19.脱毛
今日も気分は最悪だった。
相変わらずの吐き気と倦怠感。それに足が思うように動かないから、イライラもする。
室内でだけ松葉杖を使ってもいいという許可はもらえた。だからトイレや身の回りのことは自分でなんとかできるのが救いだ。看護師さん達は遠慮せず呼べっていってくれるけど、忙しくしているのがわかるから、ナースコールは押しにくい。
松葉杖と点滴を一緒に持つのは大変だし危ないから、部屋を出る時は必ず誰かを呼んでと園田さんにしつこく言われてる。あれから病室を出てはいないけれど。
「颯斗、大丈夫?」
安心できる声が聞こえてそっと目だけで確認した。今日は母さんの来る日だったか。
母さんは一週間前とは違う俺の頭を見て少し驚いたような様子を見せたけど、すぐに元に戻った。
「具合、どう……?」
「……うん、大丈夫」
「……」
母さんはなにも言わなかった。ばれちゃってるかな、俺が嘘付いてるって。でも、心配かけたくない。
「なにか、してほしいことある?」
「じゃあ、ベッドの上の髪の毛取ってくれない? チクチクして痛いんだ」
「わかった」
俺がもぞもぞと体を動かして移動すると、母さんが髪の毛をかき集めてくれる。
「そこにガムテープあるから、それで取った方が早いよ」
「ああ、これね。いつもこうやって取ってるの?」
「うん、あんまり酷い時は、補助師のオバちゃんがシーツ変えてくれたりするよ。シーツ交換の日じゃなくても」
「そう」
母さんはガムテープで綺麗に髪の毛を取ってくれた。まぁまたすぐに抜けるんだけどな。
これまで相当抜けたように思うのに、まだ前髪は残ってるし横髪も健在だ。俺の髪は現在ハゲチョロケ状態で、ハッキリ言ってめちゃくちゃカッコ悪い。いっそのこと、最初からボウズにしといた方がよかったな。そしたら抜け毛の掃除をする手間も省けたし。まぁ今さらだけど。
「颯斗……帽子、買ってこようか?」
母さんの言葉に、俺は目をパチクリさせた。
「え? なんで?」
「だって、その髪……」
「ああ、いいよ。もうすぐなくなるだろうし」
「だから、余計に必要なんじゃないの?」
そう言われて俺は頭に手をやる。折角綺麗にして貰ったベッドの上に、またパラパラと髪の毛が散った。
「そっか、そういえばドラマとかでよく帽子被ってるよな」
「ドラマだけじゃなくって、実際リナちゃんも被ってたでしょ」
「まぁ、リナは女の子だし」
「颯斗はいらないの?」
「俺? うーん……」
別に帽子を被るって発想がなかったわけじゃない。でも俺は男だし、隠す必要はないかなと思った。
もちろん髪の毛が抜けたのはショックだったし、かっちょ悪い自分は嫌だけど。
「帽子はいいよ。多分、面倒だから被らないと思うし」
「そう? でもプレイルームに行く時とか、院内学級に行く時とか必要じゃないかしら」
「いらないって」
「でも、恥ずかしくない?」
「恥ずかしいって、なに? 俺が病気だってことが?」
恥ずかしいと言われたことにムッとして、つい突っ掛かってしまう。俺の言葉に驚いた母さんは、慌てて首やら手やらを左右に振っていた。
「ち、違うわよ! ただ、周りから好奇の目で見られたりしないかなって心配で……」
「髪がないのは、俺が頑張って治療してるって証拠だ。隠す必要なんてないし、見たい奴には見せてやればいいよ」
「……でも……」
母さんは俺の話を聞いても、まだ納得できないでいるみたいだ。母親って、どうしてこんなにどうでもいいことで不安になったりするのかな。
「俺、絶対帽子は被んないよ。あいつらに、見せてやりたいんだ」
「……あいつら?」
俺の指す言葉が誰のことかわからなかったようで、母さんは首を傾げている。だから俺は教えてあげた。
「守と、祐介」
「守くんと、祐介くん?」
「うん。あいつらも同じような治療してるんだから、そのうちこうなるだろ?」
俺はすっかり抜けてなくなってしまった後頭部を、ペンと叩いて見せる。母さんは困ったように「まぁ、そうでしょうね……」と頷いた。
「髪の毛が無いのは恥ずかしいことじゃないって、頑張ってる証だってことを教えてやりたい。だって、実際あいつらすごい小さいのに頑張ってるんだからな。ツルッパゲなんて大したことじゃないんだって、俺を見てわかってくれたら嬉しいんだ」
俺は守や祐介よりも十歳近く年上なんだ。俺が行動で示せば、あいつらだって髪がない自分を恥じたりはしないはずだ。むしろ、頑張っていることを誇りに思ってほしかった。
そんな当然のことを言っただけのつもりなのに、なぜか母さんは涙ぐんでいる。どうしたんだろう。
「母さん?」
「……なんでもない。わかったよ。恥ずかしいだなんて言って、ごめんね」
「うん、わかってくれたならいい……あ、いてっ!」
チクンと目の中が痛んで、思わず声を上げる。すると母さんは腰を浮かせてナースコールを手に取った。
「どうしたの、大丈夫!? 看護師さん呼ぶ!?」
「ちょ、待って……まつ毛が目に入っただけだし……っ」
「な、なんだ、まつ毛か……」
母さんはホッとしてヘタリと椅子に腰をかけ直していた。どうやら痛いって言葉に敏感になってるらしい。
「どう、大丈夫?」
「ってて……うん、取れたみたい。最近、まつ毛も抜けてきて、よく目に入るんだ」
「そう、まつ毛まで抜けちゃうのね……眉毛も、微妙に薄くなった?」
「ああ、抜けてるみたいだな。結構落ちてるから」
「お母さんの眉ペン、置いていこうか?」
「や、だからそういうのいらないってば……」
俺の言ったこと、本当にわかってんのかな? 取り乱すと全部忘れちゃうのは母さんの悪い癖だ。
母さんは「そうだったそうだった」と言いながら、手に掛けていたバッグから携帯電話を取り出した。
「颯斗、嫌じゃなければ写真撮ってもいい? 今、颯斗が頑張ってるっていう証拠写真」
「うん、もちろん。香苗にも見せとかないと、いきなりボウズになってるの見たらビックリするだろうしな」
「ふふ、そうね。でもあの子、順応性高いから大丈夫よ、きっと」
まぁ確かに、大人より子どもの方が慣れるのは早いかもな。でもいきなり見たらショックを受けるのは間違いないだろうし、これからは俺の髪の様子も写真に撮って送ってやろう。
俺は上半身を起こすと、笑顔を見せてピースサインをした。なるべく元気に写るように。
カシャっと母さんの携帯が音を出す。頑張っている、俺の証拠写真だ。撮影が終わると俺はすぐさま横になる。
「母さん、香苗に、兄ちゃんは頑張ってたって言っといてよ」
「……うん、わかってる。頑張ってるよ、颯斗は」
母さんがそう言って、俺の頭を撫でてくれた。その手が温かくて嬉しくて、俺は自然な笑顔が溢れてくる。
しかしベッドの上には、またも髪の毛がパラパラと抜けて敷き詰められた。