十二月二十五日(土曜日)正午
美原詩織の葬儀は、遺体が発見されてから六日たって、ようやくとりおこなわれた。日程がのびた理由は、検死で遺体が戻ってこなかったためだ。
美原詩織はとある生命保険会社につとめるOLである。小柄で細身の割には、異性を誘惑するふくよかな胸を持ち、目鼻立ちが品よく整った、絶世の美女であった。
「首を掻っ切られて死んでいたそうよ」
「あれだけの美人だから、きっとどこかの男に恨みを買ったのよ」こんな会話が葬儀の最中にもかかわらず、ひそひそと囁かれていた。
瑠璃垣青葉は親族席の後方に腰かけていた。青葉は県下有数の進学校に通う高校生であり、その成績は常に学年トップだった。また、青葉は詩織とはいとこ同士であり、年齢こそ離れてはいるが、青葉にとって詩織は、仲よしで憧れのお姉さんでもあった。
やがて、葬儀も終わろうとしていたときに、背後から声をかけるものがいた。
「よう、優等生!」
はっとふり返ると、クラスメイトの如月恭助が立っていた。
「あら、如月君じゃないの。どうしたの、こんなところで?」
彼が詩織の葬儀に参列しているとは、ちょっと意外だった。
如月恭助――。学年トップの瑠璃垣青葉でさえも一目おく存在だ。成績こそ三十番前後だが、家に帰ると全く勉強をしていないと、彼のことはクラスで評判だったからだ。理数系科目は抜群に強く、そのレベルは高校生の範疇を大きく逸脱していた。ただ、暗記科目が平凡なために、というより努力の形跡が全く見られないので、先程の順位に甘んじているのだ。
あたりをきょろきょろ見渡しながら、礼服ズボンのポケットに両手をつっこんで、恭助は青葉に近づいてきた。
「お前、美原詩織とは親戚だってな。ちょっと、彼女の話を訊かせてもらえないか?」
相変わらず、がさつだなと、密かに思いながらも、顔色を変えずに青葉は応対した。
「別にかまわないけど、どうして如月君がそんなことを……?」
「うーん、つまりだな……、俺の親父が警察関係で、俺も捜査を時々手伝うことがあってな。今度の事件が、親父の管轄になってしまったのさ」
やや伏し目がちに、恭助が返答した。
「そうなの。それならお話しするけど、いったい、如月くんは何を訊きたいの?」
「じゃあ、まず、お前が知っている美原詩織の知人を教えてくれ?」
「知らないわ。いっしょに住んでいたわけでもないし……」
「そうか、それなら美原詩織ってどんな女だった?」
赤の他人である詩織を、気安く呼び捨てる恭助に、憤りを感じながらも、穏やかな表情を保って、青葉は答えた。「詩織姉さんは、とてもきれいな人よ。おしゃれだし、大人っぽくて……」
「そんなことは、見ればわかるよ。ほかには?」
このぶっきらぼうな言葉には、さすがにムッとしていい返した。「とても几帳面ね……」
「几帳面?」
「えっ、ああ、何に対しても、真面目に取り組み過ぎちゃうというか……。ちょっと思うように事が運ばないと、怒っちゃうときもあったわ」
「切れやすいのか……。まあ、美人にはありがちなことかな。ほかには?」
「ほかにはって? もうこのくらいよ、私が答えられるのは……。それより、犯人は逮捕されたって聞いたけど、まだ、事件は解決していないの?」
「そうだな、たしかにはっきりしているよ。容疑者の坂下祐樹をのぞいて、今回の犯行を実行できるものはいないね!」
「じゃあ、訊きこみなんて必要ないでしょう?」
「それはそうだが――。そうだな……。なんていうか、あまりにも坂下が間ぬけ過ぎるとは思わないか? 自分が有力容疑者なのに、あれだけぺらぺらと何でも証言しちゃったんだからな。話の内容もまったくとんちんかんだし……」
そう語る恭助を、青葉は微笑みながらじっと眺めている。それを意識した恭助は、少しだけ顔を赤らめながら、続けた。「仮にも、大学の医学部に合格した男だ。計画的に犯行を遂行しながら、同時に致命的なミスを犯す。そんなことがあるだろうか?」
