骨折女
飛びやんせ、飛びやんせ
骨折したけりゃあ、飛び降りやんせ
飛びやんせ、飛びやんせ
骨折したけりゃあ、飛び降りやんせ
おびるの谷間は、ぐらまあ乳房
そこから真下を、ちょいと覗けば
谷底、どん底、極楽浄土
飛びやんせ、飛びやんせ
骨折したけりゃあ、飛び降りやんせ
骨折女が、空飛べば
骨折り損の、くたびれ儲け
飛びやんせ、飛びやんせ
骨折したけりゃあ、飛び降りやんせ
今宵も空飛ぶ、骨折女
"死人に口なし"とゆう言葉があるように、死んでしまった人間の心情など一体全体、誰が悟れるものだろうか。
ましてや、私は霊能力と呼ばれる類いに関して、どうしても信用できない質なもので、それらを使って霊と対話するなど持っての他で、銭儲けの飛んだ茶番とばかりに思っていた。
そうゆうわけで、私が今立っているこのビルの屋上から、その身を一つ投げてしまえば、それっきりが最期、誰も私が死んだ理由などわからないまま、私は口の聞けない死人となる。
そして、きっと人々は私の死に対して、あいつはああだった、あいつはこうだった、なんて適当に理由を付けては、私は不本意なレッテルを貼られ、可哀想な人として世間に認定され、その亡骸を人前に晒すことだろう。
しかし、それを一番心待ちにしていたのは、紛れもなく私自身なのである。
芸術家の生涯とゆうのは、芸術に恋い焦がれ、芸術にその身を捧げ、芸術と共に死んでゆく。
そして死にゆくその姿ですら、芸術家としての最期の傑作とするものだと私は自分勝手ながら解釈していて、それによって誰にどう迷惑が掛かり、それによって誰がどう嘆き悲しむかなど、そんなもの想像するさえ馬鹿らしいと思うような、芸術家の鏡ならぬ芸術家の恥とも言える勘違い野郎だった。
それはそうとして、私の画家としての希望とゆうのは、とうの昔に息絶えていたのも事実なのである。
世界一とは言わずとも、日本に名を残すような一流の芸術家となる夢を抱き、齢十八で志を持って田舎から上京し美大へと入るものの、周りを取り巻く同期達の情熱と努力はあまりにも人間離れしていて、そんなものを直に目の当たりにした私は、プレッシャーとゆうものを入学早々に感じてしまい、私の夢はそこで一端打ち砕かれてしまったのだ。
それでも同期らに遅れを取るまいと、私は自身が持っているであろう一切の時間すべてを芸術に費やし、何千枚も何万枚もの絵画を、無我夢中で描き連ねる日々を送ることになる。
当時は、それはもう狂気の沙汰と言わんばかりに、寝る間も惜しんで読んで字の如く狂ったように制作を続け、その甲斐もあってか大学を卒業する頃には、私はいくつもの絵画コンクールにて華々しく入賞を飾ることになり、その後に続いてゆくであろう悲惨な芸術家人生の幕を開けるのだった。
私は、熱中し過ぎた。
描けども、描けども、描き足りず、描けども、描けども、納得いかず、そのあまりにも果ての無い渇望と共に、私は絵画とゆうものに心を囚われてしまい、齢二十二の頃には既に自暴自棄になっていた。
そして、この鬱屈した精神を安定させる為に、いつしかアルコールへ手が伸びるようになり、呑んでは描き、呑んでは描き、とゆう生活を余儀なくされることになる。
そのうち、酒が無いと何も出来ないことに気付いた頃には齢二十七となっていて、私は廃人になる一歩手前の状況下で、それでも尚、酒を呑んでは絵を描く日々を続け、何点かはそれなりに評価される作品を世に送り出すも、芸術への情熱は進行する病のように、徐々に私から消えゆく一途を辿るのだった。
そんな私を見兼ねた当時の恋人は、病院へ行くよう何度も何度も私を説得したが、それを一方的に拒絶し、ましてや説得されればされるほど酒の量は増えてゆき、感情の一瞬の迷いから、暴力を振るうようになりその結果、彼女は私の元を去った。
私はとにかく熱中し、自らの人生を、生き急ぎ過ぎてしまったらしい。
