交流会
混み合うバスの中、むせ返るような汗の匂いが空間を満たしていた。
車体が揺れるたびに、じめっとした空気が肌にまとわりつく。
解放されるまで、あと十分。たったそれだけの時間が、今日はやけに長く感じる。
それにしても——
「私(咲白杏奈)と一緒に調査するの、初めてじゃない?」
ぼんやりと窓の外を眺めていた高梨くんが、はっと目を瞬かせた。
「ああ!そうですね…」
「普段さ、辻くんと何話してんの?」
「え!!」
浮かされたような反応。暑さのせいか、寝不足のせいか、返ってくる言葉がいちいち鈍い。
その様子を見ながらも、私は平然と質問を重ねた。
「いや〜あいつとあんまり話すことないでしょ?つまんないし」
「いやそんなことは…」
おかしい。
彼の腕が、まるで私から距離を取るように吊り革を握り、鼻から下を覆った。
まさか、隣のおじさんの匂いでも気にしてるの?
バスが中学校前の停留所に止まる。
ドアが開いた瞬間、江が勢いよく外気を吸い込んだ。
私もそれに続き、重たい熱気から解放される。
「なんか臭った?」
「先輩……」
恐る恐る顔を向けた江が、真剣な目で言う。
「昨日酒飲みました?」
「え?なんで?」
「口…臭いますよ、先輩」
一瞬で血が上るのがわかった。言葉よりも早く顔が真っ赤になる。
私はコンビニに駆け込んで、ミントのタブレットを掴んだ。
好きな人に言われたわけでもないのに、こんなに恥ずかしいなんて。
でも、中学生の前で笑い者にならないよう気づかってくれたのなら……まあ、許してやってもいいか。
それにしても、臭いの原因がおじさんじゃなくて私だったなんて——最悪。
* * *
「こんにちは〜」
少し緊張の混じった声。
大学生の私たちは腕にファイルを抱えて教室に入った。
汗をぬぐいながらも、笑顔を作る。
「今日から英語の勉強を一緒に頑張りましょう!」
私が声を張ると、教室のざわめきが少しずつ落ち着いた。
何人かの生徒が顔を上げる。その中の一人、最前列の男子が何かを囁き、隣の友達がくすっと笑った。
その笑いが伝染して、教室全体が柔らかい空気に包まれる。
「緊張してるのは、お互いさまですね」
照れ隠しのように笑ってみせる。
その瞬間、私はある一人の生徒に目を留めた。
中学二年生、時島健人。
教授の知り合いの教師——間宮先生から、「気にかけてあげて」と頼まれた子だ。
授業が始まる。
テーマは“英語で自己紹介と趣味を話す”。
私は司会進行役として、班ごとに英語で交流を促す役割だ。
幸運にも、時島くんと同じ班になった。
「じゃあ、Start!」
掛け声とともに、教室に英語と笑い声が混じり合う。
けれど、時島くんの机の周りだけはぎこちない空気感が混じっていた。
「What do you like, Tokishima?」
佐伯くんの声が、茶化すような調子を帯びていた。
「I like… singing.」
「singing? Oh, you sing sad songs, right?」
クスクスと笑いが広がる。
女子生徒の一人が、悲しげにその様子を見ていた。
「Hey, Don't say that!!」
「Oh!! Sorry, sorry」
時島くんは、うつむいたまま「Yeah… maybe」と小さく笑った。
その一瞬、袖口からのぞいた腕の痣が目に飛び込んできた。
胸の奥が、ざらついた音を立てて痛む。
どう見ても、自分でつけたとは思えない。
あの教師——間宮先生もこれに気づいてないの?
いや……まさか、見て見ぬふり?
