硝子
濃紺の記憶はときどきまだらに散っているだけで、そろそろ白に近づくまで色抜きされたハイウエストのジーンズのボタンを華奢にくびれた腰に留めて、そこからあでやかに移るお尻を砂色のソファの先へちょこんとのせながらスマホを見つめている玲を眺めていると、ふとこちらを向いて、
「どしたの?」
「ううん。何でもないよ、続けて」そう返しながら思わず片手を口元に持っていくと、彼女はスマホを握った手を膝の上に置いて、眉と瞳に淡い疑問符をつけながら、
「続けて?」
「いいから。続けて。玲を被写体にしてるから」
「そう」と優しい笑みを浮かべながら答えると、彼女は顔をもどすまえに一度足元を見つめて、地面につけていた足をのばして硝子のテーブルの上に右足のかかとをのせ、その上に左の足首をのせて再びスマホに視線を落とした。下へ向けた頭につられて頬にながれた横髪が日に焼けていない青白い肌をやわらかく隠すと、細い顎を越したつややかな髪は毛先へゆくにつれてゆるやかに輪郭を追う。ひとしずくぽたりと不意に先から落ちそうでいて、濡れていないそれはしかしあくまで黒く潤って、重力にあらがいつつもしなやかさは失わない。
玲は交差した足を解いてソファに体をあずけるや、今一度足を硝子に置き直し、両手はソファに添え、指先で旋律を奏でながらこちらに視線を送る。照れよりも慣れが勝った風情の瞳との交わりを避けて、前へ投げ出され、デニムに包まれた淑やかな脚を一息に終着までたどると、おろしたてらしく純白で保護された足裏がつま先から中央につれてなめらかにくぼみ、それから端へかけてのぼって行って止まったかかとに、ごく小さな灰色が一つ浮いている。
目を上げると、彼女は故意には浮かべられない、それでいて微笑むことに慣れ疲れた人にだけ浮かぶ微笑を目と口とにたたえて、瞬間、口角を上げた刹那のえくぼとその周囲のほのかな紅潮が、いつものようにその顔を幼く愛くるしくしたかと思うと、ふいに足先をぶらぶらさせて、こちらの視線の自由を奪った。
自由? それとも束縛だろうか。官能とは微笑を交わしあっても衝動とは縁の薄い視線。汗をたらす年齢を過ぎ、晴れて純粋に手にする視線。ただそれは予期したよりも早く訪れる。結婚を検討しはじめる歳より一段と早くそれが来たのは、祝福すべきだろうか。
「ねえ」と、玲がこちらの視線を優しくつりあがった黒目勝ちの瞳でつかまえた。
「ん?」
「テレビつけてもいい?」
「どうぞ」
「ありがとう」そう丁寧に言って、リズムをとるように二三度頷くと、もたれた体をソファから起こし、空色のカーディガンにくるまれた手の助けを借りながら純白の両足で立ち上がる。身長一六四センチのすらりとのびるしなやかな脚とそれに連なるあでやかな腰が、青空と白雲とのあわいの色を醸す、ジーンズにぴったり包まれているのに、見とれるうち玲は足を踏み出して、やわらかな足音の歩みでテーブルをまわり、前かがみに空色の前足を伸ばすと、反らした指先をうちに返しながらテレビ台からリモコンをつかみとった。
電源をつけてチャンネルを回しつつもと居た席に帰ると、たいして気を惹く番組はないらしく、早々に電源を消した。しかし諦めきれないのか右手にリモコンを握って左手にスマホをつかみながら、テーブルに足を投げ出して交差し、機器をつかんだ両手は膝の上に置いたまま、瞳は宙に浮いてぼんやり何も見ていない。このいささか行儀がなっていないような所作は、出会った当初は見られなかったもので、いつか気が緩んでいたのだろう、テーブルの上に伸ばしているのを、ふいとこちらが見つけて気に入って、玲はすぐに引っ込めたけれど、「続けて」と今日のような調子で言ったのがきっかけで彼女も構わなくなった。
足を無造作に投げ出すのも、心の底から嬉しそうにしていたり、時に硬い微笑を浮かべるのも、はたまた能面のごとき表情に一瞬で落ち、楽しげでいたり、退屈そうにしていても、演技をしていようが、繕っていようと、あるいはまったく無垢のままの仕草であろうとも、こちらとしてはどの彼女の姿態も、ひとつの同じ平面上に眺めて感じているのであり、いずれにしろ目を離さずにはいられない。
誰かの作品に、自分好みの女に育て上げたい、という願望を持った男が描かれていたけれど、そんな望みは現に生きている、透明な生命を無視して初めて成り立つ。一人の理想の女を追うよりも、現実に生きる女をそのままに認めて、眺めて触れて、戯れつついろいろと渡り歩きながら、そこに生きている生命を慈しみ尊ぶべきではなかろうか。
玲を見ているうち、虚空にぼんやり漂わせていた目をこちらへ向けて、その瞳はとろんとしたまま、スマホを離して上げた反りかえる指先で、夢見がちに手招いた。もう少し、ここから眺めていたい。隣り合うなら他に適任もいるし。
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