十二月三十日(木曜日)午後四時三十分
「じゃあはじめに、問題の電話をかけた人物は詩織姉さんだったと仮定して推理してみるわね」
「なるほど、数学の背理法だね。それで?」
「詩織姉さんが電話を七時三十八分にかけたのなら、坂下祐樹は犯人ではあり得ない。なぜなら、自宅のアパートにいた坂下が、犯行時刻の午前八時前に、テニスコートにやってくることはできないからよ」
「同時に菱川早苗も犯人ではなくなるね」
と、いじわるく恭助がつけ足した。
「そうね、二人が共犯でなければね……」
「共犯?」
「坂下祐樹と菱川早苗がつるんでいれば、アパートに二人でいたという証言が嘘かもしれない」
「もし、二人が坂下のアパートにいなかったとすると、どんな推理ができるんだ?」
「たしかにアパートで電話は受信されているから、どちらか一人はそこにいなければならないわね。ああっ! でもひょっとして……」
青葉が急に声をはり上げた。
「坂下の電話機には、留守番機能はついていなかったよ。今どき、珍しいよな」
と、恭助が予想していたかのように、平然と答えた。
「ああ、そうなの」青葉は、ほっとした表情を見せた。「それなら、坂下は電話のあった時刻に、テニスコートにいることができるわ。アパートで電話を受けたのは、早苗だった」
「でも、それなら坂下に電話をしたつもりの詩織が、早苗と二分間会話をしていたことになっちゃうね」
「そうじゃないの。その時刻に坂下はすでに犯行を終えていて、遺体を目前にしながら、テニスコートから詩織姉さんの携帯電話をつかって、自宅の早苗に電話をかけた! もちろん、ねらいはアリバイ工作ね」
「実は、まだ話していなかったけど、坂下祐樹が八時五分前にアパートから外出するところを、隣の住民が目撃しているんだ。訊きこみをしてわかったことだけど……。
隣人がごみ出しをして戻るときに、ちょうどタイミングよく、坂下が自室のドアから出てきたらしい。その隣人は時刻を七時五十五分だとはっきり断言したよ。なにしろ大雪の翌日の出来事なので、記憶も鮮明だったそうだ」
「ずるい! さっき、全部の事実を教えたっていったのに!」
「ごめん、ごめん。まさか、そんなに細かいところまでお前が推理するとは思わなかったから」
恭助は申し訳なさそうにあやまった。
青葉はあわてて考えこむ。「じゃあ、逆に菱川早苗が犯行現場に行ったのかな? 坂下はアパートに残っていて……」
「菱川早苗じゃあ、電話がアリバイにはならないよ」
と、あっさり恭助が否定した。
「いずれにしても、七時五十五分に自宅にいた坂下祐樹に、この犯行はできないわ。すなわち、犯人は必然的に、牧省吾になるわね」
「牧省吾か……」
恭助が呟いた。
「彼は、詩織姉さんが会う約束をしていた謎の男である可能性が一番高い人物よね」
「でも、もし牧省吾が犯人なら、お前がいったようにこの犯行は完全な密室殺人ということになるぞ。さあ、我らがシャーロック・ホームズ君よ。君はこの『白銀の密室』の謎をどう解決するんだい?」
と、恭助が皮肉っぽくいった。
瑠璃垣青葉がいい返す。「牧省吾が犯人であるならば、坂下祐樹が到着する前に、詩織姉さんの足跡だけを雪の上に残さなければならないわね」
「何か上手い方法があるのかい?」
恭助が興味深げに訊ねた。
「例えば、フェンスの外から、中にいる詩織姉さんを、何らかの飛び道具をもちいて襲うことはできなくて?」
「あり得ないな。前にもいったけど、詩織の頸部の傷は、剃刀のような刃物で至近距離から切られた傷だった」
「それじゃあ、その犯行はフェンスの外でおこなわれたの。喉を切られた詩織姉さんは瀕死の状態でテニスコートの中に逃げこんで、そこで息絶えてしまった……」
こういった瞬間、詩織の面影を思い出したのか、青葉は幾分声をつまらせていた。
「それもあり得ないね。コートの途中には足跡は残っていても、血痕は一滴もおちていなかったんだから」
「それもそうね」
とあっさりと青葉は恭助の言い分を認めた。「反対に、犯行は遺体が発見されたコートの中央でおこなわれた。牧省吾は、詩織姉さんを殺害後、前もって準備していた詩織姉さんの靴を履いて後ろ向きに立ち去った」
「おいおい、血迷ったのか? 牧省吾が、詩織の履いている靴をもう一足用意していて、詩織が歩いたかのごとく足跡を残しただって? やつの足の大きさでは、とても詩織のハイヒールは履けないよ。両手にはめて逆立ちをしながら歩けばいいけど、それじゃあまるで推理小説のワンシーンだな。それにその推理が正しければ、牧と詩織は、雪が降り積もる間、一晩中、テニスコートに一緒にいなければならない。さすがに、無理があるな……」
「うふふ、冗談よ。さすがの私でも今の推理が成り立たないのはわかるわ。結局、坂下祐樹には鉄壁のアリバイが成立するし、坂下以外の人物による犯行は不可能なのよね。
故に、仮定の間違いが証明されたわけね。つまり、七時三十八分の電話をかけた人物は、詩織姉さんではなかった!」
「ついに、背理法が成立しちゃったのか……」
恭助はくすくす笑っている。
いよいよ本題に入り、青葉の説明は流暢になってきた。「電話をかけたのが詩織姉さんでなければ、必然的に坂下祐樹は嘘の供述をしていることになるわ。すなわち、犯人は坂下祐樹よ!」
「そうだね。じゃあ、坂下はこの犯行をどのようにおこなったの?」
興味深げに恭助が訊ねた。
「電話がかけられたのは事実よ。それでは、その時刻に詩織姉さんは何をしていたのかしら? そもそも、詩織姉さんはテニスコートにいたのかしら? 彼女がテニスコートにいたという情報は、坂下祐樹の供述だけにもとづいているのよね……」
しゃべりながら、次第に問題の核心に迫りつつあるのが、青葉自身にも感じられた。
「七時五十五分に自宅で目撃されている坂下祐樹が犯人ならば、犯行現場はテニスコートではあり得ない。だとすれば、犯行現場は……、坂下のアパートでなければならないわ!」