熱中し過ぎたあまり、その情熱がいつの間にか消えてしまっていたことにも気付かず、木乃伊取りが木乃伊になってしまうような、まさにそれと酷似した思いが色々と失った後になって込み上げてくるのだから、恥ずかしいったら、ありゃしない。
その後、私は絵を描くことを辞め、それに相反して、酒の量だけはひたすらに増えていった。
この辺りで、私は人生で二度目になる、夢の打ち砕かれを知ることになる。
そこからしばらく、絵は描いていない。
そうやって呑んだくれ、私は今年で齢三十となり、ギリギリの思考の中で閃いたものとゆうのが、自らの死を持ってして、それを遺作とするものだった。
私はビルと地上の狭間に立ち、夜風に揺られながら、このビルの高さは一体どのくらいあるのだろうかと、ここから飛び降りてもしも打ち所が良く助かってしまったら、それこそ芸術家の恥だろうなんて、顎に蓄えた髭をいじくりながら、まるで取り留めのない小難しい事を考え込んでいた矢先のこと。
ビルの真下を覗いていると、その何階か下にあるフロアの窓から、何かが勢い良く飛び出してくると同時に、
「ギャーッ!!」
とゆう悲鳴が、私の耳をつんざき、その何秒後かには、ドスンとゆう鈍い音が後を追うように聞こえてきて、そこに街を歩いていた人々が、蟻のように群がり始めたのだ。
私は少しの間、今目の前で何が起きたのか認識できず、硬直したままビルの真下を覗き込んでいたが、しばらくしてからようやく、私が身投げするよりも早く、身投げした女がいたことを理解する。
ビルの窓から飛び降りた女は、アスファルトに体を沈めたままぴくりとも動かず、生きているのか死んでいるのかさえわからない。
私はそれを呆然と眺めていたが、誰が呼んだか事態発生からさほど経っていないのにも関わらず、すぐさま救急車が駆け付け、女とそれを取り囲むように群がる野次馬共を照らす救急車の赤色灯が、夜の闇を切り裂き、私は何だかとても美しいものに触れたような気がした。
女は早急に担架に乗せられ、救急車と共に消えてゆく一方で、遠ざかってゆくサイレンのドップラー効果は、私がこれから遺作として残そうとしていた創作意欲さえも呑み込んでしまい、私はビルから飛び降りるのを一旦辞めて、少し冷静になってみると何だか気持ちが白けてしまい、その場から足早に立ち去るのだった。
翌日、そのまた翌日と、私はあのビルでの出来事が、どうしても気になって仕方が無かった。
あの夜ビルから飛び降りた女は、何故飛び降りたのか、飛び降りた女は生きているのか、それとも死んでいるのか。
私の頭の中では、遺作を製作することなど隅の隅の方に追いやって、女の飛び降りた経緯、そして女の末路のことで持ちきりだった。
考えに考え抜いた末、どうにかして真相を突き止めてみたいとゆう、何とも不謹慎な好奇心が生まれてみると、私は再びあのビルを訪れることを決意するのだった。
私のアパートから徒歩と電車を乗り継いで、三十分ほど掛かった場所に、例のビルがある。
なぜ私があのビルの屋上を遺作を発表する場に選んだかと言うと、以前そのビルの三階フロアで何度か個展を開いたことがあり、どうせ身投げするならば私がかつて芸術家であったことを証明する残り香を嗅いでいたかったからだ。
それもまあ、今となってはあの女のせいで、だいぶ後に回してしまっているところなのだが。
私はビルへ向かう途中でコンビニエンスストアに立ち寄り、缶ビールを一本と小さなウイスキーの小瓶を一本購入し、店から出るとすぐさま缶のプルタブを開け、一思いに飲み干す。
昼間からそうやって酒を飲む私を、街行く体裁ある常識人達はいつも通り軽蔑の眼差しで見ているが、私にとってそれは決して嫌なことではなく、むしろそんな異様な姿の私はなんて芸術家なのだろうと、送られる視線が多ければ多いほど自惚れるような、羞恥が服を着て歩いているような奴だった。
