第二章 春とSF研
またしても尚美を置き去りにしての感慨なのだが、牧夫にとってもっとも幸せだったのは、それからの半年間だっただろう。もともと理科の教科準備室だったその部屋は北側に小さな窓があるだけで、加えて残り三ぽうを例の図書室の書架に囲まれ(入り口の左右にもカラーボックスいっぱいに本があった。因みに壁に面した書架はスチール製で天井近くまであり、更にそれらも孝平の持ち込み)、まともな人間なら閉塞感を覚えるような環境だった。ところが牧夫と孝平には、それがかえって心地よかった。
どんどん日が短くなっていく中、戦前に作られたようなニスがガサガサに剥げてしまった木のデスクの一辺を占め、上体だけうつぶせになっていつまでもSFに読み耽っている。ときに交わす言葉は、大抵それらの本への悪口雑言で、更にそれらの大部分は、孝平の蔵書だったわけだが……。
「ハインラインなんてただの右翼の鬼軍曹じゃないか。なんで素直にそう言っちゃいけないだよ。新しい隊長が着任するとまず古参兵と殴り合って、そんでその部隊の真のリーダー決めるってエピソード、あったろ? で、そんなマッチョな軍隊でヨロシクやってた奴らにしか、市民権だか公民権だかが与えられないって世界だ。あんなクソジジイが書く本がビートルズ世代のバイブルだって? だから自由とか解放とか言っていい気んなってる奴らってさ──」
「ビートルズ世代? まあ確かに、同じハインラインの『異星の客』がヒッピー世代のバイブルってことになってはいるけど……。日本のSFファンが彼をリベラルに解釈するのは、いずれにしろ政治的なそんな作品に依ってじゃなくて、『夏への扉』辺りの、あの暖かくてどこか懐かしい、詩的雰囲気に依ってなんじゃないかな。……君、『宇宙の戦士』とか『宇宙の孤児』とか、彼のミリタリーっぽい作品しか読んでないだろ? 『夏への扉』は?」
「前半と後半で人に対する信頼感が百八十度変わっちゃう奴ね。親友にも婚約者にも裏切られて始まった話が、結局サットン夫妻やリッキィとかって義理の娘に全てを丸投げする形で、それでも今度は裏切られずに、普通にハッピーエンドで終わっちゃってる。ご都合主義なんだよ。あの手のクソジジイにはあり勝ちな話だけどね。ミリタリーものでもクーデターなんてことは、余り考えないのかね?」
今牧夫は長い坂道を登っている。
牧夫たちの母校である北蘭学園松井高等学校の坂道のような……。そしてあの『裏野ドリームランド』の坂道のような……。首都圏外縁の山を削って無理矢理建てたある大学のキャンパスに向かっているのだ。そこで孝平が講師をしているという話だった。
情報のソースは尚美。彼女と最後に会ってからすでに二週間以上経過していた。
一向に噛み合わない会話に業を煮やし、彼女は言った。
「結局あなたは優子のことが忘れられないのよ」
ある程度異性関係に慣れている男ならば、ギョッとなってしまうような言葉だっただろう。だが彼は振り返らない。それも彼にとってはいつもの話だったからだ(先の引っ越し話同様……)。そしてそんな話がいつもの話になってしまっていることの深刻さについても、彼は全く理解していないのだった。
「まあ確かに忘れちゃいけないことなんだろうけどさ、それは織作さんが思ってるような意味でじゃないよ」
「じゃあどういう意味で?」
「俺ほんとうに直前になって、『ドリームランド』の話、キャンセルしちゃったろ? まあ早見君にはちゃんと連絡入れておいたんだけど、その早見君も……」
『ドリームランド』で消えてしまったのは、実は優子一人ではなかった。早見純一。二年生の新学期からSF研に入ってきた男子だ。優子に引き摺られるような形で、彼も、そして尚美も、SF研に入ってきたのだった。
「別に俺がいたからって何かできたとは思えないけど、でもやっぱ、自分だけ助かっちゃった感とかって、あるよね」
