17.摘便
題名の通り、便の話です。
直接的な表現は避けましたが、苦手な方はご注意ください。
「おかえり、颯斗くん。外泊はどうでした?」
小林先生がカテーテルのロックを外し、そこから薬液を注射器で入れながら問いかけてきた。
二泊三日の外泊はあっという間に終了。俺はもう病院に戻っている。
「うん、楽しかったよ。彼女にも会えたし」
「え? だから性行為はするなとあれほど……」
「してないしっ!!」
俺が即座に否定すると、小林先生はクスクスと意地悪に笑った。これ、俺が女子だったらセクハラじゃないか? まぁ先生もさすがに女の子には言わないだろうけど。
「楽しかったようでなによりです。じゃあ明日から二クール目に入りますからね。抗がん剤も前回とは少し違うのを使います。あ、明日は朝一で髄注するからね」
「髄注ってなんだっけ?」
「前に腰に針を刺して検査をしたでしょう。あれと同じ感じで、今度はそこに直接抗がん剤を入れるだけでーす」
だからなんで小林先生はこんなに嬉しそうに言うんだよ!? ドSだな、ホントッ!
「いやだ、断固拒否するっ」
「いいですよ、いつまでも病院にいたいならね?」
「ぐぅぅうう」
また腰に注射針刺すのか……嫌だなぁ、あれ……大丈夫ってわかってても、怖いものは怖いんだよ。腕の注射なら平気なんだけどな。
「じゃあまた明日、頑張りましょう」
俺は何も言ってないのに、そう決めつけて小林先生は出ていった。
俺の胸のカテーテルはまた点滴に繋がれてしまっている。病院から出すまいとする拘束のための縄に見えるな、これ。俺を助けてくれる大切な命の管でもあるんだけど。
ふと見ると、一枚の紙が置かれてあった。小林先生が置いていった、今回の治療計画書だ。何日にどれこれという点滴や抗がん剤を、どれくらい入れると書いてある。見てもよくわかんないんだけど、ざっと目を通した。
「オンコビン? 変な名前の抗がん剤」
俺はその紙をポイッと放り投げてスマホを手に取る。
マツバはどうやら今クールで骨髄移植をすることになったらしい。提供者はマツバの弟だそうだ。HLAの型が合ったんだな、よかった。
いいなぁ、マツバもリナも兄弟間で見つかって。俺は骨髄移植どうなるんだろう。ちゃんとできるのかな。ちょっと不安だ。
『また移植の話を聞かせてな!』
俺がそうコメントすると、相変わらず素早いレスがつく。病院ってやることないもんな。
『おう! 俺の方が先に治療終わるから、元気になったら見舞いに行ってやるよ!』
『マツバの治療が終わるのは俺が移植する頃だから、部屋から出られなくなってるっての! 会えねーよ!』
『じゃあ、会うのはお互いの治療が終わってからだな!』
マツバはサラッと提案してくれた。ネットの中の人間と会うの、慣れてんのかな?
俺は初めてだからめっちゃドキドキする。そもそもこうやって見知らぬ人と交流を持つこと自体、初めてだからな。
文字だけのやり取りだっていうのに、同じ境遇にあるからか、毎日こうやって連絡を取り合っているからか、リアルな友達よりも身近に感じるから不思議だ。
ネットの友達っていうのも、馬鹿にできないもんだ。頭の固い大人には理解できないかもしれないけど、会ったことがなくても大切な人っていうのは、確かに存在する。
マツバの住んでいるところはちょっと遠いけど、それでも元気になったら絶対に会いに行こう。
会えるのが本当に楽しみだ。
***
そうして始まった第二クールだったけど、俺は初っ端から体調不良に襲われた。
吐き気、倦怠感……それに、便がまったく出なくて苦しい。食欲もなくてひとつも食べられない。
そして……
「うわ……髪の毛抜けてきた……」
一クール目ではほとんど抜けなかった髪の毛が、急に抜け始めた。枕の当たっている後頭部がごそっと抜けて、わかっていたことはずなのに絶句してしまう。
「ボウズになんのか、俺……」
まだ後頭部だけだけど、全部抜けるのも時間の問題だろう。治療が終われば生えてくるのはわかってるけど、ごっそり抜けているのを見るとやっぱりショックだ。
リナも髪が抜けた時はショックだったろうな……あっちは女の子だし。男の俺が髪の毛でクヨクヨしてる姿は見せられない。一生に一度くらい、ボウズの時があってもいいかと思うことにした。
「おはよう、颯斗くん! 今日の具合はどうかなぁ〜?!」
人が苦しんでるのに看護師の園田さんを引き連れてテンション高く入ってきたのは、大谷先生だ。
「気分悪い……吐きそう……」
「薬飲んで三十分は吐くの我慢してな。飲み直しになるよー!」
薬飲み直し……そう言われてゾッとする。
本当に口の中に物を入れるのがダメだ。水さえも気持ち悪くて、山ほどある薬を飲むのが毎回苦痛過ぎる。絶対三十分以内は吐かないようにしないと、飲み直しなんて冗談じゃない。
「今日は便出た?」
「出てない……」
「そっかぁ、長いなぁ。ちょっとお腹触らせてな」
もう何日便が出てないかもわからない。浣腸を使ったけど、苦しいばかりで出てくれなかった。
大谷先生が俺のお腹をグニグニと押して少し顔を顰める。
「うーん、この辺結構詰まってるなぁ。今使ってる抗がん剤のオンコビンね、末梢神経障害が出るんよ。それでお腹の動きも悪くなって出なくなってるのと思うのね」
オンコビン? くそ、このつらさの原因はその変な名前の抗がん剤のせいかよっ!
