交渉
私(咲白杏奈)は、困惑という言葉に収まらないほどの混乱に沈んでいた。
ついさっきまで整理できていたと思っていた思考が、いまはぐちゃぐちゃにほどけ、掴める端すら見えない。
目の前に立つのは、時島くん――そして、彼をいじめていたはずの佐伯くん。
その二人が、まるで何事もないかのように肩を並べている。
「何で・・・どういうこと?」
問いは空に吸われ、返ってくるのは頬を撫でる夏風だけ。その沈黙を破ったのは、低く押し殺した声だった。
「ずっと僕のこと、嗅ぎ回ってたんですか?」
声色は優しいのに、言葉の端が刃のように鋭い時島くんの言葉。
たった一言で、私の足は中学生相手だと忘れてすくみ上がる。
視線が合った瞬間、胸を貫いたのは、年齢に似つかわしくない強固な意志の光だった。
「警告しときます。これ以上僕たちに関わらないでください・・・もし、邪魔するようでしたら、大学側に訴えます」
喉が詰まり、息の仕方さえ忘れそうになる。
それでも、ここで引き下がるわけにはいかない。
「じゃあ、教えて。なぜ二人がこんなところに? 私の質問に答えてくれたら、邪魔しない」
時島くんの眉が、一瞬だけ揺れた。
迷いにも、ためらいにも見えた。でもすぐに氷のような無表情が戻る。
「話すわけない。あなた方が不利なのはわかってるはず。この痣だって、あなたたちにやられたと言えばいいだけ」
胸が締めつけられる。どれだけ話しても状況は悪化するだけ。時間が残されていないことが、じわじわ心を蝕んでいく。
私は静かに目を閉じた。
「わかった」
背を向けると、二人の視線がじっと私たちの背中を追っているのが分かった。
何も言わず、ただ見届けるように。歩き去りながら、疑問が頭を渦巻く。
本当に二人はグルなのか?でも、それにしては不自然すぎる……
考えれば考えるほど、霧が濃くなるだけだった。
「ねえ!!!」
突然、車道から鋭い声が響いた。
聞き覚えのある声。振り向けば、車の窓から顔を出す杉田真央さん。風が彼女の髪を軽く揺らす。
嫌な予感も、安心も、胸の中で入り混じった。
* * *
車内に入ると、外の騒音は嘘みたいに消えた。
運転席では真央さんが慣れた手つきでハンドルを操作し、窓から流れる景色に沈黙だけが広がる。
後部座席の私と星野さんは、互いに言葉を失って外を眺めていた。
「お兄さんに頼まれて来たの」
「お兄さん?」
星野さんが勢いよく前のめりになる。
「あ、星野さんはまだ私に会ったことがなかったね。私は学生課スタッフの杉田真央。顧問の杉田圭太は私の兄なの」
「え!!」
車内に響いた星野さんの大声に、緊張の糸がわずかに緩む。
「あいつ、投げやりな感じだけど、実は誰よりもあなたたちのことを気にかけている。こないだもどうやって、あなたたちが安全に、人助けサークルを続けられるか考えていたらしいよ」
胸がほんのり熱くなった。反発ばかりしていた気持ちが、夏の夕暮れみたいにじんわり溶けていく。
けれど私は反射的に言った。
「でも、嫌い」
途端に真央さんは大笑いした。
「いいよいいよ、私もあいつのこと大っ嫌いだから」
その明るさにつられて、心の重石がスッと軽くなった。
* * *
静まり返った大学の部室の中、私(杉田圭太)は録画されたビデオを再生した。
時島と佐伯。その二人が画面に映っている。最初のタイムスタンプには咲白と星野の姿もあった。
だが二人が帰ったあとも、録画は淡々と続いていた。
その中で、佐伯が突然、時島を殴り始めた。
止めに行くべきだった。それが大人として当然の行動だ。
だが――今は真実を知らなければいけない。この異様な関係の理由を。
私は音量を上げる。
かすれた怒鳴り声が耳に突き刺さった。
「お前は!!! 報いを!!! 受けるべきなんだ!!!」
時島はただ立ち、殴られ続ける。
蹴りが腹に入り、背中を床に打ちつけても、表情一つ変えない。
泣かない。怯えない。抵抗もしない。どうして…?