しかし、それと同時に、そうやっていなければ私は自我を保つことさえままならない、臆病者だったことも決して忘れてはいけない。
強い人間とゆうのは自分がさぞかし真っ当な生き方をしていると思い込み決め付け、それを人に押し付けたがるが、弱い人間とゆうのは自分があたかも強い人間かのように振る舞い、仮面を被っては擬態してその場をやり過ごさなくちゃならないのだ。
私は紛れもなく後者の方で、「呑んでないとやってられない。」と、昔どこかのサラリーマンが愚痴をこぼしていたかもしれないその言葉通り、本当に呑んでいないやってられず、恥ずかしながら人前に出ることでさえ躊躇してしまう人間へと、いつの間にか変貌してしまっていた。
そうやってまた小難しく面倒な物思いに更け、酒をちびちび呑みながら、遂にたどり着いたは例のビル。
私はあの夜に女が飛び降りたであろう階に大体の目星を付けていて、エレベーターから降りてみると、そこはかつて私が個展を開いた三階のフロアより一つ下がって、二階のフロアに位置しており、その場所には"BROKEN×BORNS"なる言葉を、蛇と髑髏のデザインで装飾した、何ともド派手で悪趣味な看板が掲げられたタトゥーショップになっていた。
私がその店の前で、中へ入るか入らないか立ち往生していると、何やら店内で男と女が口論している声が聞こえ、なおさら店に入るのを戸惑っていた矢先、店から松葉杖を突いた人間が出て来る。
真っ赤な色したベリーショートの髪型は、一見すると男に見えたものだが、よくよく見てみればそれが男では無いことに気付き、しかもその見た目に私は見覚えがあった。
あの夜、飛び降りた女だ。
女と私は目が合い、すかさず女は「誰?お客さん?ユウヤ~っ、お客さん来たよ!」と、私のことを刺青を施術しに来た客と勘違いし、女は店に向かってそう叫ぶと、店の中から彫師とおぼしき全身刺青だらけの痩男が現れ「新規の方すか?すんません、うち今新規でお客さん取ってないんすよ。」と、少し気だるそうに私に話してくる。
「いや、私は、その、刺青を入れに来たわけじゃ無くて・・・。ただ、その・・・、」
「そうなの?じゃあ、何かご用?」
私はつい言葉に詰まってしまい、うまい説明が浮かんで来ず、しばらく彫師の男の前で黙りこけてしまった。
「冷やかしかな?それなら、帰って貰ってもいい?」
と、男はまた気だるそうに、それとあからさまに嫌悪をぶつけるような表情で私を追い返し、私はとうとう最後まで適当な言葉の返しを見つけられず、その店を後にしてエレベーターに乗り込むのだった。
私は、何だか肩透かしを食らったような気持ちになり、途方に暮れ一人そのビルの屋上から、ぼんやりと街並みを眺めていた。
あの夜に起きた出来事、松葉杖を突く赤いベリーショートの女、タトゥーショップ、そして彫師の男。
昔から厄介事に首を突っ込む癖がある私は、女の身投げから始まったこの一連の事件に対し、非常に興味津々で、あの人間達のアンダーグラウンドな身の上話を、聞いてみたくてしょうがないにも関わらず、私にはこれ以上、打つ手が無かった。
ウイスキーの小瓶は、既に三分の一ほど呑み終えており、私の思考はより一層、朧気で虚ろになってきた頃、誰かが扉を開けて、屋上に昇ってきたことに気付く。
「ねえ、あたしにもそれ、ちょうだいな。」
声を掛けられた方を振り向いてみると、一瞬目を疑ったが、私の目の前に突如現れたのは、紛れもなくついさっき見た、あの松葉杖を突いた女だった。
私はそれに心底驚き、あまりの衝撃で、やはり返す言葉が見当たらず、無言のままウイスキーの小瓶をそっと彼女に手渡してやるのが精一杯で、何とも不甲斐なかった。
「ん、ありがと。」
