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再び大地(フィールド)に立つために 〜中学二年、病との闘いを〜  作者: 長岡更紗


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44.再び大地に立つために

 布団の中で情けなく包まっていると、スマホから音楽が流れてきた。

 この陽気な音楽は……母さんからだ。

 手を伸ばして布団の中に持ち込み、「もしもし」と言葉を発する。


『颯斗……!! 園田さんから連絡があって、聞いたわよ!』


 母さんの慌てた声が俺の耳を突き刺すように飛んできた。

 また、その話か……

 もうなにも言わずに切ってしまいたかった。今は誰とも話したくない。


『どうして移植しないなんて言い出すの……っ』

「聞いたんじゃないのかよ……園田さんから」

『ネットで仲の良かった同じ病気の子が……亡くなったっていうのは、聞いたけど……』

「……うん」


 俺の肯定の言葉に、母さんが電話の向こう側で『うっ』と声を漏らす。


『だから嫌だったのよ、スマホなんかを持たせるのは……っ』

「……え?」

『ネットで検索すると、そういう事例が少なからず出てくるのよ。そんな話を、颯斗には見せたくなかった……っ』

「……」


 母さんが俺に携帯電話を持たせたくなかった理由。それは、白血病の死亡例を見せたくなかったからだったんだ。

 実は俺は自分の病名を何度か検索していて、そういう例がいくつかあったのを確認していた。

 本人のブログが闘病中に途絶えていたりだとか、子どもの闘病生活を書いた母親の日記で、亡くなったことを報告しているものもあった。

 けど、俺はそれを過去だと思っていたから割と平気だったんだ。亡くなった人が可哀想だと涙もしたけど、日付を見るとそれは十年以上前のものが多くて。

 今現在治療をしている人はそんなことにはならないって……どこかでそう思ってた。俺もマツバも生きていられるんだって。つらい治療の先には必ず未来があるんだって、信じて疑わなかったんだ。

 でも、今は違う。もう信じられない。

 ただ……怖い。

 痛みや、吐き気や、苦しみを。耐えられる気がしなくなっていた。


『お願い、ちゃんと先生に治療を受けるって、伝えて。そうしないと、颯斗は……っ』


 グスッと鼻を啜り上げる音がする。

 そうしないと、俺は……死ぬんだろうな。移植のために免疫力をゼロに近づけてるんだ。移植をしなきゃ、確実に死ぬ。でも、なにもしなかった方が楽に死ねたりするのかもしれない。

 ……なんて、こんなことを考えてる俺はどうかしてるよな。その自覚はある。

 でもだからと言って、今入れている抗がん剤の点滴を引っこ抜いたりする気もない。抗がん剤が皮膚に触れると壊死するっていうし。

 治療しないって言いながらも、自分から積極的に死のうかって思うわけじゃない。

 なんていうか……時間が止まってほしかった。

 今のまま。良くも悪くもならないまま、選択も決断もしなくていい状態でずっと。

 時が、止まればいいのに。


『お父さんも香苗も、おじいちゃんもおばあちゃんも、みんなが待ってるんだから……ね、颯斗!』


 携帯の向こうで必死に語りかけてくる母さん。伝わらないとわかっていても、俺はわずかに首を横に振る。


「……ごめん」


 その言葉と共に、俺は通話を切って電源を落とした。

 酷いことをしてるなって、頭の片隅にそんな思いが過ぎる。

 けど今は、母さんたちの気持ちを考えてやれる余裕がなかったんだ。

 俺は子どもみたいに布団に包まったまま、いつのまにか眠っていた。


 一夜明けても、やっぱりそれは同じで。

 先生や看護師さんや木下さん、斎藤さんになにを言われても、俺は骨髄移植を受けるという気持ちにはなれなかった。

 頭の中は霞がかかったようにぼうっとなって、動く気力すら湧いてこない。食事と排泄だけで、残りはベッドの上で寝て過ごす。

 なんでこうなっちゃったんだろう。

 本当なら普通に中学校に通って、勉強にサッカーに頑張ってたはずなのに。

 どうしてここでぼんやり過ごす羽目になったんだろうか。

 神様……俺、そんなに悪いことしたか?

 普通に生きてきただけのつもりなのに……


 このまま俺が拒否していたら、移植は行われないんだろうか。

 それとも両親が希望すれば、勝手に移植されちゃうんだろうか。


 そんなことを考えていると、また一夜が明けた。

 移植日はどんどん近付いている。決めなきゃいけないのに、俺の心はまだゆらゆらと揺蕩っているだけだ。


「颯斗くん」


 この日は日曜日だった。

 つまり、もう今週が移植予定の日。

 目の前には俺の担当看護師である園田さんが立っている。また説得に来たのかと少しウンザリした。

 携帯は電源を落としたままだから、他に説得できる人がいないわけだけど。


「なに、園田さん」

「ちょっと、入り口まで来てもらえる?」

「嫌だ」


 即答すると、軽く息を吐いている。面倒な奴って思われてるのかもな。


「いいから。後悔しても知らないよっ」

「もう放っといてくれよっ」


 きっと、扉の向こうには父さんか母さんが来てるんだ。扉越しに会わせようとしてるに違いない。


「颯斗君!」

「誰にも会いたくないんだって!」


 俺の訴えを聞いて、園田さんは少しだけ笑う。


「大丈夫。扉の向こうには誰もいないから」

「……え?」


 園田さんの言っている意味がわからなかった。

 扉の前には誰もいない? じゃあ、なんで?