胸に打ち寄せる違和感が、やがて確信に変わる。
私は勢いよく立ち上がった。
まさか――
* * *
翌日。英語講習日3日目。
私(杉田圭太)は、時島の担任であり大学時代の後輩である間宮にあるお願いした。
今は、空いた別教室の席で座り込んでいる。
一瞬で熱中症になりそうな眩い光。窓越しからでも伝わり、どこからか学生たちの部活する声が聞こえてくる。
その時、教室の扉が開く。
間宮だ。彼の大人しい雰囲気と共に引き連れてきた相手こそ・時島。
静かであるけれど、冷たさもある視線が突き刺さる。
「ここに座って」
間宮先生の言われるがまま、指定された席へと腰を下ろす。
「話ってなんですか?」
時島の一言から始まる本題。
「その痣のこと、聞かせてくれないか?」
「なんのことです?」
「痣、それは誰にやられた?」と指さしてまで、揺さぶる。
時島は何事もないかのように、後ろで見守る間宮先生へと目をやる。
「こんなことするために、わざわざ呼び出したんですか?」
「お前、その痣がいつからあるか知ってるか? もう2ヶ月目に入るんだぞ? 何も思わないのか?」
と感情混じりの叱責が加わる。
しかし、時島の顔は崩れない。静かにただ冷たい目で下を俯く。
私は、彼の前にタブレットを突き出した。その時、虚ろで輝きのない瞳は大きく見開いていく。
「悪いが、君の後をつけさせてもらった」
動画の先で展開される光景。時島は大人しく佐伯の暴力を受け止めていた。目の前で見せていた澄まし顔と全く変わらない。腹部に蹴りを受けると、静かに倒れ込む。だがふっと立ち上がり、また佐伯の拳を腹で受け止める。
「何か脅されてるのか?」
低く暗い声が教室の中を緊迫させる。だが彼は何も口を開かない。分かるのは、大きく目を見開いたその眼差しだけ。
その時ふと声を上げた。
「脅されてない・・・これは自分の罪」
俺は深く刻んだシワと共に、聞き返した。
「自分の罪・・・?」
「僕の父親が行った不正のせいで、多くの家庭が苦しんでる。僕はその償いを受けるべきなんだ・・・」
と自分の痣を指でなぞる。
俺は言葉が出なかった・・・15歳の学生から出る言葉じゃなかった。大人びた印象は持っていたものも、その揺るがない覚悟は、虚ろな目の奥から伝わっていた。
「それだけじゃないでしょ」
扉の開閉音と共にあいつの声が聞こえた。時島もその声に聞き覚えがある顔つきを見せる。振り返らず、ただ狼狽えている。
「あなた・・・痛みを感じないのでは?」
「え・・・」とみんなが口を揃える。
図星か。左右を行き来する動揺の視線が目に焼きつく、さらにいつも騒音に近い蝉の声さえ、彼に注目するかのように静まり返っていた。
「自身が痛みを感じないからこそ、誰かの気持ちを理解できなくなるのが怖かった」
「うるさい・・・」
震えた声で、込められた静寂の中の怒り。俺は・・・ただあいつが貫く信念を見届ける為に、これ以上は口を閉ざした。
目線を合わせるように膝をつく咲白の姿勢。
まっすぐな眼差しで、時島を見つめる咲白杏奈。
「あなたが全部背負う必要ないの」
寄り添うように時島の手を握る手は、あったかいのだろう。静かにこぼれ落ちる涙の線から苦しそうな声を上げ始める。
「僕が苦しまないと・・・」
「それで佐伯くんの心は晴れた?あなたは・・・それで何か変わった?」
「この苦しみが終わるまで、僕が!!!」
遮るように、時島の名前を呼んだ咲白。大人勢の間宮先生と俺は、ただただ呆然とすることしかできない。
「あなたがすることは、罪を認めることより・・・自分がどうなりたいかなんじゃない?」
優しく微笑む彼女の笑顔に、閉ざしていた感情が溢れ出す。
さらに流れる涙、嗚咽は・・・まさに子供の声だった。
咲白は、彼に寄り添うように、頭を撫でた。
「ごめんなさい・・・気づけなくて・・・」
俺は廊下の先で微かに蠢く人影に気づく。それが誰かだったのか・・・直接確認しなくても検討はついた。佐伯も・・・改めて自分の行動を見なすようにと心で祈ることしかできなかった。
* * *
教授・杉田圭太の中で染み込んでいく煙。吐き出されたと同時に生み出す幸福度に浸っていた。
顔を上げた視線を追うと、カラスの鳴き声と共に、紅色の空に移り変わる時間帯だと教えてくれた。
軽さを感じる足音で彼に歩み寄る。
「なあ、どうするつもりだ?咲白・・・」
私の存在に気づいた教授、淡々と会話の続きを始める。
「何がです?」
「あれは一時的な反応だ。時間が経てば、家族が犯した不正に苛まれるぞ」
「・・・こないだ名刺をくれたジャーナリストがいるんです」
教授にそっと見せたジャーナリスト・十川大輝の名前。以前、高梨くんを病院まで運んでくれた第一人者・・・この名刺に記載された電話に連絡を取れば・・・
「不正を世の中に伝えることができる」
だが迫り来る勢いの声量が覆い被さる。
「いや待て待て。さらに、追い込むことになるぞ・・・父親が職を失ったら・・・あの子の未来は・・・」
深く突き刺さる警告、甘い考えに反省を込めて、名刺を懐にしまう。