ゴクリと、私が手渡したウイスキーを一思いに喉元深く呑み込んだ彼女は、その後ゴホゴホとむせ返り、続け様に「うえ、マズ・・・。」と、苦虫を噛み潰したような表情で私を睨む。
ちょうだいと言われたから、あげてやったのに。
「お兄さん、さっき店に来た人よね?こんな真っ昼間から呑んだくれてるなんて、アル中?浮浪者?」
女からウイスキーを取り戻した私もまた、一口呑み込んで、酒の力をどうにか借りては、初めて会話を交わすことに成功する。
「まあ、その両方とも遠からずってところだと思う。さっきの彫師は、君の恋人か何かかい?ずいぶん冷めた目付きをしているんだね。まだ若そうなのに。」
我ながら何ともキザで、吐き気を催す言葉だ。
しかし、私はそれを言わずにはいられなかった。
先程のタトゥーショップで、彫師の男に軽くあしらわれ、促されたままにその場を後にし、時間が経つにつれてそれが悔しくて恥ずかしくて、どうしようも無くなってしまった私はそう皮肉ぶって、腹いせと言わんばかりの言葉を女にぶつけるしか、この惨めな感情を落ち着かせる方法が無かったのだから。
そんな私の復讐たる言葉も女は物ともせず、ひらひらと蝶が舞うが如く見事に交わし、私の杜撰な皮肉にこう返す。
「そ、彼氏。そして、あたしも彫師。あの店は二人でやってるの。って言っても、あたしはまだまだ見習いだけどね。お兄さん、さっきは何の用があったの?」
「その松葉杖・・・。あの夜、この建物から飛び降りたのは君だよね?」
「ああ、なに?見てたんだ。そうよ、確かにあたし飛んだわ。」
「実はあの時、私は君が飛んだ階のずっと真上、今いるこの屋上から飛び降りようとしていたんだ。いよいよ、飛ぼうかと思った矢先、君に先を越されたわけだ。」
「ハハ、それマジ?うける。あなたも鳥になろうとしたんだ。」
「鳥?」
「そう、鳥。別にあたし死にたかったわけじゃないのよ。あたしは、鳥になりたかっただけなの。ただ落ちた後になって、ようやく気付いて、がっかりしたわ。ああ、なあんだ、あたし鳥じゃなくて人間だったんだって。」
「そうか、そうか。難儀なことだね、そりゃあ。」
「ナンギ?ナンギって言うの?それ何?なんか、無様的なやつ?」
「いや、単純に難しい面倒な事柄だってことだ。初めて聞いた言葉かい?」
「ナンギ。初めて聞いたけど、なんだか昔っぽいね、それ。お兄さんって、頭良いのね。」
「ほんの少しばかりね。でもこんな言葉知っていたところで、あんまり人生に役立ったことは無いかな。」
「役立つものだけが、重要ってことでも無いでしょ?何の役にも立たなくたって、綺麗なものは世の中に沢山あるわ。何の役にも立たないのなら、そんなのもう、ただ愛してあげるしか無いじゃない?」
「ああ、確かにね。君の言う通りだ。何の役にも立たないのであるなら、それはもう愛してやるしか無いだろうね。ああ、楽しい。君のおかげで久しぶりに楽しい時間を送っているよ。君には色々質問したいことが沢山あって、だけど一体全体どこから、何から聞いて良いかわからないんだ。」
「それって、つまりナンギなことよね。」
「ああ、確かに。難儀なことだ。」
私とその女は、そう言って目配せすると、ウイスキーの酔いのせいもあってか、このやり取りが笑いのツボに入って、可笑しくて可笑しくて仕方が無くなり、二人意外に誰も居ないビルの屋上で、ただただ無邪気に笑い転げるのだった。
雛が私と同じ美大へ通っていることを知ったのは、彼女と知り合ってしばらく経ってからだった。
とは言っても、私は三十路で彼女はまだ成人にも満たぬ十九歳であって、学生時代の思い出を共感させるには無理があるほど歳が離れていたわけだ。
青天の霹靂のように私の前に現れた彼女は、美大へ通う傍らで彫師である恋人と共にタトゥーショップを切り盛りしているのだが、その恋人とやらがいささか女癖が悪く、客で来た女とイチャイチャなんてのは日常的な光景で、それが原因となっていつも口論に発展してしまうそうな。