「嘘だと思うなら、見てみるといいよ。じゃあ、私は行くから」


 園田さんはそれだけを言うと、本当に出ていった。消毒やら手袋やらキャップやら面倒な手順を踏んで、たったそれだけのことを言うために。

 一体なにがあるのかと、俺は少し興味をそそられてそっとベッドを降りた。もしかしたら騙されてるんじゃないかって思いながら、扉の小窓から向こう側を確認してみる。園田さんの言った通り、そこには誰もいなかったし、なにもなかった。意味がわからない。どういうことなんだ?


「からかってんのか? なんなんだよ……」


 愚痴をこぼしながら、小窓から覗ける範囲で周りを確認してみる。清潔室の扉の前に、園田さんが立っていた。なにをしてるんだろうと見ていると、扉を数センチだけ開けたまま、突っ立っているだけだ。

 園田さんの行動の意味がわからず、ベッドに戻ろうとしたその時だった。

 どこからか、ピアノの音が流れてくる。プレイルームにはピアノがあって、たまにボランティアの人が来て弾いてくれてたりしたけど。

 そんなことを考えていた時、ズンッと歌声が響いてきた。


 重く、突き刺さるような。それでいて、とても優しい歌声。


 これ、聞いたことがある。大地讃頌だ。

 真奈美が合唱のコンクールで歌ってたやつだ。


 俺は齧り付くように外を見たけど、そこから歌っている誰かの姿が見えるはずもない。

 なんでこの歌が?

 どうして……録音なら、俺の目の前でかければいいはずだろ?


 心臓がドッドッと俺の体を揺らす。

 録音じゃない。

 今、ここで、この病院で、誰かが歌ってる!


 見事な混声四部合唱。十人や二十人じゃない。何十人もいる。何人いるかわからないくらいの、力強い歌声。


 嘘だろう?


 真奈美が合唱部を引き連れてきた?


 けど、違和感が残る。

 以前、真奈美に見せてもらったコンクールの動画では、こんなに腹の底に響くような歌声じゃなかった。

 そうだ、男子の人数が多いんだ。

 今、歌っているのは、合唱部と……


 俺はガラスにへばりつく。見えないってわかっていても。


 サッカー部が、そこにいる……っ!!


