姉と弟
万物創世から発生し、自然と成った。
やがて、生命が誕生し進化を繰返し、“ひと”と呼ばれる器が出来た。
その器に、精神と知恵を宿したのが、わたしたち。
これは、同じ器に万物の性質を宿した“ひと”が織り成す物語――――。
マグカップを両手で包み込み、冷えた指先を温める。
生姜の香りと共に立ち上る湯気を、ふぅっと吹く。
真っ白なそれは形を崩して消え、そのそばから、また新たに立ち上った。
まるで……生命のようね。
そんなことを考える今日のわたくしは、ちょっぴりおセンチ、なのかもしれない。
窓の外では、畑に降りた霜が朝陽を反射し、小さく煌めいている。
「今日も、穏やかな日になりそうね」
「……そうだといいですね」
面白くない反応に、眉を顰める。
これは、前触れだ。
この男が、わたくしの言葉にひねくれた返答をするとき、なにかが起こると相場が決まっている。
振り向くと、蔓に繊細な細工が施された眼鏡の奥から、冷やりとしたオモイカネの瞳が、パソコン画面を見つめていた。
「……なにがあるというのですか?」
「来ますよ」
だから、なにが?
問う前に、デスクの上にある黒電話がけたたましく鳴った。
「はい、高天原役場……」
「アマテラス!! 今日の予定は!?』
電話口の女性の声から、一瞬にして緊張と緊迫した様子が伝わる。
「今日の予定? ウズメの? それとも……」
『アマテラスの!!』
珍しい。
いつも天真爛漫で陽気な彼女が、このように取り乱すなんて。
「今日は、いつものようにお散歩……いえ、視察をする予定ですよ?」
『弟クンと会う予定は!!?』
その言葉に、空気が張り詰めるのを感じた。
「スサノオと会う予定? ありませんよね?」
オモイカネに視線を向ける。
彼は、小さく首肯した。
「スサノオが来ているのですか?」
『うん、まだ高天原には入ってないけど、近くに来てる!! 地鳴り、聞こえる!?』
「地鳴り!?」
耳を澄ませると、電話口の向こうでは、地を震わせる低い音が確かに響いていた。
こんな音を轟かせながら……。
「わかりました、報告ありがとう。また何かあったら、報告してください」
『わかった!』
受話器を静かに沈め、息をひとつ吐く。
「スサノオが、この町に向かっているようです」
「では、早急に出迎える支度をしましょう」
オモイカネが動じる様子はまるでなく、眼鏡を押し上げただけだった。
スサノオは、わたくしの弟だ。
弟が姉の元を訪ねることなど、世間一般には珍しいことではないだろう。
ただ、わたくしたちは、“世間一般”とは画された存在。
故に、わたくしたち姉弟の関係は、そう単純なものではない。
わたくしたちは、この世に生を受けたその日から、お父様から役割を与えられている。
アマテラスは、この高天原を。スサノオは、葦原を治めるようにと。
葦原は、豊かな海を有する広大で雄大な地だ。
それを治めることは、もちろん容易くない。
常に目を配り気を配り、先を読みながら的確な判断をしなければ、土地や海はたちまち荒れ狂い、生活の安泰も損なわれる。
そんな大業を任されていることを、スサノオは自覚しなければならないというのに。
逞しい体躯を手に入れても、口髭を蓄えるほど歳を重ねても、彼はまだ、大人になれないでいる。
そのせいで、葦原の野山は枯れ果て、海や河川は干上がり、大地は生気を失って、葦原の秩序は乱れていた。
「一体、何を考えてのでしょう……」
「何かを考えているとは、思えません」
「それは……そうね……」
オモイカネの冷酷な言葉にも、同調せざるを得ない。
きっとまた、自分の立場を弁えもせず、思いつきで行動しているのだろう。
そして、この地に断りもなく、正に土足で踏み入ろうとしている。
高天原の平穏を任され統治する者として、黙って見過ごすわけにはいかない――。