「そりゃ私だって……」と尚美も続けたが──。
そうなのだ。事件の発端は確かに優子、あるいは牧夫にあるのだった。
彼らはまだ一年生だった。ちょうど寒さが緩みだす頃、牧夫はふいに、優子に声をかけられたのだ。彼は例の図書室ができてからも、日中の休み時間には相変わらず教室で自前の文庫本に読み耽っていた。それに孝平に話しかけられたときは彼自身沈黙の気まずさを感じていたし、「自己紹介ぐらいしておいたほうがいいかな」などと思ってもいたのだが、その日優子に話しかけられたときは、ほんとうに不意打ちだった。
「ねえ、いったいいつも何読んでるの?」
条件反射的に「今は『レンズマン』」と応え、直後ハッとなって顔を上げた。
「重盛さんっ?」
昼休みだった。みなは机を寄せ合い、ワイワイガヤガヤ昼食を楽しんでいる。
──重盛さんもいつもは確か、織作さん、それに早見君たちとグループになっていたはずなんだけど……。
高校生とはいえ当時の片田舎の少年少女だ。男女交際にはセンシティブだ。にも関わらず男女混合のグループができていたのは、クラスの誰もが認めるスクールカースト最上位のグループだったからだ。
まずリーダー格の早見純一。野球部のエースで勉強もでき、彼らのD組ばかりでなくまさに全校のヒーローだった。
次に参謀格の番場大輔。勉強のほうが売りの男子だが、とはいえ牧夫や孝平のように、体育で惨めな思いをすることはなかった。体育祭でも二人三脚やムカデ競争などのコミカルな競技に特化し、それなりに活躍していた。
尚美も口さがない噂を立てられてはいたが、その整った容貌に気づいているのは、何も牧夫ばかりではなかった。彼女と優子とのレズ・シーン。それはクラスの男子たちにとって、やっかみを含みながらも最高の「おかず」でもあったのだった。
そして最後に、牧夫の眼前にとつぜん舞い降りた、この美少女なのだが……。
なぜか優子は純一たちのグループから離れ、ちょうど空いていた牧夫の前の席にかけ、ニコニコ笑っている。思ったより顔が近く、白くキラキラした歯並びが鮮烈だった。息がかかりそうだ。
だがそんな場合、牧夫のようなタイプの男子は、思わず身を引いてしまうのがデフォルトの対応なのだ。
そうして身一つ引いて観ても、優子はかぎりなく可憐だった。黒髪のキューティクルの輝きに、白い歯のキラキラとはまた別の眩しさがあった。眉にかからず、肩まで──。校則すれすれの長さの髪は、毛先が微妙に内側にまるまっていて、いわゆる「聖子ちゃんカット」ではないが、どこかアイドルを思わせる髪型だった。
その髪からリンスが香った。
牧夫はついつい、やはり彼女の吐息も嗅いでおけばよかったな、などと、邪まなことを考えてしまった。そうなるともうとても、自然な会話を楽しむことなどできない。しかし優子は、更に無邪気に話しかけてくる。
「ねえ、なんでいつも、お弁当食べてないの? お母さんが作ってくれない?」
「いや……。ちゃんと昼食代もらってるけど……。その昼食代も、うちから弁当持ってったほうが安上がりだってゆうのを、いろいろ交渉してね……」
優子の視線に、とがめるような眼ヂカラが籠もる。
「じゃあどうして」
「ははは、これに化けて……」
牧夫はそう言い、机の上の文庫本を微かに上げてみせた。
「お弁当代がめちゃってんだ! だめじゃん! それにちゃんと食べたほうがいいよ!」
「いや、家に帰るとすぐ、冷蔵庫の中漁ったり……。それに夕飯とかもガンガンお代わりしちゃうし──」
「規則的に食べなきゃだめなんだよ! だからそんなオジサン体型になっちゃうんだよ!」
いつの間にか優子の声が高くなっていて、クラス中の注目が集まってしまっていたが、牧夫はそれらの視線を感じるばかりで、実際に首を回し、確かめてみることはできなかった。
──織作さんにも見られちゃったかな?