「犯行は計画的なの?」
「ああ、計画的さ。間違いない」
「でも、ミスって誰にでもあるでしょう」
「仮に俺が犯人だったら、どんな理由があろうと、ここまで自分を追いこむミスはしないね。わざわざ衣服に被害者の血痕をつけて、自らの足跡を現場に堂々と残すなんて……」
「ちょっと、待ってよ。私にも理解できるように、これまでの経過を話してくれない? 如月君がさっきから何を悩んでいるのか、まったく理解できないもん」
この青葉の真剣な発言を聞いて、恭助は少しだけ冷静さを取り戻した。
「悪い悪い。そのとおりだ。じゃあ、これまでにわかっていることを話すよ。去る十二月十九日の午前八時五十二分、坂下祐樹から警察に直接電話がかかってきたのが事のはじまりだった。やつは元恋人が血を流して死んでいるので、すぐに来て欲しいと通報をしたらしい」
「電話の主は本当に坂下祐樹だったの?」
思いがけず発せられた鋭い問いかけに、恭助は目をまるくした。
「へえ、さすがは優等生だな。本人に電話をかけたかどうかを訊ねたら、かけたと認めたよ」
「ちょっと、その優等生って呼び方、やめてくれない!」
今度は青葉が怒った。
「ははは。それで、俺と親父が現場に行ってみると、テニスコートの外で坂下が立っていた。そのとき、やつの上着には血がべっとりとついていた」
「なんで、坂下は救急車も呼ばずに、警察に通報したのかしら?」
「そいつは、本人も何となくそうしてしまったと答えている。被害者の脈を直接調べて、すでに事切れたのを確認したから通報した、衣服の血は、多分、そのときについたと思う、と説明していたな」
「確かに犯人にしては、相当間ぬけね。普通、第一発見者は容疑者の最有力候補になってしまうもの」
「それだけじゃないぜ。現場のテニスコートには、前の晩に降った雪が十センチほど積もっていた。そして、雪の上には二つの足跡だけが残されていた。被害者の詩織と目撃者の坂下の足跡だ」
「どんなふうに残っていたの?」
「まず美原詩織の足跡だが、フェンスの扉から遺体まで続いていた。なぜか最初はフェンスに沿った方向に十五メートルほど移動して、それから急に方向転換をして、コートの中央に向かって真っ直ぐに歩いている。彼女が倒れていたのは二面並んでいるコートとコートの間で、そこは敷地のほぼ中央にあたる。だから、遺体からフェンスまでの距離は、どの方向にも少なくとも二十メートル以上は離れていたね。一方、坂下祐樹の足跡は、扉から真っ直ぐに遺体まで進み、遺体のまわりを少しうろうろしてから、真っ直ぐに扉に戻っていた。そして、坂下の足跡は、美原詩織の足跡を上から踏んづけていたよ」
「詩織姉さんがフェンスに沿って移動した周辺には、何かおかしなことはなかった?」
「特に何もなかったね。まあ、若干の遠回りをしたこと、それ自体がおかしいことだね……」
「施設の外には、足跡はなかったの?」
「扉の外には屋根つきの歩道が渡されていて、そこには雪はなかった。その歩道はそのまま駐車場を横切って、県道のバス停まで続いている。とどのつまり、足跡はテニスコート内でしか発見できなかったってことさ」
「ほかに現場に残されたものは?」
「詩織の遺体の傍には、彼女のショルダーバックがおちていたよ」
「どのくらい離れたところにおちていたの?」
「えっ……? まあ遺体から五十センチくらいかな。すぐ傍だよ。でも、ショルダーバックは中身が空っぽだった」
「空っぽ? どうして? それじゃあ、詩織姉さんはなんでわざわざバックを持っていったんだろう。携帯電話も入っていなかったの?」
「携帯電話は電源がオンのままで、彼女の上着のポケットの中に入っていたよ。それに、携帯電話を運ぶためなら、あんなに大きなバックは必要ないね。バックは普通の電話機でも十分に入っちゃう大きさだったよ」
