容疑者。
彩菜はその光景を、全て公に話しました。
「でもなぁ…」
しかし中年男性は言います。
「優しくって言ったって…そりゃぁこの男の作戦かもしれないぜ?」
中年男性は男性を睨んで、男性も睨んでいます。
「でも…」
彩菜が切実に訴えていたその時。
「あのぅ…」
他に静かに見守っていた沢山の乗客の中から、一人の二十代、メガネをかけた男性が話に入ってきたのでした。サラリーマン風の男性は、そろそろと近づいてくると、言いづらそうにぽつりと言いました。
「こんなこと言うのも言いにくいんですけど…」
「何だ、お前」
中年男性が言って、全員の視線がその男性に向けられます。
「あの…ホント言いにくいんですけど。私も見ました、カバンから手を出すところ…」
中年男性は、その一言で、顔を一気に晴れさせます。
「ほらやっぱり!これだけ人が見てるんだ、なぁお前!」
中年男性は観念しろとばかりに、男性をまた締め上げます。
しかし。
「え!いや、違うんです。私が見たのは別の人物がその女性のカバンから手を出すところで…」
…え?
男性の言葉に、聞いていた全員が驚いた顔をしました。
「本当です、本当に見たんです!」
そう言うと、男性はとある二十代の若い男性を指さしました。
「あの方です…」
カジュアルな服装をした、男性。きっと実際はもっと年上なのでしょうか、年齢とは思えない、若い容貌に見えました。
その若い男性は食ってかかります。
「はぁ?ふざけんな、俺はスリなんかしてねぇよ」
「でも、私本当に見たんです…」
言うと、サラリーマン風の男性は尻すぼみに態度を控えます。
でも、と何度も言うサラリーマン男性。そこに、早川が割って入ります。
「まぁ、女性はなにも盗られてはいませんしね…」
「ほらみろ、何がスリだ、人違いもいいとこだ」
若い男性は顔をしかめました。そうしてぶつぶつ言うと、それに、と付け加えます。
「それを言うなら、そこの女だって怪しいぜ?」
別の女性を指さす若い男性。指を刺された女性は三十代の髪を綺麗にカールさせた上品な恰好をした人でした。女性は自分が話題に入ることを予想していなかったのか、急に呼ばれてあたふたしていました。
「とんでもない!何で…私何もしてませんよ、本当です!」
すると若い男性はまた顔をしかめます。
「ウソ付け、彼女のバッグ見てにやにやしてたじゃねぇか」
皆、女性の方に信憑性を持っているのか、若い男性の方を見るので、若い男性は憤慨します。
「何で…俺…違うぜ、ホントに!俺は何にも…!」
てめぇ、そう言う若い男性の気迫に押されたのか、女性は怯えた様子で、一瞬泣きそうな眼をしました。そのせいで益々、若い男性に視線は注がれます。
うーん、と一人、早川は呟きます。
「誰がどうだか…これじゃぁ…」
そう呟いている早川の後ろで、座席に座ったままもう一人の片割れ、連れの樋山は独り、別のものを目で追っていました。