一話
それは一人の男子高校生の不変的日常を、跡形もなく崩した瞬間だった。
時刻は午後五時過ぎ。
この市内で一番大きな駅前──ではなく、寂れた駅前から出る桜台行きのバスは、午後五時三分に出発する。
バスの中には、部活帰りの学生が詰まっている。学生服はざっくばらんで、桜台に家がある、又は用事があるという概念的共通点しかない。
バスの中は賑やかで、学生という名の限られた時間を生きる若者のたちの話し声で賑やかだ。
やれ「あいつは誰が好き」だの、やれ「あの先生がうるさい」だの、やれ「明日の部活は」だの。
例に漏れず一人の男子高校生──畠山 直哉も、限られた時間を謳歌する学生だった。
白いワイシャツは第一ボタンが開けられ、黄色のTシャツが薄らと透けて見えている。
袖が肘下まで捲られ、筋肉質な腕が伸び、吊革を掴む手は大きい。
大きい手と対するようなローファーは草臥れていて、スクールバッグが足の上に置いてある。
「あー……明日の英語だりぃ」
そう言ったのは、畠山の隣に立ち縦棒の手すりに掴まっている友人だった。
「ん? あぁ、明日当たんのか」
「そう! 俺一番英語嫌い!」
「俺もあんまり好きじゃねぇなァ」
あの先生は学校の中で一番教えるのが下手くそだ。と黒板に向かって話している英語担当教師の後ろ姿を想像していると、アナウンスがバス内に響き渡った。
「次は元町三丁目。元町クリニックはここが最寄りです」
女性の声のアナウンスに反応した畠山の友人は、足元に置いていた鞄を肩にかけた。
「んじゃ、また明日な!」
「おう」
友人がバスから降り、プシューと空気を吐き出すような音を鳴らしながらバスの扉が閉まっていく。
そしてまたゆっくりと、バスは進み出すのだ。
限られた時間を生きる学生たちを乗せて。
青春の定義とはなんだろうか。
部活動に全力を尽くしていることだろうか。もしくは、誰かに恋をしている時だろうか。はたまた、学校内で起こること、その全てが青春なのだろうか。
そんなことはないだろう。大人はきっとこう言うのだ。「あの輝かしい時間、全てが青春なのだ」と。
何事にも変え難い時間なのだと、畠山が理解するにはまだ年月が足りない。
否、今も青春の盛りな畠山は気が付いていないのだ。
そう。畠山の青春は何も学校の中だけじゃない。友人と別れを告げたあとにも続いている。
──一人用椅子に座り、窓に頭を預けて目を閉じている。艶やかな黒髪は胸まで伸びていて、くせ毛のない髪は柔らかそうだ。
あー……今日も可愛い。
畠山の一目惚れだった。
学校帰りのこの時間のバスに乗れば、かなりの高確率で会える──とはいいつつ、畠山の一方通行だが。一目惚れの彼女に会えた。
彼女の名前も知らない。どこで降りるのかも知らない。少なくとも畠山は終点から遡って三つ目の停留所でおりる。だから、それ以降の何処かで降りているのだろう。
何も知らないとはいえ、知っていることだってある。
彼女の制服は、市内でも有名な女子進学校の制服だ。
可愛くて頭もいいとか、天は人に二物を与えないんじゃなかったっけ?