「そう・・・ですよね。そこまでは考えてなかったです」
「俺たちにできることは、時島がどう変わりたいかを見届けることじゃないか?」
私の肩に強く手を置く。
「それ、セクハラです・・・」
「え・・・」
携帯電話を取り出し、本気で110番を押そうとする。
教授は必死に弁解した。
その時に、美しい音色が校舎内から響く。今日はもうみんな帰ったはず。だけど・・・この音色。
一瞬だけど、時島くんが見せてくれた楽譜の音符と同じ・・・まだ校舎内にいる。
私はこの音色に誘われるように、靴箱エリアから2階の階段を駆け上がっていく。
どこかみずみずしい、でも儚さがある。まさに時島くんそのものだった・・・
その時に、廊下で佇む佐伯くんの姿。視線は、ピアノが聞こえてくる教室に釘付けだった。
私は存在を気づかせるように足音を立てる。
迫り来る足音に、視線が合う。佐伯くんは顔を伏せ、廊下の向こう側へ背を向ける。
だが逃さなかった。
「佐伯くん」
止まる足音。
「・・・」
「あなたの苦しみが理解できるとは言わない・・・でもね、あの子を傷つけて、何か得るものはあった?」
私の言葉に上下動く肩。
その時、廊下を歩く私が見えたのでしょう。気づかなかったはずの視線は、私へ。
音色が止まると同時に、体をビクッと震わせる佐伯くん。
廊下に顔を出した時島くん。
「佐伯・・・ここで何してるの?」
佐伯くんはただ黙ることしかできなかった。でも微かに聞こえた。
「ごめん・・・」と。
廊下の先へと消えていく佐伯くん。
私はまた時島くんに寄り添うように肩に温もりを込めた手を置く。
「あなたが罪を受けるより、佐伯くんのためにどう変われるか、それをあなた自身で見つけ出して」
コクリと頷いた時島くん。あの時に見せる冷たい瞳ではなく、どこか輝きを取り戻した瞳だった。
私は楽曲の続きを聴きたいと言い、音楽教室へと入っていた。
* * *
それから数日後。
サークルメンバー・星野舞のいとこ・松崎美菜から同じクラスメートの時島くんの近況を教えてくれた。
どうやら良い方向へ向かっているようだ。
だが驚くべき出来事がその先に迎えていた。
「咲白!!!朗報だ!!!」
活動停止宣言された日から通うことがなくなったA.C.Tサークルの部室。
顧問であり教授の杉田圭太は、どこか明るい声で私を呼び出した。
「サークルの活動が正式に再開することになった」
「え・・・どうして・・・」
顧問から白い手紙が手渡される。
「時島と佐伯からの感謝状だ・・・それだけじゃない・・・一般の方、学生から多くの依頼が来ている・・・これも考慮し、大学からも条件付きで、少しずつサークルを再開することになった・・・」
私は時島くんと佐伯くんが送ってくれた言葉を涙なしで見ることはできなかった。
『ありがとう』
その5文字が何より私の心の救いになっていた。
* * *
私(咲白杏奈)は、彼の様子を見にいくために、病室へと向かっていた。
高梨くん、どう反応してくれるだろうか?とウキウキした期待、何にせ、彼が意識を取り戻したという連絡は、安堵と嬉しさで渦を巻いていた。
白が誇張された廊下を淡々と歩いていると、一人の若い男性が病室から出てくる。高梨くんが入院している部屋から現れた。
お兄さんだろうか・・・私は声をかけようと思ったが、今は早く会いたい相手がいる。
私は、彼のいる屋へと足を踏み入れた。
「高梨くん・・・」
優しく寄り添う声量。
カーテンレールの向こう側から、荒れ狂うような呼吸音が漏れ出していた。押し開いた瞬間、病室の静寂が弾け飛び、張り詰めた空気が肌を刺した。高梨くんは肩を震わせ、深い水の中でもがくように空気を求めている。
胸は激しく上下し、視線はどこにも焦点を合わせられず、ただ恐怖だけを見ていた。
「ねえ!!どうしたの!!高梨くん!!」
声をかけても届かない。
彼の世界はすでにパニック状態。
震え続ける指先を掴もうとしても、触れた瞬間に逃げられる。その拒絶すら無意識なのだと、彼の硬直した表情が物語っていた。呼吸が崩れ、また乱れ、今にも途切れてしまいそうなほど苦しげな息。
その合間に、絞り出すように、かすれた声が漏れる。
「あいつが・・・優香を・・・」
そのひと言が、病室の空気を一変させた。
Case3最終回まで読んでくださった皆さま、本当にありがとうございました。
書き進めるたび、キャラクターたちの痛みや揺らぎに私自身も胸を掴まれるようで、それでもページを開くたびに「続きを読んでほしい」と願いながら綴っていました。
ここまで読んでくださった読者には、感謝の言葉しかありません。
そしてここで少しだけ、これからのお知らせを。
次のCase4では、
ついに A.C.Tという場所がどう生まれ、なぜ存在するのか――その“原点”に踏み込みます。
そして物語は、Case7での完結を目指して進んでいきます。
彼らがどんな選択をし、どんな未来へ辿りつくのか。
そして折り鶴強盗殺人事件はどんな真実を見せるのか――
どうか、これからもA.C.Tの物語を見守っていただけたら嬉しいです。