こいつを入れ始めてから、俺の体調は絶不調だ。苦しいし、吐き気あるし、便は出ないし、頭はグラグラする。動くことさえ苦痛で、ベッドから降りるのはトイレの時だけだ。風呂にも入れずに体は拭いてもらっている。自分で拭く元気さえも出ない。
「ちょっと摘便してみる?」
俺が苦痛で顔を歪ませているのを見て、大谷先生がそう言った。
「てき……べん?」
「うん、お尻の穴に指突っ込んでな、直接便を掻き出すんよ」
お尻の穴……指!?
俺は衝撃の言葉に声を詰まらせてしまった。先生は当然のように言ってるけど、俺は初めてそんなこと聞いたからね!?
「これで出たら楽になると思うよ」
楽に……なるのか? その言葉に、俺の心は揺らぐ。
「園田さん、摘便の用意して後でやってあげて」
「はい」
大谷先生の影に徹していた園田さんが返事をし、「用意して来るね」と言って先生と一緒に部屋を出て言った。誰もいなくなった部屋で、俺は元々良くなかったであろう顔色をさらに悪くさせる。
「掻き出す……?」
そのシーンを想像すると血の気が引いた。
そりゃ、中心静脈カテーテル通すのに比べたら大したことないかもしれない。でもどっちかっていうとこれは、不妊外来の再来だ。精神的にヤバい方のやつだ……。
「お待たせ、颯斗くん。今から処置するからね」
って、園田さん戻ってくるの早いよ!
まったく覚悟も決まってないのに、ベッドサイドに来てテキパキと準備をし始めた。
「お尻の下にこのシート敷くからね」
「え、ここですんの?」
「そうよ。じゃ、ズボンずらすからね」
園田さんに横に転がされ、ズボンに手を掛けられそうになった瞬間、俺は羞恥が最大にまで達してしまった。
「ちょ、まっ! やっぱ、いいっ!」
「え? でも、早く出さないと苦しいでしょ?」
苦しいよ、苦しいけど……っ
こんなベッドの上でお尻の穴に指を突っ込まれて、トイレじゃない所に便を出すとか俺の常識じゃ考えられない。しかもそれをやるのが若い女の看護師とか……やっぱり嫌だ。本当に泣けてくる。
「な、仲本さ……」
「え、仲本くん?」
俺はイケメン看護師の名前を思わず出してしまって、慌てて否定した。
「な、なんでもない……摘便は、いいよ……そろそろ自力で出せそうな気もするし……」
今日の担当看護師は園田さんだ。仲本さんは別の患者を担当しているだろうし、それだけで手一杯だろう。
そもそも園田さんに他の看護師がいいなんて言ってしまったら、傷付けてしまうかもしれない。
仲本さんを明日の担当看護師にしてほしい、という言葉が喉まで出かかったけど、なんとか飲み込むことに成功した。他の看護師を侮辱する行為だ。それに患者の希望の看護師なんていちいち聞いてたら、病院は回っていかないだろう。
仲本さんが担当になる日を、待つしかない。いつになるかはわからないけど。
「……あのね、恥ずかしがらなくても大丈夫よ。私達はこういうこと慣れてるし」
園田さんが慣れてても、俺が慣れてないんだよ……。
体を拭いてもらうだけでも恥ずかしいっていうのに、お尻を出すのも指を突っ込まれるのも、こんなところで便を出してる所を見られるのも全部嫌だ。
「ごめん、園田さん。別に園田さんが嫌とか、そんなんじゃないから……ホント、大丈夫だから……」
「……わかった。じゃあしてほしくなったらまたいつでも言ってね」
「うん、ごめん……」
園田さんは無理強いせず、準備していたものを片付けて出ていってくれた。
ほっとすると同時にお腹の苦しさが増した気がして、すぐさまやっぱりやってもらえば良かったかもしれないと後悔する。
仲本さんはいつ担当になってくれるだろうか。大きな病院で看護師の人数も多いから、いつ順番が回ってくるかわからない。どうして看護師って女の人が多いんだろうな。男の人がもっと増えてもいいと思うんだけど。
そんなことを考えながら俺は目を瞑って吐き気とお腹の苦しみに耐えた。スマホを見る気力すら起こらない。
耐えて耐えて耐えるだけで一日が過ぎていく。点滴の量が多いから、しょっちゅうトイレに立つのが本当に苦痛で仕方ない。
この日も一日をどうにかこうにかやり過ごそうとしていた時だ。扉がノックされて、看護師が入ってきた。
「夜の担当の仲本でーす。颯斗くん、どう?」
「……っ、仲本さん……っ」
イケメンが俺の部屋に降臨してくれた。男だろうがやっぱり看護師は白衣の天使だ! 天使どころか、もう俺には救いの神様に見える。
「お腹、苦しいんだって? 便はどう、出た?」
仲本さんの言葉に俺は首を横に振る。
「摘便しようか? もう用意してきたんだけど」
今度は首を縦に振った。
園田さん、仲本さんが担当になるようにしてくれたのかな。それともたまたまだったのか……俺にはどっちかわからないけど、用意をして来てくれたってことは、なんらかの申し送りはしてくれていたんだろう。
仲本さんは嫌がる素振りも見せず、摘便をしてくれた。俺のお腹がようやく少し軽くなる。お尻まで拭かせて、なんだか申し訳ない気分だ。
「どう、少しは楽になった?」
「うん……ごめん、仲本さん」
「気にしなくていいって! 頼りにしてくれて、嬉しかったよ」
嫌なことをさせたはずなのに、仲本さんは笑ってそう言ってくれた。
吐き気はどうしようもないけど、お腹が少し楽になった分、俺はそのまま眠りに落ちることができた。