ・・・それ以外のことなんかクソくらえですよ、学生なんかに期待するな!!ですよ」
何がおかしかったのか。
いや、何もおかしくなんてない。
それでも私は、腹の底から笑っていた。
「あははは!!!星野さん!!笑かさないで!!!」
「本当・・・変な人です」
そう呟く彼女の声は、もう遠くには感じなかった。
* * *
午後の喫茶店は、コーヒーの香りが最もよく馴染む時間帯だと思う。
昼の喧騒が引き、夜の気配にはまだ早い。その中間に漂う、少しだけ気の抜けた空気。
図書館の正面にある、初めて入る店だった。
気分転換、という言葉が一番しっくりくる理由で、私たちはそこに腰を落ち着けた。
木目のテーブルに置かれたメニュー表は、四隅がやわらかく丸まっている。
何度も手に取られ、めくられ、選ばれ続けてきた痕跡。
この店が積み重ねてきた時間が、そこに残っていた。
「ねえ、まだ決めてないでしょ」
私――咲白杏奈は、そう言いながらメニューを星野さんの前へ滑らせる。
「種類多すぎです」
星野さんはページをめくり、わずかに眉を寄せた。
「ブレンド、深煎り、浅煎り、期間限定……」
文字を追う視線に、真剣さがにじむ。
私は自分の迷いのなさを示すように、アイスコーヒーの欄を指でなぞった。
「私はいつもブレンド。失敗しないから」
「安全志向」
「安定志向」
短いやり取りに、空気が少し和らぐ。
星野さんはなおも悩み続け、最終的にキャラメルラテへと辿り着いた。
「甘いやつにします。今日は」
丸をつけた指先が、今日という一日の気分を確定させる。
注文を終え、二人はほぼ同時にメニューを閉じた。
カウンターの奥から、豆を挽く音と、湯を注ぐ控えめな音が聞こえてくる。
喫茶店特有の、安心するリズム。
「そういえばさ。この前、大学近くの喫茶店あるじゃん?期間限定のチーズケーキ逃した」
「え、あれもう終わったんですか?」
「うん。気づいたら」
星野さんは、ほんの少しだけ口元を緩めた。
残念というより、仕方ないと受け入れるような笑みだった。
「でも、メニューって残酷ですよね。
“いつでもある”って思ってると、急になくなる」
その言葉は、コーヒーよりも苦味を含んでいた。
私は、考えすぎないように、ぽつりと返す。
「逆に、ずっと残ってるやつもあるじゃん。ナポリタンとか、プリンとか」
「安心枠」
「そう。派手じゃないけど、気づいたら頼んでる」
運ばれてきたカップから、白い湯気がゆっくりと立ち上る。
私は砂糖を入れず、ミルクだけをたっぷりと注いだ。
色が変わるのを眺める、その一瞬が好きだった。
「将来さ・・・私たち、どんなメニュー選んでるんだろ」
「限定品に並んでるかもしれないし、定番に落ち着いてるかもしれない・・・ですね」
星野さんはキャラメルラテを口に含み、目を細める。
甘さが、今日の疲れを静かにほどいているようだった。
「でも、今日これ選んだことは、わりと正解です」
「甘すぎ?」
「ちょうど良きです」
私たちは急がない。
冷めていくコーヒーと一緒に、
答えのない話を、ただゆっくりと味わっていた。
嵐前の静けさ




