妹の花束
時計を買ってきた。妹が欲しがっていたものだ。いい歳しているんだから、時計くらい自分で買いに行けよと思ったが、断れなかった。
手のひらサイズで、白いプラスティック製の、軽くて安い置時計。箱にきっちりと納まったまま、テーブルの上に置いた。
時々こうして妹の家に来る。里帰りのようなものだった。
「おつり、返してよ」
まるで僕はおつかい帰りの子どもだ。
「あ、それからお兄ちゃん、あたしさ、結婚したいんだけど」
急な一言だった。椅子に座る僕に背を向けてキッチンで手を動かす妹の顔は見えない。
「お父さんもお母さんもいないから、お兄ちゃん、暇を見つけて会ってよ」
子どもを諭す母親みたいだ。
「いいけど」
僕は、お母さんに怒られた後の子どもみたいに言った。
「いい?やった。じゃあ、いつにしよっか?」
妹は満面の笑みになった。胸になにかが刺さった。
「いつでもいいよ。僕、当分は暇だし」
公務員をやっている。今まで僕は休みがあっても仕方ないと思っていた。だけど、妹に勧められ、初めて有給休暇を取った。
「そうだよね。マサくんにも聞いてみるよ。あたしは、明日がいいんだけど。だって、こういうのは早いほうがいいでしょ?だから、明日出かけたりしないでよ?」
「ああ」
ぶっきらぼうな僕の言い方に、妹は少し怪訝になったが、すぐ笑顔に戻った。
「もうすぐご飯、できるからね」
そもそも、マサくんって、誰だよ。前の彼氏は二年程前に別れたハヤトだったっけ。そのときは、名前を聞いたきりだった。
「はい、できた。すき焼きでーす」
嬉しそうに、僕の座るテーブルに重そうな鍋を運んできた。
「さすが馬鹿力」
「ひっど。そう思うんだったら持ってくれてもいいでしょー」
幼い頃から、いつも妹に負けていた。ケンカだって、成績だって。
「さ、食べよ食べよー」
「箸は?」
「自分で取ってよ、それくらい」
「へいへい」
キッチンから二人分の箸を取って、食べ始める。
「こうして一緒にご飯を食べるのも、もう少しで終わっちゃうんだね。いやぁ、寂しくなるね、お兄ちゃん」
「……」
「だって、ついにわたしが結婚だよ?」
「はいはい」
ほら、この歳になっても負けている。別に結婚が全てではないが、ゆくゆくはしたい。小学校の卒業アルバムには、「25才くらいで結こんします」と書いてある。今年28歳だ。
「……マサくん、すっごくいい人だから」
「……ハヤトさんはどうしたんだよ」
箸すら持たず、妹を見る。冷たい声が出た。
「えっ?」
妹のつかんでいた肉が、テーブルに落ちた。
「ハヤトさん、いただろ?お前の彼氏だった人」
「そ、それはそうだったんだけど」
「あの時も言ってたよな、お前。『ハヤトはいい人なんだ』って。毎回いい人だって言う割には、すぐ別れちゃうんだよな、お前」
「だけどね、今回は違うの」
「そうやっていつも言ってた」
妹は黙った。僕は静かな中、なにも言わずに、冷めていくすき焼きを頬張った。
2人とも無言なままご飯を食べ終え、僕は好きなバラエティー番組を見ていると、洗い物を終えた妹が後ろから話しかけてきた。
「マサくんが、『明日会いましょう』だって。会ってくれる、よね?」
「……どこで会うんだ」
「ええっと……」
「決めてないのかよ。じゃあ、ローズホテルのロビーに午後二時だ。それでいいだろ」
僕は有無を言わせぬ早さでまくしたて、もう一度テレビに向き合った。そして、心の中で、暗号のように同じ言葉を繰り返す。
「落ち着け、落ち着け」
妹が結婚したら、ついに、唯一の家族を失う。独身という言葉が、痛く刺さった。独りの身。独り。僕は、もうすぐ独りになる。妹が結婚したら、誰がなんと言おうと、林崎健吾は独りなのだと、書類が証明してしまう。