「な、んで……っ」


 胸が一気にカァッと熱くなる。

 力強い歌声はここまで届いて、俺の眉は情けなく垂れ下がる。


 すぐそこに、アイツらがいる。


 言いようのない感情に支配され、俺は額を扉に擦り付けた。


 中学生は、病棟にすら入って来られないはずだ。

 きっと看護師の誰かが人の出入りを確認しながら、鍵のかかった扉を開けておいてくれているんだろう。


 その扉の向こう側に。

 恐らくはデイルームに、サッカー部と合唱部はいる。

 そして、歌っている。

 扉をいくつも隔てて、それでも歌声は俺の心に入ってくる。


 男の声は、この歌を歌い慣れてない奴も多くて。


 一人、やたらとデカイ声の奴が、とんでもなく音を外していて。


「智樹……っ、お前、ホンット昔から下手くそ……っ」


 智樹の外れた音程が、俺に笑みと涙を同時に溢れさせる。

 下手くそだけど、一生懸命に歌っている智樹がすぐに想像できて。


 早く智樹たちと一緒にサッカーしたいって。

 また大地(フィールド)に立ちたいって。


 俺は、心からそう思ったんだ。


 すべてを包み込む母親のような、柔らかく美しい女子の声。

 心の底に根付くように重く、安心感を得られる響きの男子の声。


 それらが合わさった歌は、目を瞑るとどこまでも地平線が広がっているようで。


 大地讃頌は、優しく、力強く、ゆっくりとその歌を終えた。



 俺の頬は、人に見せられないくらい涙でいっぱいで。

 パチパチ、という拍手が遠くから微かに聞こえてくる。

 本当に、ついそこに智樹と真奈美がいるんだ。


 会いたい、会いたい、会いたい、会いたい。


 会えないのは、わかっているけど──


「智樹!! 真奈美ィ!!」


 俺は泣きながら病室で叫んだ。叫ばずにはいられなかった。

 俺の声が、外に届いたのかはわからない。けど、その直後には。


「颯斗ーーーーーー!!」

「颯斗っ!!」


 懐かしい、声がした。

 相変わらずどでかい智樹の声と、合唱で鍛え上げられた真奈美のよく通る声。


 いる。

 そこに。

 俺の彼女と親友が。


 もう一度、智樹って、真奈美って、叫びたいのに。

 しゃくり上げてしまって声が出てこない。


「颯斗、頑張れーー!!」

「早くサッカー部に戻って来いよー!」

「颯斗先輩ー!」

「島田君、学校で会おうねー!!」

「颯斗君、病気なんかに負けないでー!」

「颯斗ーー!!」

「颯斗くーーん!!」


 ヒックヒックと喉が詰まる俺に、次々と温かな言葉が乾いた土を潤す優しい雨のように降り注がれる。

 キャプテンや、三年の先輩もいる。受験で忙しいだろうのに、来てくれたんだ。

 サッカー部と合唱部だけかと思ったけど、クラスの奴らも何人かいるみたいで。


「颯斗ー! 待ってるから……待ってるからねーーっ!!」


 真奈美の声も、ちゃんと聞こえて。

 俺は涙を流しながら、クッと笑った。

 みんな、バカだな。病院でこんな大声出したら、後で絶対怒られるに決まってるのに。

 案の定、看護師長さんの嗜める声がして、みんなの声は聞こえなくなった。でもきっと、みんなが言い終わるのを待ってくれてたんだろう。そう思うと、それだけで少し胸が暖かくなった。


「颯斗君」


 清潔室の扉を少し開けて、音を通りやすくしてくれていた園田さんが戻ってきた。小窓の向こうの園田さんは、優しい瞳でこっちを見ている。


「みんな、颯斗君のために来てくれたんだよ」


 俺は「うん」と呟き、そのまま声を詰まらせた。

 みんなここまで電車で来たんだろうか。時間だってお金だって掛かるのに、休みを一日潰して……俺のために、わざわざ。


「ハヤトお兄ちゃん!」

「ハヤトおにちゃっ!」


 視線を下げたそこには、いつの間にか守と祐介がいる。その後ろには、斎藤さんと木下さんも。


「素敵な歌声だったね〜っ」

「みんな、ハヤトくんのことが大好きなんだね」


 その言葉にコクンと頷き、涙を飲み込むように喉を上下させた。

 病院でこんな許可を取るのも大変だっただろうに……。

 いつから計画してたんだろう。

 まさか、まさかこんなことをしてくれるだなんて思ってもいなかった俺は……思いっきり感動してしまった。


 さらに後ろから大谷先生と小林先生が現れて、まわりは先生たちに場所を譲っている。


「いい友達多いんなぁ〜、颯斗くん!」

「颯斗君の希望になればと、みんな歌ってくれたんですね」


 駄目だ。どれだけ涙を飲み込もうとしても、次から次に溢れてきて止まらない。


「君の元気になった姿が見たいんですよ」


 俺の、元気になった、姿……。


 ずっと元気になるって信じてくれているのに。

 俺は、そんなみんなの気持ちを裏切るようなことをしたりして。

 逃げてばかりいた最近の行動が、とても恥ずかしくなって。


 俺だって、また友達に会いたい。

 今日の礼を、心からの感謝を、直接伝えたい。

 みんなとまた、笑い合いたいんだ。


 そして……自分の足で、しっかり大地を踏みしめたい。


 ずっと病院でいるなんて嫌だ。

 外に出て、思いっきり駆け回る。

 そのためには……


「先生……」

「なんですか?」


 俺は流れ落ちる涙を、袖で拭き取りながら。


「俺……骨髄移植したいんだ……まだ、間に合う……?」


 そういうと小林先生はいつものようにニヤリと笑って。


「移植日が過ぎる前で良かったですね」


 と、俺じゃない誰かに向かって言った。

 先生たちが下がり、次にコツッと音を立てて現れたのは……父さんと、母さん。

 来ていたのかと、俺はまた音を失うかのように言葉を詰まらせた。


「颯斗……偉いぞ……!」

「もう、みなさんに迷惑ばかりかけて……っどれだけ、心配、したと……っ」

「……っ、ごめん……父さん、母さん、みんな……っ」


 父さんと、母さんに触れ合いたい。

 その一心で小窓に手を置くと、向こう側からガラスを挟んで二人の手が俺に触れる。


「ちゃんと、頑張るから……っ」

「ああ……香苗も待ってるからな。香苗が、一番お前を信じてくれてるんだからな」


 まんまる顔の香苗の笑顔が目に浮かぶ。

 こんな情けない俺だけど……香苗の前でだけは、かっこいい兄ちゃんでいたい。


「病気なんてやっつけて、絶対に元気に帰るからって……香苗に伝えてくれ」


 もう外泊はできない。

 次に会うためには、退院しかないんだ。

 香苗に悲しい顔なんか、絶対にさせない。


 キッと顔を上げて、父さんに頼むと。

 父さんは口角を上げて「わかった」と力強く頷いてくれた。


 俺は、この足で大地を踏みしめるために。

 もう一度、治療と向かい合う。

 必ず生きると、心に決めて──。

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