肩を覆っていたストールを椅子の背もたれに掛け、下ろしていた髪を高い位置で結い上げた。
「アマテラス!」
「なんですか」
「まさか! 貴女が直々に出向くおつもりですか!?」
オモイカネは派手な音を立ててデスクから立ち上がり、わたくしに詰め寄ってきた。
「もちろん」
「許しません!!」
真っ直ぐにわたくしを見据える彼の瞳は、いつもの冷静さを欠いている。
「わたくしでは、不安ですか?」
「当然です!」
自嘲が零れる。
「即答されるほど、わたくしは信用されていないのですね」
「そうじゃない!!」
背けた顔が、オモイカネの冷たい指先によって引き戻される。
「信じていないなら、私はここにいません。それくらい、わかりますね?」
……諭すような物言いをしてくれる。
手を払い除けて背を向け、執務室のドアへ向かう。
「あなたの気持ちは嬉しいけれど。これは、わたくしの責務です」
「ではせめて、武術に長けた者を共に……」
「掻き集めている時間などありません」
「ですが!!」
「オモイカネ。あなたに、お願いしたいことがあります。適任は、あなただけと信じて……」
ドアノブに手を伸ばして、振り返る。
「留守を頼みます」
決意を込めて、微笑んでみせる。
わたくしの揺るがない態度に、彼は、肩で大きく息を吐いた。
白装束に身を包み、弓矢を担ぐ。
結い上げた髪や両の手首には、邪気払いの御守りである玉飾りを、幾重にも巻きつけた。
実の弟を出迎えるにしては、やけに物騒な格好をしていると、我ながらに思う。
背の高い樹木が並ぶ山道は、わたくしの胸の内を現したように、靄がかかっていた。
湿った土に、一歩、また一歩と、足跡を深く刻みながら、河川に沿って下る。
腰に携えた靱の中では、矢が擦れ合って音を立てていた。
視界が悪いせいで神経が鋭くなり、吐き気さえ覚える。
まるで岩石を背負っているかのように、体が重い。
スサノオは、一体、なにを思っているの……。
葦原の救済を求めて?
それなら、事前にアポイントを取って段取りをするのが道理。
葦原の管理が面倒になって、放棄した?
考えられなくはないけど、高天原を目指す直接の理由にはならない。
思い立って、ただ遊びに来ただけ?
息抜きくらいなら付き合いたいところだけど、葦原の現状を考えると、そんな悠長なことは認められない。
如何なる理由にしても、定められた手順を踏んでいない限り、安易に受け入れるわけにはいかない。
ただ…………。
願わくは、悪いことでありませんように。
高天原のみんなを、安心させたい。
早く、安心したい……。
不意に、対岸から、小石が転がる音が聴こえた。
矢を抜き、弓を引き絞る。
「止まりなさい!!」
矢が空を裂き、弧を描いて対岸に突き刺さった。
「おわっ!! ちょっ!! えっ!? ね、姉ちゃん!!?」
向こう岸にある姿は見えないが、相手が誰であるかは、互いにわかった。
「腑抜けた呼び方はおやめなさい!!」
豊かな清流に、姉弟の声が反響する。
「んなこと言ったって!! てゆか、なんで弓矢なんか持ってんの!? 殺す気かよ!!」
「あなたの魂胆によっては、それも厭わないわ! 申し入れもなくこの高天原に来たのですから、それなりの覚悟があるのでしょうね!?」
「……覚悟?」
わたくしの言葉を、スサノオが確かめるように呟く。
そして、沈黙した。
いつも軽口を叩いてばかりで、間を置くことなんてないのに。
早く、なにか言って…………!
「覚悟なら、あるよ」
心臓が、大きく脈打った。
「だから、姉ちゃんの顔を見に来たんだ」
熱が、胸に迫り上げる。
「…………どういうことです?」
声を、振り絞る。
「母さんのところへ行く」
火が点いたように、こめかみが熱くなった。
「っなにを言ってるの!? 冗談じゃないわ!!」
「そうだよ! 冗談じゃない! 本気だ!!」
冗談であったとしても、笑えないのに……!!