「あたし、今からちょっと出かけてくるね。明日の二時まで会えないから、鍵も玄関に置いておくね。泊まってってもいいけど、帰るなら鍵はいつも通りポストで。よろしく〜」
玄関に続くドアの向こうから、妹の声が聞こえた。僕は立ち上がり、玄関へ向かう。
妹は、すでにコートを着て、玄関にいた。僕は、ヒールの靴を履くその背中に、
「勘違いすんなよ。僕はまだ、認めてないんだからな」
妹は少し振り向いたが、何も言わずに出て行った。
「なんだよ、ほんとにわかってんのかよ」
妹の家に泊まることもあったが、今日ばかりはすぐ自宅へ帰った。
いつもより早く布団に入ったけど、なかなか寝付けなかった。
目が覚めて、軽く身なりを整えて、急いでローズホテルに向かった。起きたのが午後一時だったからだ。自宅から電車で1本で行けるホテルを指定しておいてよかった。
ホテルに着くと、ロビーで大きく手を振る妹の姿、……そしてその横に、見知らぬ男が立っていた。きっとマサくんだ。色白でひょろっとしている。運動部というよりは文化部だったでしょと言いたくなる風貌だ。細身の体に合った、紺のスーツを着ている。
「こっちこっちー」
妹は飛び跳ねながら手を振り続けている。チェックイン開始前の時間帯だが、人はまばらにいる。その視線が気にならないのだろうか。オレンジのショート丈ジャケットと細身のズボンというセットアップに、黒のヒール姿。ジャンプするたびヒールがうるさい。こっちが恥ずかしくなってきて、小走りで妹の元へ駆け寄った。
「お前、恥ずかしいだろ、こんなところで手なんか振って」
「いいじゃない」
「だってここ、そこそこ高級なホテルなんだぞ」
僕らの日常会話を聞いて、マサくんはおかしそうに笑っている。
「あっ、紹介するね、あたしの兄の」
「林崎健吾です」
「はじめまして。七瀬正章です」
マサくん改め、七瀬さんは、ぎこちなく笑った。
「とりあえず、座りませんか?」
僕らは、ラウンジに入り、窓際の席に腰を下ろした。
「ところで、お話というのは、なんでしょう?」
三人分のコーヒーが届いてから、僕が切り出した。
壁一面ガラス張りという設計のため、ラウンジはすごく明るい。
「えっと……僕は……、僕は、翔南さんとお付き合いをさせていただいております」
「ええ、存じております」
「……妹さんを僕にください」
出た、世のお父さんが一番嫌いな言葉第一位。
こういうとき、父さんなら、「娘が認めた男なんだ。どうぞどうぞ」と言うのだろうか。父さんに相談したくなった。
「いくつか質問していい?」
「え、あ、はい」
「まず、年齢は?」
「え、あ、その、翔南さんと同じで、えっと、その」
「25歳だね?」
僕なりの救いの手だ。
「は、はい」
「で、妹のどこが好き?」
「え、あの、その……、ぜ、全部……ですかね」
まずまずの好感は持てた。
「あ、そうそう。聞くの忘れてた。仕事は?」
僕はコーヒーを飲んだ。
「歌手です」
「へえ……。なんていう名前で?」
「七瀬正章、そのままです」
「お兄ちゃん、マサくんね、まだ無名なんだけど、頑張ってるの。もうすぐオーディションも受けるしね」
僕の言葉を言わせるまいとするように、妹が言った。
「事務所とかと契約してるのか?」
「いや、それは……」
「どうやって家庭を築いていく?」
しだいに口が渇いていくのがわかった。
「それは……」
「そんな状態で、結婚が許されると思ってるのかよ……。話にならない」
僕はお金を置いて立ち上がり、早歩きでホテルを出た。出てから、逃げるように走り出す。だが、一体なにから逃げているんだろう。だれも追ってきていない。独りで走っているだけだ。
それでもなぜか速度を落とせないまま駅に駆け込んだ。タイミングよく電車が来た。