私達はあのビルの屋上の会話をきっかけに、彼女の恋人の目を時おり盗んでは呑みに行ってみたりと、デート紛いなことをして他愛の無い話の数々で盛り上がった。
しかし、彼女が私に話す内容はと言うとその八割が恋人の話で、感情豊かな彼女は恋人に対しての愚痴で泣いたり喚いたり、時には自分がいかに恋人を愛しているかをうっとりとした恋する乙女の瞳で語ってみたりと、とにかく忙しなくて「ああ、この子は本当に恋人が好きで好きで堪らないのだ。」と、つくづく痛感したものである。
「時々ね、寂しくなるの。ねえ、あたしがあいつに対して抱く感情って重いのかしら?あたしはこんなにあいつのこと愛してるのに、あいつはいつもよそ見ばっかりしてる。」
その夜も、例によって酒呑みに街へ繰り出した私達は、共に大酒を食らっていたのだが、雛はいつもより元気が無くセンチメンタルで、少しだけ様子がおかしかった。
「ねえ、あなたはあたしよりも、ずっと長く生きてるのよね?心の痛みって、いつかは無くなるものなのかしら?あたしの治りかけの骨折した足と同じように、いつかは心の傷も癒える時が来るのかしら?」
「そうあんまり難しいことを考えるもんじゃないよ。生きていると辛いこと苦しいことが、きっとこの先も事あるごとに起こるだろう。もしかしたら、それらが消えることは無いかもしれない。しかし、歳を重ねれば重ねるほどに、痛みってものに対してつくづく鈍感になってくるものなんだ。それが大人になっていくことなんだと、私は思ってる。」
「何だか、大人になるって悲しいことね。」
「大人になるってことが悲しいことじゃない。世の中で一番悲しいことってのは、悲しいことが無いってことなんだ。悲しいことがわからないってことは、何が楽しいことかってのもわからない。私は今ちょうどそのど真ん中に呆然と突っ立っているところだよ。」
「そう。じゃあ、あなたって悲しい人なのね。」
「・・・確かに。そうかもしれないね。」
それっきりしばらくの間、私達は沈黙を余儀なくされたのだが、近くで酔っ払った学生らの焚き付ける呑みのコールが聞こえる度、この刹那的で情緒溢れるロマンチックに水を差してくれるのだから、私は少しばかり憎たらしくなってうんざりする。
ああ、そうだ、そうだった。
私の芸術に対しての情熱や、生に対しての執着は、徐々に薄れ、輪郭がぼやけ、風前の灯だったことを、この時ふと思い出したのだった。
雛と過ごした時間が、私の一瞬の安らぎであったことは嘘偽り無く確かなことだったが、それでも私にはそろそろ本来遂行させねばならかった、製作活動が残っていたのである。
私が雛と会うのも、きっとこれを最後としよう。
そう決断したのも束の間、夜は一段と更けてゆき、日付が変わった頃、私達は飲み屋を後にし、それぞれの帰るべき場所へと歩を進め始める。
彼女は治りかけの片足を引きずりながら、千鳥足でふらふらと、そしてその一歩後ろを、彼女が転ばぬよう私はそっと見守りながら、ゆっくり、ゆっくりと夜の街を練り歩いた。
酔っ払ったサラリーマン、馬鹿騒ぎする学生、客引きをするボーイ、自転車置場で寝そべるホームレス。
行き交う人間は疎ら様々で、しかし確実に世界は廻っていて、微かにではあるが、静かに息をしながらそこに生きている。
「相当呑んだね、君。」
「うん、かなり。なんなら、今ちょっと気持ち悪いもん。」
「マジ?」
「マジ。ねえ、ここでゲェしていい?」
「うん。ここは絶対にダメ。待って、ちょっとトイレ探そう。後それからコンビニで水を買おう。」
何があったかわからないが、吐くほど呑んだセンチメンタルな彼女を世話する羽目になった私は、彼女を近場の公衆便所まで連れて行き、ゲロを吐かせた後でコンビニに寄れば、彼女に飲ませるミネラルウォーターと、自分用に缶ビールを購入する。