目眩がした。
倒れそうになるのを、どうにか堪える。
いっそのこと、倒れてしまいたいとも思いながら。
なんで……。どうして、そんなこと…………。
「…………来なさい。話を……聞きましょう」
スサノオの言い分を聞き入れるため、ではない。
その決意を覆す粗を探して、説得をするためだ。
渦巻く感情の正体がわからないまま、上流を目指した。
わたくしたち姉弟は、母の温もりを、優しさを、愛に溢れた厳しさを知らない。
きっと柔らかだろうその声で、名前を呼ばれたこともない。
幼少の頃から、スサノオが亡き母をとても恋しがっていることは、もちろん知っていた。
お母さんに会いたい。一目でもいいから。
そう願ったことくらい、わたくしにだって何度もある。
けれど、今は、そのときではない。
やるべきことをやりきって、命を果たしたとき。
母の胸に飛び込もう。思いきり抱き締めてもらって、髪を撫でてもらおう。
だから、今を一所懸命に生きよう。
そうやって、奮い立ってきた。
それに、わたくしは独りじゃない。
心強い仲間たちがいる。決して淋しくない。
それは、スサノオだって同じはず。
池に架かる朱塗りの橋の上で、わたくしはスサノオと対峙した。
橋の下には、安河の源流であり、高天原の生命の源でもある真名井の湧水が、池となって湛えられている。
渾渾と湧くそれは勇ましさを感じさせ、圧倒的な透明度は、精神を浄化してくれる。
この神聖な場所を選んだのは、真心で向き合うことしか許されないと示すためだ。
目の前にいるのは、これまでのやんちゃで怠惰な印象を忘れさせる、好青年と呼ぶべき身嗜みの整った男。
髪も髭も伸ばし放題で、粗末な身形の弟は見る影もなく、表情まですっきりとしてしまって、まるで別人だ。
そんな佇まいさえも、スサノオの“覚悟”を現しているようで、胸が締めつけられた。
「……お母様に会いに行くということは、二度と戻って来られないということ、当然わかっているのでしょう?」
「うん」
「どうして、今なのですか……?」
スサノオは、申し訳なさそうに笑った。
「……父さんにさ。怒られたっていうか……。見離されちゃってさ」
「見離された……?」
おっとりとしたお父様の笑顔を思い浮かべて、高天原と共に譲り受けた勾玉の首飾りに、そっと触れる。
「任された仕事を全うしようという意志が、ボクからは感じられないって。……そりゃそうだよね! だってボク、葦原のことを想ったり考えたりするより、ほかのことを想ってる方がよっぽど多かったもん」
「……お母様のこと、ですか?」
こくりと、頭を縦に振った。
「毎日毎日、母さんのこと考えるよ。どんな人だったんだろうって。きっと、優しくて、穏やかで、でも芯があって、もしかしたら、怒らせると恐い人なのかなって。父さんが好きになった人だから、キレイな人だったんじゃないかな、とかさ」
そう紡ぐ弟は、見たことのない、穏やかな笑顔を浮かべていた。
「やっぱり、姉ちゃんと似てるんじゃないかって思うんだ。だから、姉ちゃんに会うと、答え合わせしたくなるんだよね。正解はこちら! 的な?」
はにかみながら、いつもの軽口を覗かせる。
スサノオが、わたくしを通して、お母様を想っていたなんて……。
嬉しくて、切なくて。
瞼が震えた。
「わたくしに会うのは、辛いですか?」
今度は、首を横に振った。
「だったら、ここに来ないよ。姉ちゃんには感謝してるし、わかってくれるって信じてるし。ボクが急にいなくなったら迷惑かけちゃうし、困らせちゃうし、きっと心配もしてくれるでしょ? だから、母さんのところへ行く前にちゃんと話さなきゃ、今度は、姉ちゃんに会わなかったことを後悔すると思ったんだ」