マンションに着いて、素早く玄関に鍵をかけた。会いたくなかった。こんなちっぽけな僕を、ひと欠片も妹に見られたくない。
妹の彼氏が売れない未熟な歌手。そんな中途半端で将来に保証がないやつと結婚して、妹は幸せになれるのか。冷静になった頭で考えても答えは出なかった。
もし今僕に、父さんと母さんの声が聞こえる能力があれば。そう思うと、自分が情けなくなった。こんな年になって、いまだに親の影を探している。
両親が死んでから、「あなたは正しいよ」と言ってくれる人が身近にいないことを言い訳にして、生きてきた。だからだろう、未だに僕は二人を忘れられない。
──父さん、母さん。大切な人が亡くなったとき、まず初めに人の記憶から薄れていくのは、その人たちの声からだそうです。でも僕は、いまだに覚えているんです。あなた方の声を。でも、どうしてでしょうか。こんなときになって、あなた方が言いそうな言葉がわからないんです。声が聞こえないんです。妹の結婚相手を認めてもいいのでしょうか。いや、認めない権利なんてあるのでしょうか。あなた方の考え方を、僕は受け継いでいるのですか。
返ってくるはずもない答えと、追ってくるはずもない妹を、心のどこかで待っている自分に気づいた。それを汲み取るように、インターフォンが鳴った。すがるように駆け足で、インターフォンのモニターに向かう。
「あたし。話したいんだけど……。開けてくれない?」
案の定、妹だ。
「……今は、一人にしてくれないかな。やっぱりまだ『結婚』って言葉に混乱してるみたいで」
捻くれ者の僕は、こういう大事な場面で素直になれない。
「……じゃあ、ここでもいい。ここで、話しちゃだめ?」
そこまでして、マサくんとの結婚を僕に認めて欲しいのか。そう思うと切なくなる。玄関ドアが、「素直にドアを開ければいいのに」とこちらを見ている。
「わかった、このままでなら、話そう」
僕は、頑固で捻くれ者で素直じゃない。だけど、それは妹もわかっているはず。承知の上で、ドア越しに向き合ってくれているのだ。情けなくなる。
「確かにマサくんは、今は収入も少なくて、今後どうなっていくかわからない。だけどね、」
妹の言葉を遮った。
「どうしてぴったりな相手と結婚できないんだろう。箱の中の時計のように、ちょうどいい男と出会って結婚してくれればいいのに」
想像より力ない声で言っていた。
「ぴったりな相手?」
「いるだろう、ほかにも。お前の職場の同期とかさ。収入も文句なくあってやさしくて、そういう」
今度は、妹が僕の言葉を遮る。
「もちろん、肩書きや地位が合うから一緒にいられるって考え方もあると思う。でも、あたしは、なにもかも一緒で“ぴったり“なのは、窮屈に感じちゃうんだよね。肩書きや地位、趣味まで全く違うのに、一緒にいることが自然で、心が傍にいると思うだけで安心する。この人となら、どんなところにも行ける。そんなふうに思えたのがマサくんで、そんなふうに思えたマサくんと、お互い寄り道しながら、時々寄り添いながら、たとえいばら道だろうと一緒に歩いてやろうと思ってるの。あたし、幸せにしてもらいたいんじゃなくて、2人でいられたらそれで幸せなんだよ。あたしには、マサくんがぴったりなんだよ」
言葉に詰まった。
「ねえお兄ちゃん。あたし、お父さんとお母さんもすごく大切。お兄ちゃんのことも、まぁ、嫌いじゃない。あたしは自分の家族とマサくんの家族を、マサくんはマサくんの家族とあたしの家族を、それぞれ大切に思ってるんだよ?だから、お兄ちゃんは、家族が減るんじゃなくて増えるんだからね!わかってる?」
妹と、モニター越しに目が合う。語調は強いのに、妹の表情は柔らかく微笑んでいる。
「……だったら……だったら、ちゃんと話を聞かないとな。そうだよな。もう一度会ってやるよ。家でな、話をしようじゃないか」