それから、彼女がレイプや物盗りに合わぬよう、ついさっき買ったばかりのビールを啜りながら目を光らせ、街路樹下にあったベンチで横になっている息も絶え絶えな彼女の容態が落ち着くまで、そこからずっと離れず側に寄り添う。
そこから小一時間あまりが過ぎ、ようやく落ち着いてきた様子の彼女に向かって、「大丈夫かい?一人で帰れそう?」と問えば、「ダメ。だいじょばない。一人になりたくないの。」と、若干呂律の回らない舌で言葉を返し、頑なに首を横に振っては、駄々をこね始める。
季節は初夏とゆうこともあり、ジーンズ越しからでも虫に刺され、掻きむしった太ももがいい加減痛くなってきたところで、私はようやく観念し渋々ではあるが、彼女を連れて自宅のアパートに帰ることになった。
私のアパートは街の郊外に位置していて、呑みに繰り出した街から歩いて帰るとさらに小一時間ほど掛かってしまい、電車で帰ろうにもとうの昔に終電を逃していた。
私一人ならのんびり徘徊しながら帰っても良かったのだが、隣にはヨレヨレになったお転婆娘が一匹いる。
この日は金曜日の夜とゆうこともあって、こんな時間帯でもタクシーはせっせと業務に追われ、なかなかうまい具合に捕まらず、ようやく私達がタクシーに乗ってアパートへと帰宅した頃には、もう既に真夜中もとっくに越えた、夜明け前だった。
時間が経って、冷静さを取り戻しつつあった雛は、アトリエを兼ねた私のリビングに足を踏み入れると、目に映る部屋の光景をまじまじと眺めている。
そこには、色んな画材道具やらが所狭しと床に転がっており、壁には幾点もの私が描いた未発表作品が隙間無く飾られてあり、乱雑でまるで清潔感の無い、今流行りのミニマニズムとゆうものからは、遠くかけ離れた空間が広がっていた。
「あなた・・・、本当に画家だったのね。少しだけ感心したわ、あたし。」
「それとても失礼なこと言ってるよ、お嬢さん。私だって一応は画家の端くれだ。それを食いぶちとして生きていたこともあったぐらいにね。これまでの人生のほとんどの時間を、こいつらに費やしてきたんだから。私は紛れもなく、腐っても芸術家なんだ。」
「もう描かないの?」
「ああ、もう描かない。描けない?うーん、やっぱり描かないだね。」
「ねえ、あたしを描いてみてよ。」
「なあ、何でそうなるのさ?もう良いだろう?私はついさっきまで、君の介抱で大変だったんだ。しかも、君が一人になりたくないと言うから、ここまで連れてきたんだ。もう私は疲れたから寝るよ。」
そう彼女に言い放つと、窓越しでくたびれている、年季の入ったシングルサイズのベッドに潜り込み、軽く毛布を掛けては、ふて寝する素振りを見せる。
しばらくだんまりが続いた後で「・・・。ねえ、電気消す?」と、彼女に聞かれ、ようやく諦めたかと私は安堵し、「消す。」と、ぶっきらぼうに返すのだった。
そこからは、とても曖昧な記憶を辿ることになる。
もしかしたら、夢だったのかもしれないし、そうじゃなかったのかもしれない。
電気を消した後になって、彼女はガサゴソと、暗闇の中で何か衣類の擦れる音を立てていて、そこからしばらく経った後に、私の眠るベッドに潜り込んできた。
彼女の体が、私の体に触れると、それはすごく触り心地が良く、柔らかくて、生温かくて、スベスベしたものであるからに、私はすぐに彼女が裸であることに気付く。
不本意と言ったら、それはあまり適切な言葉とは言えないが、私は私なりに、自らの欲望には抗ってきたつもりだ。
ましてや、私より一回り近くも離れた小娘に欲情するなど、持っての他で、それに対して嫌悪感にも似た感情を抱いていたのも、確かなのである。
第一、彼女には恋人がいたわけだし、それを寝取る気などさらさら無かったのにも関わらずだ。
人間の理性とゆうものは、本能とゆうものを凌駕することが出来ないのだろうか?