幼いとばかり思っていたスサノオが、こんなにもわたくしを想ってくれていたなんて。今の今まで、知らなかった。
…………それならば。
わたくしにできることが、あるんじゃないだろうか。
わたくしだからこそできることが、ある。きっと。
息を大きく吸って、吐き出し、軽く顎を引いた。
「ありがとう。……でもね。あなたが今までにしてきたことは、残念ながら、信用に足るものではなかった。わたくしに理解を求めるなら、あなたの心に詐りがないことを、証明してみせなさい」
スサノオの表情が、強張った。
瞳が曇る。
「信用に足りない、か……」
瞳を伏せ、眉間を寄せた。
苦悩する弟の姿を、黙って見つめる。
酷なことを告げた自覚は、もちろんある。
彼の表情を歪ませたのは、苦痛を与えたのは、わたくし。
だから、目は逸らさない。
しっかりと、彼の心の行方を見守らなければ――。
風が吹いた。
宝玉を連ねたイヤリングが揺れ、チリン、と高い音を鳴らした。
弾かれたように、スサノオが顔を上げる。
「卜占いをしよう!」
「……うらない?」
無邪気な子供のように笑うスサノオに対し、きょとんとしてしまった。
卜占。それは、物事の善し悪しや隠された事実、未来の成り行きなどを知りたいときに採る、古くからある手段だ。
「うん! お互いの大事なものを懸けて、それから生まれ出たもので真意の判断をするってやつ、あったよね!」
彼は、朗々と言って退ける。
「…………本気で、言っているの?」
「本気だって! さっきも言ったっしょ」
その口調は、やけに強気だ。
迷いなど微塵もない。絶対的な自信があるということだ。
わたくしが、それを証明してみせろと言った。
引くわけにはいかない。
「いいでしょう。差し出すものは?」
わたくしの問い掛けに、スサノオは腰に挿していた長剣を掴み、ふわりと投擲した。
どんなときも、弟の身を守り、そして力一杯振るい続けた剣。
彼の意志の強さを窺わせる、ずっりしりとしたそれを受け取り、刀身を引き抜く。
池に乱反射する陽光を受けて、ちかちかと光った。
橋の袂に降りて、長剣に矢先を突き立てて三つに割り、池の水で清める。
そして、ゆっくりと口に含み、噛み砕いた。
ひやりとしていたものが、形を失すにつれ口内に馴染んでいく。
最後に、心を落ち着けて、ふぅ、と吹き出す。
きらきらと輝きながら現れたのは、美貌溢れる三人の女の子だった。
「……次は、あなたの番よ」
結い上げた髪とイヤリング、両手首を飾っていた玉飾りを、スサノオへ投げ渡した。
魔除けの御守りを手放すことに、抵抗や不安がないかと言えば、もちろん嘘になる。
しかし、弟の覚悟に、姉のわたくしが敗けるわけにはいかない。
それらは、清らかな音を奏でながらスサノオの手元に収まると、彼もまた同じように真名井の水で濯ぎ、豪快に頬張った。
ふっと吹き出すと、今度は雄々しい出で立ちの五人の男の子が姿を現した。
「よし……」
スサノオが、安堵の表情で呟いた。
「その男の子たちは、わたくしの持ち物から現れたので、わたくしの子。女の子は、あなたの子ということになります」
「ぃよっしゃーっ!!!」
叫びながら両腕を上げてガッツポーズをするスサノオに、驚いて息を呑む。
「なっ、なに!?」
「あー、ごめん。うれしくて、つい……。だってほら、超絶美人の女の子が生まれるなんてさ! ボクの心にウソがないってことじゃん!! そういうことだよね!!」
嬉々として燥ぐ弟は、純粋無垢な子供そのものだった。
……本当に、仕方のない子ですね。
わたくしは、この可愛い弟に……めっぽう弱い。