俺にもなんか授けてくれて良くない? 顔面偏差値とかさ。
路面状況に応じて揺れる車内。友人が降りたところから、いくつかの停留所を過ぎた。車内は停留所を超える度に、一人、また一人と降りていき、がらんどうに近付いていく。
ふと、畠山がバスの中を見渡せば、乗車している人は、畠山と、彼女と、あとは二人掛けの席に乗って寝こけている見知らぬ男子学生が一人と、その後ろに座っている女子学生が二人。
それ以外に客はいない。
挙句、手すりに掴まり立っているのは畠山だけだ。
これだけ座席が空いているのに、座らないのも変だろうか。変だろうな。と自問自答の末、畠山は足の上に置いていた鞄を手に取り、彼女の後ろの席を陣取った。
平均身長よりも高い畠山は、脚が長く、学校の机の中に脚を収めることが苦痛だった。勿論バスの座席感覚は畠山にとって狭く、ベストな位置といえば、比較的ゆったりとしているバスの半分から後ろの席だ。
だが、その席には問題があった。
それは一目惚れをした彼女がいつも座る席から離れてしまうということだ。
出来れば間近で彼女を見たい。と自身の思いを優先させた結果、畠山は今長い脚を狭い空間の中に押し込んでいる。
窓に頭を預けている彼女は、バスの揺れと共に僅かに揺れているだけで、起きる気配はまるでない。
後ろ姿も可愛いとか、ヤバいな。
本音を言えば、起きている姿を見たいし、名前だって知りたい。もっと欲を言えば話をしたい。ごめん。欲深に言えば付き合いたいし、あれやこれやをしたい。具体的に何とは言わないけどさ。
いやほんとごめん。男子高校生なんてこんなことばっかだから。引かないでくれ。なんて誰に言ったのかもわからない謝罪の気持ちを口から吐き出すことはなく、畠山は前の座席に座っている名前も知らない彼女を真似するように、窓に肩を預けて目を閉じた。
路面状況に合わせて揺れるバスの揺れが妙に心地よく、部活の疲れも相まって、誘われるように畠山は眠りに入った。
「次は終点桜台。桜台。皆様お忘れ物がないようお降りください」
そんなアナウンスで畠山は目が覚めた。
ハッと窓の外の景色を見れば、普段降りる停留所とは違う景色が広がっていた。
は? マジで?!
一瞬混乱した畠山は、窓に預けていた上半身を勢いよく離し、外の景色から現在地が何処なのか情報を取り入れた。両目を左右に動かし、窓の外で流れていく景色を見、家から少しばかり遠くに来ただけで、徒歩圏内で帰れることを理解した途端、どっと力を抜いて再び窓に肩を預けた。今度は眠ってしまわないように。
しっかし、こんなうっかり久し振りにやったわァ。
結構ショックだな……。
そんなに疲れてたんかな。と今日の部活内容を思い出しながら、真っ暗に染まっている窓を見ると、前の座席に座っている彼女が起きていることに気が付いた。
マジか。この人終点で降りてんのか。と一つ彼女について知ったと同時に、畠山にもう一つの幸運が訪れた。
横顔も可愛いとか最強かよ。
始点の駅からこの終点まで中々の距離がある。夕方だった景色が今は暗く染まり、窓が彼女の横顔を映している。
可愛い。くそ可愛い。は? 可愛いを具現化したみたいじゃん。
「……あっ」
思わず出た音を防ぐように口を掌で押さえたが、防ぎきれなかった言葉が走行中のバス内に溶けていった。前の座席に座っている彼女には聞こえたかもしれないが、赤の他人の声になんて三秒後には忘れてしまうだろう。
赤の他人なんだよなぁ……。うわ、なんか凹むわ。
いやいや、そこじゃない。凹んでいる場合ではないのだ。
俺は大変なことに気が付いてしまったのだ。そう、このまま彼女の横顔を無断で眺めるのは、犯罪なのでは? そんな疑問が畠山の罪悪感を刺激した。
眺めていてもいいなら、眺めるさ。然し、相手は知り合いでもないのだから、見すぎるのは良くない。むしろダメな部類だ。
自制心を働かせる為に、頬を両手で挟むように叩けば、パチンと軽い音が車内に響く。流石に後ろの人変だな。って彼女に思われたくないからいい加減に大人しくしようと、息を吐き出すと、バスは減速し素朴なバスターミナルに入り停車した。
空気を吐き出す音を発しながら開いた扉。先に立ち上がったのは前の座席に座っていた彼女だった。後を追うように畠山が鞄を持って立ち上がり、バスから降りると、彼女はスクールバックを肩に掛け歩き出していた。もう片手にはビニール袋が握られている。
これは……これは、チャンスなんじゃなかろうか。
このチャンスを逃したら、もう次はないんじゃないだろうか。でも、彼女に何て話しかければいいのか……。
いいや、ヘタるな。行け! 俺!