* * *
休憩時間。
廊下の端から、教室の中をそっと覗く。
他の子たちは笑い合っているのに、時島くんだけが本を開いたまま、静かに時をやり過ごしていた。
「どうでした? 時島君」
耳打ちする距離で、高梨くんが隣に立っていた。
「あの佐伯って子が、時島くんをいじめてるんだとは思うけど」
「でも待ってください。目につく痣ですよ。こんな状態で親は学校に行かせますかね?」
「親が虐待の可能性?」
私の問いに、高梨くんは小さく頷く。
「でもそれなら教師が怪しいとも取れるでしょ」
「教師の線はないんじゃないですか? だってわざわざ俺らにまで頼ります?」
「誰かに頼まれたんですか?」
背後から声。驚いて振り返ると、時島くんを気にしていた女子生徒——松崎美奈が立っていた。
その瞳は強く、まっすぐだった。
「え? 何を頼まれたの?」
「隠さなくても、さっきの会話丸聞こえですよ」
冷静で鋭い口調。
私たちは気まずく笑うしかなかった。
* * *
休憩が終わる後数分間、私は松崎さんから話を聞くことにした。
凛とした立ち姿、どこか大人びた雰囲気を持つ。
「それで、時島くんのあの痣って心当たりない?」
私が慎重に尋ねると、彼女は言葉を探すように唇を噛んだ。
「あれは、、、自分がやったんじゃないかなって思うんです」
「え?」
「1回だけ、みたことあるんです、自分を傷つけるところ」
「それって・・・なんで止めなかったんですか?」
「もちろん止めましたよ!!!」
「どっちみち、何か原因があるはず。さっきの人たち、時島くんをからかってるように見えたけど?」
高梨くんがそっと尋ねる。
「彼らが、何かやっているのは間違いないと思います」
「何かって、見たことないの?」
「だから先生も気づいてなんじゃないですか?」
チャイムの音が響く。
休憩時間は終わり。答えはまだ見えないまま、私たちは教室に戻った。
* * *
最後の休憩時間を迎えた頃、私は高梨くんを階段に呼び出した。
誰もいない空間に、蝉の声だけが響いている。
「どう思う?」
「まあ、依頼してきた教師が暴行に関わってる可能性は低いんじゃないですかね」
「私もそう思う。となると、さっきのいじめっ子か・・・親御さん?」
高梨くんは頷いた。私たちの考えは同じだった。
「どうします?」
「そうね、今日後をつけてみる?」
その言葉に、彼の顔が引きつる。
「もっと正規のルートで調査しません? ストーカー的なことしたら、次こそ、私たちが犯罪者扱いされますよ」
「何かあってからじゃ、遅いでしょ!!!」
思わず声を荒げる。
彼は顔を手で覆い、深いため息をついた。
「ってことで私は時島くんを、あなたは、あのいじめっ子・佐伯の後を追ってほしい」
* * *
そして、俺——高梨江は、仕方なく佐伯を追う羽目になった。
講習が終わり、彼の後ろ姿を一定の距離で追う。
暑さが、息のようにまとわりつく。正直、面倒くさい。なんで夏休みをこんなサークルに費やしてるんだ?就活で説明する時、どう言えばいい?「A.C.T所属」……人助けサークル、って書いとくか。
そんなことを考えているうちに、佐伯は人通りの少ない道に入っていった。
街のざわめきが少しずつ遠のき、代わりに蝉の声が強くなる。いくつか過ぎ去る車道の音だけが、まだ現実をつなぎとめていた。
その時——佐伯が、急に走り出した。
角を曲がって姿を消す。
バレたか?
胸が跳ね、俺は慌てて建物の陰に身を隠した。
だが、こちらに近づく気配はない。
恐る恐る角を覗くと、もう姿が見えなかった。
「あれ?」
俺は急いで見失いかけたポイントへ足を進める。徐々に湧き出てくる汗を抱えて。
角を曲がったポイント、そこに顔を出すと、住宅街の中の細長い道が続いている。空気感が一気に変わる。
何か漂う負のオーラ。俺は覚悟を決め、ゆっくり足を進めた。
次第に車道から聞こえる走行音が遠のいていく。
それにしても辺鄙な場所だな・・・
暑い日差しの陽が、じわじわと照らしていく。
そのとき——ふいに背後に影が落ちた。
すぐに振り返る。そこには、バットを振りかざす人影。
思考が追いつくより早く、鈍い衝撃が頭蓋に響いた。
対応する暇なんてないし、声を上げる間もなく・・・
滴る赤い海に視界がぼやけていく中、意識が消えていく。