なんだか変な口調になってしまった。別に妹に導かれたわけじゃない。あくまで僕がそう思ったのだ。僕の家族に受け入れるかどうかの面接をしなくては。
その厳しい面接から数日後、妹がマンションを去った。僕の目には、テーブルとその上にこの間のすき焼きが映っている。そのうちにその幻は消えて、代わりに、リビングの床に置かれた、箱に納まったままの時計が映った。これ以外は全て運び出されている。
結局新居にはこの時計が不要らしい。お金は取らないからと言い残して、妹は新居に行ってしまったのだった。
「可哀想に。出してあげるよ」
時計は嬉しそうに、秒針を盛んに動かしている。
父さんがこの世にいたら、妹の結婚について、どう答えていたんだろう。まぁ、これからか。過去ではなく、現在と未来を考えよう。時計の針はいつだって前にしか進まない。
自宅に帰り、リビングでビールを飲んでいた。本棚の上の、四人揃って笑う家族写真が目に入る。子どもは親から自立して、最後は親が家庭に残るっていうのがよくある話だけど、僕の家では違った。両親が交通事故で他界し、時には他人の手を借り、2人で支え合って生きてきた。妹が結婚したいと言ってきたとき、「家族がまたいなくなる」と思ってしまった。だけど妹は「家族が増える」と言った。だから、面接と称して会ったとき、マサくんを家族として迎え入れると腹に決めたのだ。家族が増える感覚はよくわからないけれど、今後は妹じゃなく妹夫婦の幸せをそっと見守るんだ。
それから半年。ついに妹が挙式する。式場は、妹曰く僕たちの親が式を挙げたらしい庭園で、僕は、その庭に造られた、花に囲まれたバージンロードを歩かされる。ああ、結婚して美人な妻と、真っ先に歩きたかったのに。なんでよりによって妹と?だけど、案外憂鬱じゃない。おだやかな空気が僕を包んだ。
タキシードをビシッと着たけど、やっぱり新郎のほうが華やかで、最近少しだけ有名な事務所のオーディションに合格したマサくんが、頼れる男に見えるから恨めしい。
「結婚式って、こんなに緊張するもんなんだな」
会場に入る直前、妹と並んでいるとき、震えた声でそういうと、
「お兄ちゃんが花嫁より緊張してどうするのよ」
と、笑われてしまった。
「幸せになれよ」
「え?」
「……いや、今のはただお父さんの声が聞こえただけだ。少なくとも、僕の気持ちじゃない」
そう言うと、妹はウフフと笑って、
「お父さんの声、聞こえるんだ」
とからかってきた。
「ああ、お母さんも祝ってるよ」
「お兄ちゃんは?どうなの?」
「え?僕?僕は……えっと」
いきなり、新婦入場のファンファーレが鳴り響いた。だからきっと、妹には、僕の囁いた「えっと」の続きが聞こえていない。しかし。
「……今までも、ずっと幸せだったよ」
妹は、目を赤くしながら、ケラケラ笑い出した。なんだよ、聞こえていたのか。
──幸せになれよ、誰よりも。
式が進んでいくのを、最前列で僕はただ見つめていた。そして、時折、思い出にふけっていた。
妹の今までの人生の大半を育ててきたのは僕だったし、笑うときも泣くときも一緒だった。
誰かにふられて泣いたとき、妹は必ず僕のところにやってきて、ひたすらその男の悪口を言いながら、僕の背中を殴打した。翌日に施設でいじめを疑われるほどの青あざになったこともあった。
厳かな挙式のあと、披露宴の始まりに、どうやら花嫁のブーケトスが始まるらしい。友人たちに囲まれ、妹は満面の笑みだった。僕は、一旦ここでトイレにでも行っておこうと、席を立った。
立った途端、顔にパシンと何かが当たった。思わず、それを手で受ける。ブーケが手のひらに納まっていた。
「ナイスキャッチ!」
妹がこちらに手を振っている。
……さすが馬鹿力。
次に箱から出るのは、僕の番かな、と言って笑った。