仮にでも、私に微塵でも理性が残っていたなら、とっくの昔にアルコールを辞めていたか、とっくの昔に死んでいただろうに。
それでもこうやって、のらりくらりしていたのは、自分に理性の働きがまるで無く、生きるとゆうことに対して能動的にただそれを受け入れ、実行していただけなのかもしれない。
翌朝、いや、翌朝と呼ぶにはだいぶ遅い時間だが、それでもまだ昼前であるからに、それはやはり翌朝と呼ぶのがふさわしいのだろう。
私が目を覚ました時には、彼女の姿はそこに無く、テーブルの上には一枚の置き手紙と、その脇には病院で見たことがあるような、処方箋か何かの白い紙袋があった。
いくら私が大酒食らいと言えど、二日酔いの呪いからは、決して逃れることができず、軽い頭痛と昨晩に虫に食われた太ももの痒みに耐えながら、置いてあった手紙に目を通す。
『拝啓あなた。
こうゆう時って拝啓って書くのよね?きっと。
でも、あたしにそんな古臭い知識も文才も無いんだから見よう見真似で、それっぽく書いてるわ、勘弁してね。
だけど、好きでしょ?こうゆうの。
だって、あなた、根っからのロマンチストだもの。
やっぱり最後の挨拶って言えば、これよね。
こうゆう終わり方って、映画とかで見たことがあるし、あなた流に言うなら、"すごく刹那的で美しい"って感じ。
まあ、小難しいことはわからないけど、あなたに対しては色々と思うところがあって、こんなシチュエーションを選んでみたの。
それでも、別れの言葉も無くあなたの前から居なくなったことに対しては、こんなあたしでも罪悪感は抱いているつもりよ。
あたしね、一応あなたに感謝してるの。
あたしはいつも自分勝手で自由奔放だから、すぐに誰かを振り回しちゃう癖があって。
そのせいで彼氏ともいつも喧嘩しちゃうし、自分でもそんなことわかってるけど、それは病気のようなもので仕方がないことなの。
鳥になろうとしたあの夜もそう。
あたしがビルから飛んでみたら、きっと彼氏は心配して嘆き悲しみ、もっともっとあたしを愛してくれるんじゃないのかなって、目論んでみたの。
だけど、それはあたしのナイスアイデアとはならなくて、彼氏はただ気味悪がるばかりで、どんどんあたしから離れようとするんだから大失敗ね。堪ったもんじゃ、無いわ。
そうそう、思い出した。
確かあなたとは、彼氏と口喧嘩して、店を飛び出した時に初めて出会ったんだわ。
あなたは、そんなメンヘラなあたしに寄り添って、優しい言葉を、いつも投げ掛けてくれてたっけ。
たぶん今の彼氏があたしの彼氏じゃなかったら、あなたを選んでいたかもしれないわね。
そのくらい、あなたって人柄が好きだった。
だから、"あれ"はあたしからのプレゼント。
感謝の印。
あたしね、決めたの。
もう一度、空を飛んでみようって。
それでね、もしもあたしが、空を飛んで自由を掴めたなら、あたしはもう苦しむことなんて無くて、幸せになれるんだと思うの。
だから本当は、あたしの巣立ちの餞別に、一枚絵を描いて欲しかったのだけど、ダメね、あたし。
そうゆう大事な時に限って、本当のことをはぐらかそうとするんだもの。
じゃあね、今までありがと。
悲しい宿り木さんへ、愛を込めて。
―追伸―
この手紙の隣にある処方箋は、もうあたしには必要ないわ。
あたしは、悲しいことを感じていたいの。
だって、それを失くしてしまったら、あなたとの楽しかった思い出がまるで最初から無かったかのように、消えてしまうじゃない。
世の中で一番悲しいことは、悲しいことが無いってことよ。
だから、これは、あなたにあげる。
あなたが悲しくなる夜にでも、この子達を使ってあげてね。
本当、生きるって、ナンギなことよね。』
「ハハ、敬具を忘れてるってば。敬具を。」
私は彼女からの置き手紙を読み終えて、そんな一人言を漏らしては少しだけ微笑んで、置き手紙の脇にあった"抗不安薬"と表記された紙袋を、中身を見ることもなく、ギッチギチに丸め込んでゴミ箱へ放り投げてやった。
モヤっとした暑苦しい空気を外に逃がす為、目一杯開け放たれた窓からは、鬱陶しいくらい蝉の鳴き声が聞こえてきて、これからやって来るであろう本格的な夏の到来を、私は何だか楽しみに感じ、今自分が生きていることを、少しばかり誇らしげに思えたような気がした。
そこから幾月が過ぎ、それでも私は今もまだのらりくらりと生きていて、それに踏まえてまた性懲りも無く筆を手に取り、再び絵を描いていた。