畠山は数メートル先を歩いている彼女の背中を追いかる為に走り出した。
草臥れたローファーが砂利を蹴って、身体の重心が前に寄る。彼女に早く駆け寄りたいという気持ちが、身体をけん引しているような、そんな気さえする。
「あのっ!」
彼女の名前すら知らない畠山は、なるべく大きな声を出して彼女に話かけた。
桜台は住宅地を少し抜けたところにあり、辺りに人の姿はない。そんな中後ろから話しかけられれば、少しは自分のことだろうと思う。
畠山の声に反応した彼女は、ぴくりと肩を震わせ恐る恐る後ろに振り返った。
その光景は畠山の目にはスローモーションで映った。
ただの女子高生が振り返っただけなのに、それなのに、神秘的な光景に見えたのだから、恋とはどれだけ人の脳を溶かしていくのだろうか。
言い訳をしてもいいのなら、丁度彼女の頭上に街灯があって、それがまるでスポットライトに見えた。とだけは言っておこう。
何をどう取り繕うが、畠山が振り返った彼女に見惚れ、呼び止めた癖に要件も言えずにいたのは紛れもない事実だった。
「あの……?」
可愛い彼女は、声までも可愛いらしい。
何処まで可愛いでその身体を構成したら気が済むのだろうか。
「えっ……と?」
「あ! すんません! 呼び止めたのに……あっと、その、俺……」
呼び止めたのに、要件何て何もない。
折角のチャンスを棒に振りたくはない。その一心だったから。
でも、彼女にとって急に話しかけられるのは恐怖でしかないのではないだろうか。
ヤバい。引かれる!
「あの、俺、畠山 直哉って言います!」
「……はぁ……」
「突然話しかけられて、怖い思いさせてごめんっス!」
「……」
「俺、あなたを一目見た時から気になってて、だから、俺の名前……というか、俺のこと、少しでも覚えて貰えたら、嬉しいっス……いや、すんません。気持ち悪ぃっすよね」
途中で何を言っているんだ俺は。と冷静になっていく頭と比例するように畠山の言葉が尻込みしていく。
さっきまでの勢いは何処に行ったのか。もうまともに顔も見れやしないと、首の後ろに右手を回し顔を俯かせた。
ヤバい。これは完全に不審者。絶対に引かれた。
顔の色を失っていく畠山の耳に鈴を転がしたような笑い声が聞こえる。
ころころと転がる鈴の音は控えめで、畠山は勢いよく顔を上げた。
幻聴か? その答えを知りたくて、恥ずかしさに勝った。眼前には可笑しそうに口元を指先で隠しながら肩を揺らして笑う彼女。
なんて幸せな光景だろうか。
「ふふ、ふ……おかし……ふっ」
「俺、そんなおかしなこといいました? いや、言ってるか」
おかしなことを言った自覚はあったが、それは頭のおかしなことを言っている自覚があるだけで、彼女を笑わせるようなおかしなことを言った自覚はまるでない。
それでも彼女が笑ってくれるのなら、それでいいか。と畠山は困ったように、首の後ろに回した右手の指先で後頭部を数回撫でた。
「んふっ、私、てっきり連絡先を交換して、とかって言われるものだと思っていたの」
「まさか、自分のことを覚えて欲しいって言われるなんて思わなかったの」と肩を揺らしながら笑う彼女を前に、畠山もつられて笑った。
二人揃って肩を揺らし、声を出して笑いあった。おかしさが身体から出し切ると、夜特有の静寂さが目立つ。それでも、つい三分前にあったような気まずさはない。その証拠に二人の視線は逸らされることなく見つめあっている。
「私の名前は白井 さよ。私の名前、覚えられそう? 畠山くん」
「当たり前っす。ずっと知りたかったんだから」
「これから、よろしくね」
「お、おう」
この瞬間、一人の男子高校生は大きな音を聞いた。それは身体の内から聞こえるもので、心臓の音とも違う音だった。
時計の針が時を進める音。カチッと一度だけ聞こえたその音は、やけに印象的で、不変的な日常を跡形もなく壊していくような気配がしたのだった。
最後まで読んでくださりありがとうございます。
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