一瞬そんな考えが頭をよぎったが、とはいえそれは、ほんとうに一瞬のこと。牧夫は眼の前のこの美少女との会話をいったいどこに、そしてどのように軟着陸させるかということでいっぱいいっぱいになってしまっていた。
ようやく長い坂道を登り終え、彼は広いキャンパスにでた。夕陽の中、影が長い。高台の風は早くも枯れ草の匂いを含んでいる。
引き続きあの日の記憶を呼び戻そうとしたのだが、今度はつい先日の尚美との会話に、思いが流れて行ってしまった。特に尚美の、様々な執着を黒髪か何かに物質化してしまったかのような、ため息混じりの言葉の群れのほうに……。
「『裏野ドリームランド』ってさあ、妙な噂が絶えない遊園地でさあ……。前にも話したでしょ? 七つの噂のこと……」
牧夫は行為後の寝物語のように、それらの話を聞かされていたのだった。
まず第一に、子供が度々いなくなるという噂があった。優子も純一ももう子供という歳ではなかったが、確かに二人は消えてしまった。まさにその噂の中心。『裏野ドリームランド』で……。
第二にジェットコースターでの事故の噂。問題の事故の内容自体が、語り手によりまちまちで、一向に真実に近づくことができない。
「とうぜん、新聞各紙の縮刷版には眼を通したし、周辺の市の図書館も回って、たいていの地方紙には眼を通したはずなんだけど……」
何もでてこなかったと尚美は言った。それにしても彼女は、大学院まで行って磨いた資料蒐集の技術を、そんなことに使ってしまっているのだ。人伝てでは大学院時代も将来を嘱望されるような学生だったというのだが……。
第三、アクアツアーの不気味な生物の影。
「廃園になる前なん度も通って、もちろんあそこにも必ず入って見たんだけど、それらしいものは……」
彼女の『ドリームランド』通いは高校在学中からすでに始まっていて、前記の才能だけでなく、時間も金も無駄にしてしまっていたのだ。当初はもう一人の園からの生還者、大輔を誘って行くこともあったようだが、結局二人は、喧嘩別れになってしまったようだ。
「番場君さあ、『俺も受験で忙しいんだよ。君だってそうだろ? もうちょっと将来のこと真面目に考えろよ』、なんてゆうんだあ……」
確かにその通りだ。牧夫に言えたことではないが……。
第四の噂。ミラーハウスでの入れ替わり。これに関してはいろいろ気になる証言がでてきた。
「あそこからでてきたあと、別人みたいに変わっちゃった人がいるってゆう話は、結構集められたんだあ……。小学校時代、遠足か何かで『ドリームランド』に行ったあと、とつぜん九九言えるようになっちゃったりとか、漢字すらすら書けるようになっちゃったりとか……」
多くは学習上の改善が認められる変化だったため、余り問題視されなかったのだそうだ。更に、この噂に関しては尚美自身も……。
「私早見君とは幼稚園の頃から一緒だったんだけど、彼も小三の春の遠足のあと、変わったと言えば変わったかなあ……。以前から勉強はできたんだけど、運動のほうはからっきしだったの……。それに内気で、クラスでリーダーシップを執るような人じゃなかった……」
そして──。
「やっぱりこの入れ替わりの話が、何か突破口になるような気がする」
第五の噂。ドリームキャッスルの拷問部屋に関しては、彼女はあっさり流そうとしたが、実は牧夫にも、その理由が解っていたのだ。優子と純一が失踪して半年、二年生の三学期のある月曜日、週末中に彼女が補導されたという噂が流れた。誰も直接確かめたわけではないが、補導の理由は、ドリームキャッスルのバックヤードへの不法侵入だったという。
『織作さん、最近ちょっとヤバくないか?』
そんな言葉がしだいしだいに囁かれるようになった。
加えて彼女は、今なお廃園になった『ドリームランド』への不法侵入を続けている。第六の噂。勝手に回るメリーゴーラウンド。
「廃園前だったら例え閉園時間後であっても、動作チェックか何かかもしれないけど、もし今動きだしたら、ぜったい! なんて、期待しちゃうところもあったんだあ……」
廃墟と化した遊園地に佇み、壊れかけたメリーゴーラウンドを一人見詰め続ける女。いつの間にやら彼女自身が、噂の中の存在になってしまっているような気がする。
最後に第七の噂。誰も乗っていないはずなのに、近くを通ると「だして……」と声がする観覧車。
「私には何も聴こえなかった。優子の声も……。早見君の声も……。でもあなただったら……。ねえ榎本君、お願いだからこっちを見てよ……」