その絵の題名は最初から決まっていて、いつかこの作品が完成した暁には、"骨折女"とゆう名前を付けてやろうかと思っていて、私は寝る間も惜しんで製作に取り掛かる日々を送っている。
真っ白いキャンパスには、夜のビルの並びを背景に背中から羽を生やした、赤坊主の裸婦が空を飛んでいるとゆう、何とも不可思議な構図が描かれていて、きっとこの絵を展示したとて、さほど評価などされないことは、最初から目に見えてわかっていた。
しかし、そんなこと私には、どうだって良いような物事なのである。
何故ならこの絵は、私から彼女に対しての、巣立ちの餞別なのだから。
そんなことを毎日想い、彼女との記憶を振り返りながら、大事に大事に創作活動に励んでいた頃、何の脈略も無しに、普段決して一切鳴るはずの無い玄関のチャイムが鳴り響き、私は度肝を抜かれた。
玄関のドアを開けたその先にある凄惨たる光景に対して、私は口をあんぐりと開き、呆然と突っ立ったまま、ぴくりとも動くことが出来ずにいたのだ。
なんせ私の目の前には、真っ赤な色したボブヘアーの女が、立っていたのだから。
そして奇妙なことに、その女の小綺麗に整った顔には赤い液体がぽつら、ぽつら、点々と不規則にこびり付いていて、その右腕にはボロボロになったギプスが巻いてあり、しかもそのギプスには女の顔に付着していた赤い液体と同じものが、びっちりと塗りたくられているのである。
その姿に驚愕した私は、何のロマンチックも思い浮かばず、「い、生きてたの?」と、率直で尚且つ非常に女々しいつまらない言葉を掛けてしまう。
「そりゃ生きてるわよ。死んじゃったら、こうやって会えないじゃない。久しぶりね、ねえ、あなた、ちょっと話聞いてよ。」
そう言い返す彼女に対して、気の効いた言葉が何も思い浮かばず、続けて言った言葉も、これまた面白味のまるで無い、「し、死んだんじゃ無かったの?」だった。
「なんであたしが死ぬのよ?最初からあたし言ってたじゃない?死ぬ気なんて無いって。勝手に殺さないであたしを。」
「だ、だって置き手紙に君は、鳥になるってそう書いいたじゃないか。」
「そうよ、あたし一生懸命、羽ばたいたわ。そりゃもう不死鳥のフェニックスのようにね。だけど、やっぱりあたし人間だったみたい。そのまま真っ逆さまに落っこちて、右腕は骨折しちゃうし、頭打って少しの間、記憶喪失にもなってたみたいだし。本当、がっかりしちゃう。」
「あのさ、本当これセンシティブな質問になるんだけどもさ。少しばかり、色々と、聞いてもいいかな?」
「何よそれ。改まっちゃって。はっきり何でも聞きなさいよ。そうゆうの、回りくどくて嫌いよ、あたし。」
「ああ、そうだった。君はそうゆう人間だったね。あのね、冷静沈着に、かと言って君のことを蔑むとか、否定するとかそんなんじゃないからね。冷静に、冷静に、質問をするから、冷静に、冷静に、聞いてね。」
「もう!何なの?あたし、さっき言ったばかりよね?単刀直入にはっきり言いなさいって。いい加減あたし怒るわよ?」
「オッケー、オッケー。申し訳なかった。それなら、じゃあ、単刀直入に、はっきり君に聞くね。ほらさ、君の顔とかその右腕のギプスとかなんかに付いてる赤いやつ。それは何?」
「ああ、これ?これが気になってたの?馬鹿ね、あなたってば。こんなの返り血に決まってるじゃない。」
「い、一応聞くんだけれど、それは一体誰の返り血なのかしら?」
「ここまで話して、まだわからないの?あなたって、意外と野暮ったいのね。この返り血はね、あたしの彼氏のものよ。あいつ、あたしがビルから落っこちて入院してたの良いことに、女を店に入れてはヤリまくってたんだから。あたし、退院早々その現場を見ちゃってさ、思わずプッツンしちゃって、ギプスであいつの頭かち割ってやったの。そしたらね、あいつの頭から血がピューって吹き出しちゃって。まるでクジラの潮吹きよ、あれ。あたしそれ見てゲラゲラ笑いが止まらなくなっちゃったわ。ね、うけるでしょ?」
笑えるポイントが、私には一つも見つからなかった。
"死人に口なし"とゆう言葉があるように、死んでしまった人間の心情など、一体全体、誰が悟れるものだろうか。
ましてや、私の目の前に立っているのは、紛れもなく生身の人間であり、そんな生身の人間の心情ですら、やはり誰にも悟ることはできないのである。
「本当、生きるってナンギなことよね~。」
眉間に皺を寄せて、狂気染みた微笑みを浮かべる血みどろ女の、得意気に言い放ったその言葉は、私の創作意欲のすべてを根こそぎ奪ってゆくのだった。
これが私の人生三度目の、夢の打ち砕かれである。




