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歴史とDNA

殷のルーツとハプロ

作者: とびうお君

 殷というのは日本と深いかかわりがある。良く呉越の崩壊が渡来のきっかけだとあるが、私はその前から海洋民族の渡来があったと見ていて、その時のキーが中国東海岸部にあると見てて、ここと密接に関係する殷はとても重要だと見ている。殷の滅亡と関係して斉の成立時に山東半島で東夷の征服戦争があったため、この時の流民も日本に来た可能性がある。


 それも殷と関わる出来事になる。日本は呉の王族の子孫だとあるが、これは多分無い。これ多分伝承が間違って伝えられたと見ている。それと言うの周の王族に近いハプロがベトナムで出る。南北に呉は分かれて移住した可能性もある。船を使っていたので、陸伝いの逃亡とそのあたり違う。


 ベトナムにもO1B2がそれなりに出るため、呉の流民はベトナムに向かって日本に北上したなどの説もある。どちらにしろ、呉の王族が生き残ったならそれはベトナムの方が関係性が深くて、その流れと深く日本の弥生人が関係するために正確ではないが王族の子孫だと言う伝承が残ったと思われる。


 中国ではこのように南部の遺伝子が北部に北部の遺伝子が南部にと言う大きな流れがハプロから分かる。問題は時期がとても難しい。


 殷のルーツで分かるのは、中国の寒冷化の時期に南下した勢力があるのは有名である。以前は調べ方が悪かったのだが、良く見てみるときちんとベトナムまで明らかな北方由来のC2Cが南下した形跡がある。これは元からいたグループじゃない証拠がある。ベトナムほど起源が古い。だが古すぎない。


 この微妙さが答えだと見ている。仮に古いC2Cが残ったならもっと特異な分岐になってるからになる。基本この分岐は偶然の一致はほぼ無い。確率的にそんな器用な分岐はし無い。本来先端が一番新しい。だがこの場合は違う。何故か?過去に大規模な南下の跡が古い人骨からもう分かっている。その後騎馬民族の中国侵入によりC2Cはさらに南下する。


 この場合新しく南下したグループは騎馬民族の系統で系統が違う。この系統比較的浅い時代に分岐したため新しい分岐が北部に固まるようになってる。通常とは全く逆の遺伝子の流れになっている。


 殷はこの古い世代の遊牧民のグループだと思われる。そもそも遊牧民で無い可能性も高い。だが、殷の制度にあっちこっちに遊牧民的な色が見えるそうだ。だが、その歴史は先史時代に遡る可能性がある。そもそも夏が実在しても殷はその次に古い。先史時代と大差が無い。それなら以前から書いてる事と変わらなくなる。


 そこと異なる今回の話し、殷は戦車と使ったとあるが、初代湯王がその戦車のルーツになってるが、これは疑わしい。夏の存在を疑ってるわけじゃないが、歴史の詳細は多分創作だと見てる。伊伊がまず太公望とにすぎている。そしてけつ王とちゅう王がにすぎてる点から、多分歴史的に古い夏と殷の交替が事実でもその詳細は創作だと思われる。


 それと言うのも戦車が確実に認められるのは殷の後期になってからで、殷はとても歴史が長い。夏に繋がる歴史があるのは確実ではないが、馬車が伝わってきたのがその古いルーツで、戦車はいつ発明したのか?伝わってきたのか?が実は良く分かってない。史記の虚構をそのまま歴史と捉えるのはかなり不味い。


 北方の遊牧民的な民族が南下して夏と連合する殷を作り上げた。こういうストーリーとは違う可能性がある。国家を作るような部族集団が出来上がったのは、むしろ後からだと思われる。このタイミングがとても重要で、殷のルーツはベトナムにむかって南下した寒冷期の遼河文明をルーツに持つC2C集団だと思われる。


 後の歴史の戦車を使った攻撃的な遊牧民が南下したルーツではないと思われる。


 私は今まで、南方の農業部族を北方の戦車遊牧民が支配した結果できた部族だと思っていた。殷の遊牧民的な部分は、実際は過去の民族の名残に過ぎなくて、すでに土着の農業民と一体化していた可能性が高い。殷のルーツは南蛮、東夷で北方の遊牧民の部分は無いと思われる。


 戦車は後から国家を作った後取り入れたのであって、それを駆使する北方遊牧民が南下したルーツではおそらく無い。殷=C2Cは殷の王族の子孫のハプロからの推測になる。C2Cは南下したのは間違いないが、もちろん残った可能性もがあるが、あの付近のC2Cの多数派は、寒冷期の時期の東南アジアの中国化の時期の子孫だと見ている。


 それだけベトナムではC2Cの割合が高い。当然O2も高い。ただO2はその後の中国の歴史で南下したものもあり、C2Cはその後モンゴル帝国以外は派手になんかした集団は居ない。そうなると、分岐や時期の古さの微妙さからほぼあの時期の子孫だと分かる。当然その途中にも残してきたはずなので、それが殷の祖先だと見ている。


 殷はだから支配集団も比較的弥生人の中で中国南部に由来するグループ=O1B2と近い民族だったのじゃないか?と見ている。根本的にはあまり変わらない。だがその時期が全く今までの考えと私は違っている。今までは百済と良く似た民族構成だと思っていた。山東省から中国南部にかけている海岸部に近い農業集団を北部戦闘系遊牧グループが支配する事で生まれたと考えていた。


 だがどうもそういう感じじゃなくて、もっと融和が進んだ中で、祖先の習俗がやや残ったグループが支配者になって出来上がった土着のグループだと見ている。


 元々あの付近は遼河文明で大体括れる。それで大雑把に捉えていたが、詳細は違うのかもしれない。

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