「何か重要な書類でもバックの中に入れていたのかしら? とすると、犯人がバックの中身を持ち去ったのかな?」
と青葉は呟いた。
「それなら、その書類だけを持ち去るか、バックをまるごと持ち去ればいいじゃないか。バックにはほかにも色々な小物が入っていただろう。わざわざ、バックを空にして中身だけを全部持っていくなんて……」
「そうね、たしかに不自然だわ……」
突然、青葉は思い出したように高い声を発した。
「そうだ! 凶器はなかったの?」
「現場の周辺を立ち入り禁止にして、雪が完全に溶けるまで待ってから念入りに探したけど、それらしき凶器はどこにも見つからなかった」
「坂下祐樹は凶器を持っていなかった?」
「調べたけど、彼の身体や車の中からは何も出てこなかった」
「きちんと地面の下まで掘って探してみたの?」
「ああ、そこはハードコートだから、地面に穴を掘るのは不可能だよ」
「ひょっとして、凶器はつららのように尖った氷だった。やがて、凶器は日光に照らされて消えてしまったとか?」
「それはないよ。被害者の頸部の切り口は、剃刀のような鋭い刃物による切り傷だったからね」
「坂下が犯人だとして、警察がやってくるまでに凶器やバックの中身をどこかに隠すことはできる?」
「それは、まあ、できるだろうね」
ここで青葉は深くため息をついて、眼を閉じて、考えこんだ。その横顔を眺めながら、恭助も考えていた。学年ナンバーワンの優等生、瑠璃垣青葉――。美原詩織ほどの華やかさはないが、聡明でしとやかな少女……。
「坂下は現場にいた理由をどう説明したの?」
「そうか、そいつはまだ話していなかったな。坂下は詩織から電話で呼び出されたと証言した。午前七時半頃に、坂下のアパートに美原詩織から電話があったそうだ。それが、詩織のポケットの中にあった携帯電話から直接発信されたことも、それを坂下のアパートにある固定電話が受信したことも、電話会社に問い合わせて確認したよ。通話時刻は正確には、七時三十八分からおよそ二分間だ」
「つまり、詩織姉さんが直接かけたのね……」
「まあ、そういうことだな。その電話で詩織は坂下に、これからある男と会う約束をしているが、いっしょに立ち会って欲しい、と話したそうだ」
「男と会うっていったの? 姉さんが?」
「確かに坂下はそう証言したよ。それから、坂下は八時半に現場に到着したらしい。この時刻は、やつが警察にかけた電話とも矛盾していないな」
「ちょっと待って。詩織姉さんの死亡推定時刻は……。その……、もう警察は調べたのよね?」
「検死の結果、犯行がおこなわれた時刻は、午前七時半から八時までのほぼ三十分間である、と鑑識医が断言したよ」
すかさず、青葉が訊ねた。
「坂下のアパートから現場まではどれくらいかかるの?」
「最短時間の移動手段は車だろうな。おそらく三十分くらいだろう。朝ならもうちょっと早く着くかも知れない。ただ、十五分では無理だな。信号もあるし……」
「じゃあ、七時四十分の電話を自宅で受信した坂下が、八時前の犯行時刻に現場に到着するのは不可能ってことね。アリバイが成立するわ」
「ふふふ、それもそうだな。やつも単なるぼんくらじゃなかったってことか?」
「でも、疑われたくなければ、鉄壁なアリバイよりも、自分以外の容疑者を用意するほうが得なのに……」
青葉がぽつりと呟いた。
「俺の勘だが、この事件は間違いなく周到な計画の下で実行された犯行だ。被害者から容疑者にかけられた電話、降り積もった雪、その上に残された被害者と容疑者の足跡、現場におちていた携帯電話と空っぽのショルダーバック、おびただしい血……」
最後に、如月恭助はおもむろに謎めいた一言をつけ足した。
「しかし……、仮にこの事件で、坂下祐樹が真犯人でないとすると……」
間髪を入れずに、瑠璃垣青葉が補足した。
「――この犯行は『完璧な密室殺人』になるってことね!」